明日に名前でもつけて
五月二十二日。金曜日。今日は四限目から学校へ行き、全ての授業が終わると早々に学校を後にした。昨日のドリームランドの疲れがまだ残っていて、教授の話にほとんど集中できなかった。
「あっ」
南鳥駅から朱雀店に向かっている途中で私は足を止めた。そうだ、今日はバイトを休んでいいと言われているんだった。
私は来た道を引き返した。駅を出たら店に行くのがもう癖になっている。駅の前を通り過ぎて、自分の家を目指した。
「ただいま~」
玄関のドアを開けて家の中へ入る。するとバッグを持ったお母さんがリビングからひょっこり顔を出した。
「おかえり雅美。今から夕飯の買い物行くんだけど、何か買って来るものない?」
「あ、あれ買ってきてほしい。春日野ののんがCMでやってるポテトチップス」
私は靴を脱ぎながら答えた。私の返事にお母さんは少し眉を寄せた。
「そんなのお母さんわからないわよ。CMなんてちゃんと見てないもの」
「ほら、あれだよ。さっくりさっくりさっくさく~って歌ってるやつ」
「あのねお母さんはね、毎日毎日ご飯作ったり掃除したり洗濯したりでテレビ見てる暇なんて……」
「はいはいはいはい、わかってるって」
こうなったらお母さんの話は長い。私は早々に母の話を打ち切った。お母さんは「わかってるって言ってもね、実際私の立場になってみたら……」とぶつぶつ言いながらこちらに近づいてきて、靴に足を突っ込んだ。
「お母さんそのポテトチップスわからないから雅美もついてきなさい」
「えー。私疲れてるんだよ?」
「あんた今日学校昼からだったじゃない。疲れてるのは夜通し遊んでたせいでしょ」
今度は私がぶつぶつ言う番だった。しかしお母さんがついて来いと言っているのだ、たとえ「じゃあポテトチップスはいいや」と言ってもついて行かなければならないだろう。お母さんは私と一緒に買い物がしたいのだ。
「わかったよ。荷物置いてくるからちょっと待ってて」
私は二階の自分の部屋にバッグを置き、財布とスマホだけにぎりしめて階段を駆け降りた。三分もかかっていないはずだが、お母さんは「遅い」と言いたげな顔で玄関に立っていた。
私とお母さんが向かったのは、車で五分程の場所にあるスーパーマーケットだ。小さくもなく大きくもない普通のスーパーで、野菜が新鮮だと近所の評判がいい。
スーパーに入ってすぐお母さんがカートに手をかけたので、今日は買い込むつもりだなと思った。おそらく数日分の食材を買いだめする予定だろう。
「今日は夕飯何作るの?」
「買い物しながら決めようと思って」
カートを押すお母さんの隣に並んで店内を歩く。まずは野菜コーナーからだ。お母さんは入ってすぐの場所に置いてある、今日の目玉商品のさくらんぼを手に取っていた。しばらく眺め、さくらんぼをカゴに入れる。
「お母さん、今日ほうれん草安いよ」
「あらそう?じゃあ買っとこうかしら」
私はほうれん草をひとつ、お母さんが押すカートに乗っているカゴに入れた。そして顔を上げて驚く。視線の先に、ほぼ毎日のように見ている後ろ姿を見つけたのだ。
「あれっ、てん……」
そこまで呟いて慌てて口を閉じる。隣を見ると、お母さんが不思議そうな顔で私を見ていた。
「てん……どうしたの?」
「て、てん……てん……」
私は脳みそをフル回転させた。あの後ろ姿は間違いなく店長だ。間違えるはずがない。店長はここから三メートルほど離れた場所のブロッコリーの棚の前でこちらに背を向けている。
お母さんは私の仕事をあまり良く思っていない。辞めてほしいとさえ思っているはずだ。仕事内容は詳しく話していないが、たまに怪我をして帰って来ることがあるし、年末年始含めほぼ休み無しだ。さらに私は親にバイト先の場所も教えていない。こんなの怪しくない仕事なわけがない。自分の娘がそんな仕事をしていたらそりゃあ心配するだろう。
問題はこの状況だ。店長が私に気が付けば、もちろん声をかけて来るだろう。ならお母さんはこの人は誰だと尋ねるはずだ。そしたら何て説明する?仮に上手くごまかせたとしても、店長が自分は私のバイト先の人間だと名乗ったらどうする?お母さんが仕事内容や店の場所を根掘り葉掘り聞き始めたらどうなる?
