bite the bullet4
七月九日、木曜日。午後八時。私はファイルを閉じると本棚に片付け、そのままの足でソファーの方へ近付いた。
「店長、今日ちょっと早く帰っていいですか?」
「いいけど何かあるの?」
「えーっと、その……」
この三日間でわかったことだが、ストーカーは私の家がある地区の境界あたりで私を待ち伏せしているようだ。なら今日は帰る時間を一時間早めてみようかと思う。しかし何故早く帰りたいのかと聞かれると、その言い訳を考えるのを忘れていた。
「ちょっと用事が……」
「こんな時間から?」
「実を言うと見たいテレビがあって……」
「このテレビで見ればいいじゃん」
「そ、それは……」
私が答えに詰まると、店長はジトーッとした目で私を見た。
「何か怪しいなー」
「あ、怪しくなんかないですよ」
「怪しくないならちゃんと言ってみ?」
「う……」
おそらく店長は、私が言い淀んでいるから気になるだけで、私が早く帰りたい理由をどうしても知りたいわけではないだろう。私が言いたくなさそうにしてるから言わせたいのだ。こいつはそういう奴だ。
私はソファーにストンと腰を下ろした。この際だからストーカーのことを店長に相談しようと思ったのだ。もしかしたらいいアドバイスをくれるかもしれない。悲劇のヒロインを気取るのが嫌だから知り合いには言いたくないのだが、店長に言ったところでまぁどうって事ないだろう。
「あのですね店長。今から真剣な話するので真剣に聞いてくださいね」
「それ面倒臭い話?ならやっぱいいや」
「ちょっと!ここまで来たらちゃんと聞いてもらいますからね!」
「聞かなきゃよかった」という顔をする店長を、私はキッと睨むように見た。しかしすぐに深呼吸をして気分を落ち着かせる。それからなるべく真面目な顔を作った。
「あのですね、にわかには信じられないかもしれないんですが、そのですね、何と言いますか、ここ三日間ストーカー被害を受けていまして」
「誰が?」
「私がですよ!わざわざ言わせないでください!」
意識して真面目な顔を作っていたはずなのに、店長と話してるとどうしてこう締まりがなくなるのか。事実私は今とてつもなく大事な話をしているのに。
「そりゃ信じられないのもわかりますけど。私だって信じられませんよ。もっと可愛い子狙えばいいのに、どうして私なんか」
「雅美ちゃん自分が思ってるより可愛いと思うよ。顔は」
「全然褒められてる気がしないんですが」
「褒めてる褒めてる」
普段どうでもいい話しかしないからか、店長と話しているとどうしても真剣味が薄れてゆく。私はテーブルをバンバン叩いて空気を引き締めた。
「せっかく話したんですから、何かアドバイスくださいよ」
「って言われても詳しい状況知らないし」
「わかりました、それも説明しますから真面目に聞いてくださいね」
私はこの三日間の出来事を順を追って説明した。
「これ以上相手の行動がエスカレートする前にどうにかしたいんですよ。何とか諦めてもらう方法考えてください」
「その前に自転車直せば?」
「こうやって毎日バイトに来てるから直す暇がないんですよ!」
「面倒臭いだけなのに仕事のせいにするー」
「店長!いい加減真面目に取り合ってもらえますか!」
私は怒鳴った勢いで腰を上げると、店長もソファーから立ち上がった。私は何事かと店長を見上げる。
「要するに僕が送ってけばいいんでしょ?もっと早く言ってくれればいいのに」
店長はそう言ったが、そんなことバイト先の人に報告するようなことではないと思う。むしろ「面倒臭いもん持ち込んでくんな」くらい思われそうだ。バイト先の人間なんて基本的には赤の他人になのだから。
時計を見たらもう八時四十五分だった。引き戸を開けて店を出て行った店長を見て、私は慌ててその後を追いかけた。
店から私の家までは車だと五分ちょっとしかかからない。私が助手席に座ったことを確認すると店長は車を発進させた。走り出してすぐ、先程の話の続きを振ってくる。
「そういえば親には言ってないの?」
「いや……何て言うか親には……心配かけたくないもので」
「ふーん。そういうもんなのか。まぁ確かにそうか」
もしも店長が女性だったならこの答えには納得できなかっただろう。たしかに親に心配をかけたくないという気持ちはあるが、言わないなんて普通はおかしい。だが私が親に説明しない理由を正直に話すと、私の親が店のことを良く思っていないことを言わなければならないのだ。それはあまり気が進まない。私は店と家のことは切り離して考えたいのだ。
「店長、やっぱり明日自転車直しに行くんでバイト少し遅れます」
「りょーかい」
明日の放課後、近所の自転車屋さんに寄ってからバイトに行こうと思う。おそらく明日中には直らないだろうが、毎日送ってもらうのは気が引ける。
いつもの道を通らず大きく迂回して来たので普段より少し時間がかかったが、やはり車だとすぐに家に到着した。先日お母さんに見られていたことが気になったので、私の家の数メートル先で降ろしてもらう。
「ありがとうございます、お疲れ様です」
「お疲れ。また明日ね」
この場所ならもしお母さんが窓の外を見ていても私に気付かないと思うが、念には念を入れて店長にはなるべくさっさと帰ってもらう。送ってくれたのに申し訳ないが、私にも事情というものがあるのである。
店長の車が去って行くのを見送ると、私は家までのわずかな距離を歩いた。そして玄関を開け、まるで数十分歩いてきたような疲れた顔で母に「ただいま」と言った。
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