自殺ミシュラン~死神は、桜の木の下で団子を齧る~
及川 輝新
第1話:絶好の○○日和
桜が満開だ。
今年の開花宣言は例年より早く、入学式が始まる頃には本州の桜はすべて散ってしまうだろうと言われている。その代わり、卒業式では若者の門出を彩る、華やかなものになるはずだ。
屋上から見渡す町並みは、新たな季節への期待感に満ち溢れている。制服姿の高校生の足取りはどこかソワソワしていて、かすかに届く笑い声は、いつもより楽しげな気がする。
本日も晴天なり。雲一つない快晴だ。
まさに絶好の自殺日和である。
私はこれから、事故防止用の三メートル超の柵を乗り越え、身を投げる。頭から落ちれば痛みを感じる暇もなく死ねるだろう。ここで躊躇して足から行ってはいけない。最後の最後くらい、ありったけの勇気を振り絞るのだ。
突風が吹き、スカートの前を押さえる。見られる相手なんていないのに。
普段の屋上は出入り禁止になっており、扉は施錠されている。職員室で保管されている鍵がなければここに来ることはできない。
私は生徒会に入ってから、この日に備え教師からの信頼を培い、鍵をある程度自由に持ち出せる関係を築いてきた。三十分もあれば、合鍵を作ることは容易だ。
大きく息を吸い込む。ほんわりと温かい空気が体内に充満していくのがわかる。私はこの季節が好きだ。ほのかに漂う桜の匂いに身体が包まれて、何もしていなくても幸せな気持ちになれる。
だからこそ、今日なのだ。
この日を迎えるために、私は今日まで生きてきた。
高校の卒業式の二日前にして、先にこの世から卒業します。
屋上のちょうど真ん中から、学校の反対側にそびえる丘に向かって歩き出す。すぐに緑色の柵にぶち当たるが、指先を格子の隙間に入れ、上履きの先端も同様にする。右手を伸ばし、頼りない腕力でなんとかよじ登る。頂上で柵を股に挟み、改めて周辺を見渡した。
「すごい……」
思わずため息がこぼれた。自分が生まれ育った街がこんなにもきれいだったなんて知らなかった。高校三年生にもなればある程度のことは既に体験して、感動も新鮮味も薄くなると思っていたが、まだまだ私は子どもらしい。
「死ぬまでが勉強だね」
人生最後の教訓を得て、柵の外側に両足を預けようとした時だった。
誰かが私を見ている。
こんなにもうららかな日和なのに、急に寒気がした。場の空気が一変するかのような、もはや悪寒。
バランスを崩さないように、上半身だけゆっくりと振り返る。
屋上の入り口に、人がいた。
「……何をしている?」
中学生くらいの男の子だった。黒のシャツに同色のジーンズ姿で、身長は百六十センチくらい。アシンメトリーの黒髪で、右目が少し隠れている。
迂闊だった。屋上の鍵をかけ忘れていた。一、二年生の授業は午前で終わりだから、部活に入っている生徒以外は帰宅しているはずだった。部室棟は校舎から独立しているし、こんなところに人が寄りつくはずがないと油断していた。
そもそもこの子は制服を着ていない。在校生の弟だろうか。それとも、今度入学する新入生か。だから屋上が施錠されていることを知らずに立ち寄ってしまったのだ。
「聞いているのか?」
言い逃れをできる状況ではないのは明らかだ。この子だってわかっていて訊いている。
それにしても、やけに口調がふてぶてしい少年だ。
「……自殺だけど」
できるだけ冷たい口調で、突き放すように答えた。
「邪魔しないでくれる? さっさと帰って」
未来ある少年にショッキングな場面を見せるわけにはいかない。中止するつもりはないけれど、これくらい配慮する気持ちはまだ残っていた。
「……ほう、自殺か」
男の子はいたずらっぽく笑い、唇を片方だけ吊り上げた。瞳には加虐の色が秘められている。 まるで蟻を踏み潰す直前のような、攻撃性と支配性に満ちた顔。
「な、何よ」
「理由を教えてくれないか? どうしてこの場所なのだ? なぜ今日という日を選んだ? 飛び降りるのは怖くないのか? 首つりじゃ駄目なのか?」
ニィィ、とでも聞こえそうな唇の角度。
何なんだ急に。取材のように矢継ぎ早に質問をしてくるが、まずは説得するのが普通じゃないの? っていうかさっきからタメ口だし。私の方が年上だよね、たぶん。
返事しちゃだめだ。この子には関わってはいけないと、本能が訴えている。さっさと目的を遂行しなければ。私は慎重に、けれどなるべく早く金網を降り、校舎の縁に立った。
さっきまで穏やかな気持ちだったのに、焦燥感と不安が渦巻いていた。私は出会ったばかりの、年下の男の子に対して、恐怖心を抱いていた。
落下点のコンクリートを見下ろす。あれ、地面ってこんなに遠かったっけ。足がかすかに震えている。急がなきゃ。怖気づいてしまう前に。死ななきゃ。
「おい、質問に答えろ」
声が聞こえた方角を注視する。しかしそれは、背後ではなかった。
私は目を剥いた。
さっきまで屋上にいたはずの男の子が、これから私が衝突するであろう地点に立っていたのだ。どんなに急いだって数十秒で移動できる距離ではない。ましてや彼は息を切らすことなく、先ほどよりもにこやかな表情をしているのだ。
視界がぐわんぐわんと揺れる。ここから落ちて、本当に私は死ねるのか? この現実から逃れられるのか? もはや私の脳みそは正常に機能しておらず、判断力も思考力も限りなくゼロだった。
「無視するなよ」
男の子はねっとりとした声色でささやいた。
私のすぐ耳元で。
「きゃあっ!」
驚愕と動揺とくすぐったさが混ざった、得体の知れない糸が私の足をからめとった。身体の重心が崩れ、不安定になった上半身が大きく揺れる。両足がもつれ、足の踏み場のない場所へと導かれる。斜めになった視界に映っていたのは、男の子の冷たく醒めた瞳と、三日月の形をした唇だった。
がしゃん!
気がつけば私は、十本の指をフェンスの隙間に食い込ませていた。
立膝になり、片方の足は宙をさまよっている。
呼吸が荒い。汗がどっと噴き出す。指が滑りそうになる。口に入った髪が気持ち悪い。柵に縋りつくのが精一杯で、私の代わりに落下したローファーを目で追う余裕などなかった。
茫然としていた私を現実へと引き戻したのは、差し伸べられた華奢な手だった。
「話を聞かせてみろ。自殺志願者」
邪悪さはすっかり消え去っており、そこにいたのは涼しげな顔をした美少年だった。
「あなたは……誰なの?」
ゆっくりと手をとり、私は尋ねた。
「しがないただの公務員さ。死神という肩書きのね」
アシンメトリーの奥の瞳が、一瞬真っ黒に染まった気がした。
それはこの世のどんな黒よりも深く濃い、闇の色だった。
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