「て……、天ぷら!お母さん私天ぷらが食べたいから天ぷら粉見にいこ!」
「天ぷらにするならサツマイモとカボチャも買わないと……」
「いいから!まず天ぷら粉見に行こうよ!」
私はお母さんの手からカートを奪い取ると、なるべく商品棚に隠れながら野菜コーナーを離れた。
粉類の棚の陰から野菜コーナーの様子を伺う。先程の場所にはもう店長はいなかった。今はこの店内のどこにいるんだろう。私は今すぐ帰ってしまいたかった。
「ねぇ雅美、これとこれ、どっちの粉がいいと思う?」
お母さんの声に振り向くと、彼女は二つの天ぷら粉を手に持って私を見ていた。
「いつも使ってるのはこっちなんだけど……。ほら、こっちは今なら五十グラム増量だって」
「いつもの方でいいよ」
どうせ粉変えても味の変化はよくわからないだろうし、という言葉は飲み込んだ。しかしお母さんは私の投げやりな答えに少し気を悪くしたようだ。
「何なのもう。雅美が天ぷらがいいって言ったんじゃない」
結局お母さんはいつもと同じ天ぷら粉の方をカゴに入れた。お姉ちゃんが一人暮らしで家を出ている今、私の家は四人家族だ。天ぷら粉もそんなにたくさんいらないだろう。それに増量タイプの方は二流メーカーだし。
「雅美、ポテトチップスは買わなくていいの?お母さんこの辺にいるから取ってきなさい」
「はぁ~い」
私は辺りを警戒しながらお菓子コーナーへ向かった。まぁ、店長はさっき野菜コーナーにいたんだから、まだこの辺にはいないだろう。
お菓子コーナーへの角を曲がって、私はすぐに回れ右をした。自分の反射神経を褒めてやりたかった。
私がそっとお菓子コーナーを覗くと、ポテトチップスの棚の前に店長が立っていた。幸いこちらには背を向けている。しかしよりにもよって何故このコーナーに……。
しばらく観察していると、どうやら店長は一人で来たわけではないらしい。店長の右隣りにもう一人立っている。私からは店長に隠れてよく見えないのだが、身長はそんなに高くない。百六十センチくらいだろうか。もう五月でだいぶ暑くなってきたのに、ぶかぶかのカーディガンを着ている。パーマをかけてふわふわにした髪は少し青みがかっていて、肩につくくらいだった。
何か楽しげに話しているようだが、ここからじゃ会話が聞き取れない。私はそっとその場を離れてお母さんのところに戻った。
「あら、雅美。ポテトチップスは?」
「なんか置いてないみたい。ほら、新商品だから」
本当は売っているか確認できなかっただけなのだが、私はとっさにそう嘘をついた。
「そのかわりほら、こんなクッキー見つけたから後で一緒に食べよう」
私は店長達がいた棚とは別の棚からテキトーに取ってきたクッキーをカゴに入れた。
「ねぇお母さん、今のうちに野菜を見に行こう」
「今のうち?」
「あ、いや……。とりあえず、野菜売り場にレッツゴー!」
野菜売り場でお母さんはサツマイモとカボチャ、それと数点の野菜をカゴに入れた。他にもバナナやキウイなどの果物もカゴへ入れる。
「雅美、朝バナナ食べるでしょ?二ふさ買った方がいいかしら?」
「ひとつでいいよ」
私は先程同様、どうせ私しか食べないしという余計な言葉を飲み込んだ。お母さんを不機嫌にさせるような言葉は極力避けたい。ちょっとの事ですぐ腹を立てるんだから。
「お母さんもう買い物済んだ?」
「まだお豆腐と油揚げも買いたいし、卵もそろそろ無くなってたし、あと……」
「わかった、すぐ買ってすぐ帰ろう!」
「どうしたの雅美。そんなに急いで」
「お腹ペコペコなんだ!早くお母さんの作ったご飯が食べたいな!」
「まぁ、そうなら早く言ってくれれば良かったのに」
お母さんはあからさまに機嫌をよくしてカートを走らせた。豆腐や卵、それからパンなども買ってさっさとレジに並ぶ。お母さんは普段一回の買い物に三十分以上、長い時は一時間かかるが、今日はなんと二十分で終えることが出来た。私の頑張りの賜物だろう。
お母さんがレジに並ぶと、私は「もう一回だけポテトチップス確認してくるね。お母さんはレジに並んでて」と言ってレジを離れた。レジの周りには隠れる場所がないので、ここで店長に見つかったら今までの努力が水の泡だ。
周りに警戒しながらお母さんがレジを済ますのを待つ。私はお母さんが袋詰めを終えたタイミングを見計らって棚と棚の間から出た。辺りに店長も見当たらないし、今のうちにさっさと帰ろう。
「お母さんお待たせ。やっぱりポテトチップスなかったから帰ろっか」
「そう?また来た時に買いましょう」
「そ、そうだね……」
私がお母さんとこのスーパーに来ることはおそらくもう無いだろう。このスーパーは私の家と店のちょうど間くらいにある。店長が日常的にこのスーパーを利用している可能性は高い。私一人で買い物に来たのならむしろこちらから話しかけるくらいだが、お母さんといるところを見つかるのは避けたい。
