第472話 ロイドの憂鬱

 ロイド・ウエルスは今酷い不安に襲われていた。


 その原因の一つが婚約者のガリーナ・テネブラエだ。

 ある日を境に婚約者であるガリーナが、パタリと店にもウエルス家の屋敷にも来なくなってしまった。心配でテネブラエ侯爵家へと連絡を入れてみれば体調不良との返事が返って来た。

 それならば見舞いにと再度連絡を入れたのだが、大切な婚約者に病気を移すわけにはいかないと色よい返事は未だにもらえていない。


 だけれども、もう既に数週間もガリーナに会えていない。

 毎日のように店や屋敷に来てロイドをしっ咤激励してくれていたガリーナの声が聞けないと、酷い焦燥感に襲われる。ガリーナに会いたくて会いたくてただ会いたくてたまらなくて、気が付けばロイドは一人テネブラエ侯爵家の前に佇んでいた。それもここ迄どうやって来たのかも覚えていない程ガリーナの事が頭を占めていた。

 そんな自分自身が怖くてたまらないのだが、それ以上にガリーナに会えない事が辛くて苦しかった。


 ガリーナに会いたい。あの笑顔を、あの声を、そしてあの香りを自分のものにしたい……


 ガリーナに会えないと思うと仕事が以前のようにつまらない物になってしまった。けれどいつガリーナが顔を出すか分からないと思うと、仕事の手を止める気にはなれなかった。つまらない仕事に精を出し、一日の時間が過ぎていくのをただ待つ。


 ガリーナと自分の仲は上手く行っていたはずなのに……


 従業員や使用人の顔を見ても今や何とも思わない。誰かがミスをしようともそんな事どうでも良かった。

 早く時間が過ぎてガリーナが元気になればいい。その為ならば薬や医師を必要なだけ用意するし、特効薬がないのならウエルス商会の全勢力を使ってでもガリーナの為に探し出して見せる。ロイドは本気でそう思っていた。


 今は何よりもガリーナの事が何も分からない……その事が一番の不安だった。



 そしてもう一つのロイドの不安は補佐のコナーが突然消えたことだった。

 ガリーナが病気になると同じころ、コナーは突然ウエルス商会から姿を消した。

 従業員達にコナーの事を聞いても誰も覚えていない。ロイドの最後の補佐はヴァロンタンだったと皆が口をそろえてそう言うのだ。


 自分が可笑しくなったのか? コナーなど本当に最初からいなかったのか? 


 その事をガリーナに聞きたくてもガリーナ自身と連絡が取れない。


 コナーがいた形跡を探してみたが、ウエルス商会のどの書類を見てもコナーのサインなど残っていなかった。でも確かにコナーが居たという実感がロイドには有った。

 だからこそ恐怖を感じていた。コナーの事を覚えているという事は危険な事ではないのかと……もしやガリーナもコナーの件で自宅に閉じ込められているのではないかと……そんな想像までもした。


 それと同じぐらいに不安だったことが、コナーとガリーナが駆け落ちしたのではないか? という疑いだった。


 何故ならコナーをロイドに薦めて来たのもガリーナだったからだ。


 二人が以前から恋人同士だったのならば? ロイドとの婚約は親に従うしかない物で、本当はロイドとの事は嫌嫌だったのではないか? ガリーナはコナーと一緒になりたかったが、それが叶わないならばせめてもと、一緒にウエルス商会で働いていたのではないか? と、そんな想像迄していた。


 だが思いだしてみても、コナーとガリーナの様子にはそんな甘い雰囲気は無かったことは確かだった。


 けれどそれがカモフラージュだったとしたら? 自分を欺くために芝居をしていたとしたら?


 自分を騙し、あの二人が男女の関係にあったのかと思うと、ロイドは激しい怒りに襲われていた。


 それにただのロイドの妄想だが、違うとも言い切れない。あの二人にはロイドには分からない繋がりがある様な気がしていた。


 ロイドはとにかく不安だった。


 誰でも良い、ガリーナの情報を俺に話してくれ……


 ガリーナがいなければ……もう生きていけない……


 苦しくて苦しくて、ロイドはここ最近ぐっすりと眠ることも、食事を満足に摂ることも出来ない状態に陥っていた。


 ガリーナ……君に会いたい……


 ロイドはそれだけを思い続けていた。



 そんなある日、弟のティボールドから手紙が届いた。

 なんでも婚約したらしくその話を兄弟だけでしたいというものだった。ハッキリ言って今弟たちの事などロイドにはどうでも良かった。手紙を見てもなんの感情もわかず、婚約でも結婚でも勝手にすればいいと思っていた。


 けれどそこでもガリーナの事を思いだす。

 ティボールドの妻になるものはガリーナの義理の妹になるという事だ。その相手がどうでも良いという訳にはいかない。ロイドがどんな相手なのかきちんと確認し、見極め、ガリーナの妹として相応しくないのならば、許すわけには行かなかった。


「済まないが……この手紙をティボールド宛に出してくれ……」

「畏まりました。……あの……店長……大丈夫でしょうか?」

「……何がだ?」

「顔色がとても悪いようなのですが……」


 従業員に話しかけられ、自分の様子が可笑しい事を感じた。

 でもここで自分が倒れたら?

 もしかしたらガリーナが駆けつけてくれるのではないか? という考えが浮かぶ。

 従業員には「大丈夫だ」と答えたが、ガリーナが戻って来てくれるのならば、病気になるのも悪くはない、とロイドはそう思っていた。


 実はロイドとガリーナはまだ正式な婚約を結んでいない。

 だから家格が上のテネブラエ侯爵家からこの話は無かったことにと言われれば、ウエルス商会としてはそれに従うしかない。それが尚更ロイドを苦しめる。


 こんな事ならば早く結婚しておけばよかった。


 そう思いながらロイドは頭を抱え、大きなため息をついていた。



☆☆☆


「リアム、ティボールド、大丈夫? 準備はできた?」


 今日はリアムとティボールドが、二人の兄であるロイドと顔を会せる日だ。

 夕方からこの日の為に貸し切ったテンポラーレへ向かう為、二人はいそいそと準備をしていた。


 テンポラーレは本日スター商会で貸し切りにして貰ってある。そこにスター商会の護衛数名と、ベアリン達ディープウッズ家の護衛が、お客のふりをして先にスタンバイしてくれている。オーナーのオトマール・ホフマンはとても良い人で、スター商会の秘密の会合の為ならばと、力を貸してくれた。それもいつでも声を掛けて下さいと有難いお言葉まで頂いてだ。


 今日の料理は他からの嫌がらせが入らないようにと、オーナー自ら腕を振るってくれるそうだ。ガリーナやコナーが毒を盛ろうとしてもこの体制ならばいくら何でも無理だろう。リアムとティボールドの安全はかなり守られていると思う。


 だけどそれでもまだ安心はできない。

 あの人達は人を傷つけることも、貶める事にも躊躇が無い。そんな相手と関係があるロイドに会うのだ。どこまで気を付けていてもキリがないぐらいだった。


「リアム様、何か有ればすぐに連絡を、セオと共に私とマトヴィルが飛んで参りますので」

「マスター、有難うございます。心強いです」

「リアム、ティボールド、これを受け取って」


 残念がら一緒に行けない私は、リアムとティボールドに小さな魔石で作ったブレスレットを差し出した。男の人がはめても可笑しくないようになるべく落ち着いた色合いの魔石を選び、そこに防御の魔法陣を張り付け、私の魔力をたっぷり注いでおいた。


 二人はミサンガも付けているが防御力はこちらのブレスレットの方が格段に高い。ただし、危険な物でもある。リアムとティボールドに敵が攻撃を仕掛けような物ならば、普通の人ならば即死してしまうかもしれない。コナー対策の為に作り上げた物なので、今日のような危険が待っている可能性のあるときしか付けられない物だろう。


 そうリアムとティボールドに伝えると、火がついた爆弾でも渡されたかのように顔が引きつった。「有難う」というお礼を言って居るが、「ララを敵に回すなんて……」と何やらリアムはブツブツと呟いていた。ティボールドはクスクスと笑い、使わなくて済むようにするからと約束をしてくれた。

 私の大切な二人に何もなければいいとそう思った。





 リアムとティボールドを乗せた馬車は順調に進み、兄ロイドと会う約束をしたテンポラーレに時間よりも早めについた。店の中を見渡せば客のふりをしたベアリン達やニール達の姿があった。目配せでよろしくと伝え、リアムとティボールドは指定の席へと向かった。


 今日のリアムとティボールドの護衛は、前回ウエルス邸へ行った時と同じメルキオールとジュリアン、それにティボールドの護衛のディエゴだ。三人の護衛の表情は真剣そのもので、警戒をどこまでしてもキリがないほど、相手の実力が上であることはここにいる皆が分かっていた。

 数年前のセオが全く歯が立たなかった相手、それがコナーだ。ここにいる誰もがセオには未だに敵わない。成人したセオとは実力の差を益々感じるぐらいだ。だからこそ警戒は怠らない。それに自分たちにはララが作った魔道具がある。それが安心材料の一つでもあった。


 ロイドは時間丁度に店に現れた。

 馬車には御者以外誰もいない様で、たった一人で店に来たことがそれで分かった。兄弟だけでの話し合い。だからこそ一人で来たとは思うのだけれど、コナーやガリーナがどこかに隠れていないとは言い切れない。


 そしてそんな警戒の中、リアムとティボールドは目の前に座ったロイドを見て驚いた。


「……待ったか?」

「……ああ、いや、全然、それに約束の時間よりもまだ早いし……なっ、ルド」

「……うん……そうだね……全然待ってないよ、大丈夫……それより……兄上……何か有った?」


 目の前に座るロイドは酷く痩せていて、顔色も悪い。

 目に下には隈が出来ているし、頬もこけている。それに手も足も微かに震えているし、目もうつろな感じだ。けれど神経だけは研ぎ澄まされているのか、店内に聞こえてくるちょっとした小さな音にも反応してキョロキョロとしている。


 以前のあのぞんざいな態度のロイドの姿も、ガリーナに魅了されているような姿も、今のロイドにはどちらも見られない。まるで病人がどこからか抜け出してきて、連れ戻されるのを怯えているかのようだった。

 その余りのロイドの変わり様にリアムとティボールドだけでなく、後ろに控える三人の護衛たちまでもが息をのんでいるのが分かった。それだけロイドの変わりようが酷いという事だ。


「何もない……何もないんだ……何もないから困る……困るんだ……俺はどうすればいい……俺は……俺は……」


 急にブツブツと喋り出したロイドを見て、リアムとティボールドは顔を見合わせた。

 この症状が絶対に可笑しい事だけは分かる。ティボールドはリアムを見て頷くと、ロイドの手に自分の手を重ねた。


「兄上、悩みがあるなら聞くから話して欲しい……僕たちは兄弟だろう?」


 ティボールドの言葉を聞くと、ロイドの目からは大粒の涙が流れた。


 兄が泣く姿など二人は初めて見たかも知れなかった。


 あれ程憎かった兄だけれど、今は放っておくことが出来ない。

 やはり自分たちは兄弟なのだなと、改めて実感したリアムとティボールドだった。

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