車の荷台に買い物袋を乗せ、私達は車に乗り込んだ。お母さんが車を発進させる。
「そういえば見た?店の中に変な髪の毛の色した人がいたの」
「ふぇっ!?」
「何か青みたいな色に染めててね、もうひとりなんて銀色に染めてたのよ?親に貰った身体を何だと思ってるのかしら。お母さんね、ああいうの見たらこうムカムカっとしてきて、ほんといい歳してああいう人達は……」
「わかったわかったわかったから、私もお母さんに同感だよ」
本当に、本当に見つからなくて良かった。ただでさえ低いお母さんの店に対する評価が地に落ちるところだったよ。
家に帰るとお母さんは張り切って天ぷらを揚げた。その間私はソファーでダラダラとテレビを見て、しばしの休憩を楽しんだ。今日は学校でチョコレート菓子をつまんだから、本当はあまりお腹が空いていないのだが、お母さんにああ言った手前美味しそうに夕飯を食べなければならないだろう。
お母さんが親切にも私のお皿にたくさん天ぷらを乗せてくれたので、私は満腹の気持ち悪さと胃もたれの気持ち悪さを同時に味わうハメになった。
私がちょうど夕飯を食べ終わった時、お父さんが仕事から帰ってきた。お父さんが勤める会社はは家から近い場所にあるので、帰ってくる時間も早めだ。私はお父さんが使うと思ってテレビの前のソファーから立ち上がる。そのまま自分の部屋へ行こうとしたら、リビングへ入ってきたお父さんが話しかけてきた。
「ただいま雅美」
「おかえり」
「昨日はずいぶん遅く帰ってきたみたいだな」
その言葉に、私は「説教か……」と内心うんざりした。お父さんはあまりうるさく説教をする方ではないので完全にノーマークだった。説教をするならむしろお母さんだと思っていた。
「友達とカラオケに行ってたから……」
「カラオケもいいが、あまり心配させないでくれよ」
「わかってるよ」
話は終わりというアピールで、私はお父さんの横をすり抜けてリビングから出た。そのまま二階に上がってしまおうと思ったが、さらにお父さんが声をかけてくる。
「雅美、これからはどこに住んでいる誰と遊びに行くのか、ちゃんと言ってから出かけなさい。あと、そのお友達の家の電話番号も書いて冷蔵庫に貼っておくこと」
「えー。私もう大学生だよ?そこまでしなくても大丈夫だよ」
「いいからそうしなさい。遅くなる時だけでいいから」
「はぁ━━い」
私の不満げな返事を聞くと、お父さんはリビングの奥に消えた。同時に皿がカチャカチャと鳴る音が聞こえ来て、私とお父さんが会話している時お母さんが皿洗いの手を止めていたのだと知った。私は少し気分を悪くしながら自分の部屋に駆け上がった。
ベッドにダイブしてイライラを鎮めようと努力する。枕に顔を埋めてじっとしていると、だんだん落ち着いてきた。
それにしても、お父さんはどうして突然あんなことを言い出したんだろう。一晩家に帰らなかった日はなにも昨日だけではない。その理由が仕事にせよ友人との遊びにせよ、今までに何度もあったのに何故今日言ったのか。
私は少し不安になった。もしかしたら━━というか多分、私の嘘がばれているのではないだろうか。友達の家に泊まると言って仕事をするのは、親に更なる職場への不信感を与えただろう。だからといって仕事をするから泊まると言っても、認められないから断ってこいと言われそうだ。
しかし、先程のお父さんとのあの約束、あんな約束をしてしまったら今後仕事がやりにくくなる。昨日のような夜遅くまでや夜通しの仕事が来たとき、いちいち友達にアリバイ工作を頼まなければならないのだ。そしてもし本当にお父さんやお母さんが友達の家に電話をかけて、相手の親が正直に私は家に来ていないと答えたら……。そうなると一人暮らしのにっしーに頼むのが得策だろうが、何度もにっしーの家ばかりに泊まるのもおかしい。夜通しの仕事が連続で来たらにっしーは頼れない。
「う~……ん」
こうなったら今から交遊関係を広げてアリバイ工作を頼める友人を増やすか……。私の友人は実家暮らしの人ばかりだ。なんとか一人暮らしの友達を増やすしかない。
「あっ」
でも、そもそも私の親が私に電話を代われと言ったらそこでアウトなのだ。リアルタイムで親と会話するなら私の声を録音する手も使えない。今風呂に入ってるという言い訳も、毎回毎回電話したタイミングで風呂に入っているのはおかしいし、かけ直せと言われたら終わりだ。
「う~~……ん」
私はゴロンと寝返りを打って仰向けになった。ダメだ、いい案が思い浮かばない。明日店長にでも相談してみよう。
ベッドでごろごろしていたらだんだん眠くなってきて、私はそのまま目を閉じた。
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