それを奇跡と呼ばず何と呼ぼう5




この店は土足のまま上がるので、木製の床には泥や土がこびりついている。私はそれを店の奥から入り口にかけてほうきで掃き出していた。というか、この店はちゃんと毎日掃除をしているのだろうか。泥のこびりつき方を見ると一朝一夕ではこうはならない気がするのだが。

後で水拭きもしないと汚れ取れないな、などと考えながら掃除を続けていると、ついにカウンターの横まで来てしまった。今までお互い無干渉できたが、これからの仕事のしやすさを考えると、やはり仲良くなっておいた方がいいだろう。

横目で男の子を観察する。高校の制服を着ている。グレーのズボン、深いネイビーのニット、臙脂色のネクタイ。薄茶色の長髪を、頭の高くも低くもない位置で一つにまとめている。髪を解いたらうなじの下くらいまではありそうだ。座っているからわかりにくいが、背は百七十前半程だろうか。顔は特別イケメンというわけでもない。どちらかというと少しタレ目で、つまらなさそうな無表情で本を読み続けている。

私は床をほうきで掃きながらさりげなくカウンターに近づいた。更にさりげなさを意識して男の子に声をかける。

「それ、何読んでるの?」

会話を続かせるには、まず必ず答えがある問いを用意する。特に本の話題なら、有名な人の本だったら「私も読んだことある!」って言えるし、マイナーな本でも「どんな内容なの?」と言えば会話は続く。完璧な計画に完璧な質問だった。

男の子は私の質問に答えるように、カバーをめくって本の表紙をこちらに見せた。そこに書いてあった文字は、【仕事ができる人できない人 著者:津島三郎】。

「そ、そうなんだ……」

それしか言えないでいると、男の子は会話終了とばかりに読書に戻った。私はほうきを左右に動かす作業に没頭するふりをする。

よ、予想外だった……。普通にストーリー性のある物語的な何かを読んでいるのかと思っていたが、まさかビジネス書だったなんて……。

それにしても、なぜ彼は一言も喋らないんだ。コミュ障なのかとも思ったが、ちゃんと目を合わせてくるのでそういうわけでもないらしい。孤独を愛しているタイプなのか。

それとも、急にタメ口になったのが気に障ったとか?男の子は制服を着ているからたぶん高校生だし、私は高校三年生なのでだとしたら同い年か年下、年上ということは絶対にないと思ってタメ口に切り替えたのだが、失敗だったか?

悶々と考えながら集めた土を店の外に吐き捨てる。引き戸を閉めて振り返ると、彼は私なんてまるで気にしていない様子で本を読んでいた。

「ねぇ、名前は何て言うの?」

掃除も一区切りついたし、名前を聞いておくなら今しかないだろう。ずるずると引っ張ると自己紹介のタイミングを逃してしまう。

「瀬川陸(せがわりく)」

「私は荒木雅美、よろしくね」

「…………」

……感じ悪ぃ~~っ。

「年はいくつなの?」

「十六」

「そうなんだ、私は高三なんだー」

「…………」

「どこの学校に通ってるの?」

「野洲高」

「へぇ~、バイト先近くて便利だね」

「…………」

「…………」

「…………」

私はバケツと雑巾を取りに行くために店の裏へ向かった。

私、彼と仲良くなるのは諦めます。







「座敷わらしって言うから女の子だと思ってたんですけど」

「ごめんごめん。ていうか初日から会えるなんてラッキーだったね!」

「私あの人と仲良くなれる自信がないです……」

雑巾で床を水拭きしていたら突然瀬川君が立ち上がって、何も言わずにすたすたと店の奥へ行ってしまった。「?」を浮かべながらも重苦しい空気から解放される!と喜んでいたら国見さんと花宮さんが出勤してきて、さっそく彼について愚痴をこぼしていたというわけだ。

「俺なんてあの子の存在に気づいたのバイト始めて二週間後だったぜ?」

「それはあんたが鈍すぎ。でもまぁ私でも三日かかったけど」

「表の自転車誰のなんだろうなぁとは思ってたんだけどな」

「そうそう、店長も紹介とかしないし」

「つうか黙ってる店長も悪いよな」

「こんな子もいるって一言くらい言っててくれても良かったのに」

国見さん達の会話を聞いていると、どうやら私にだけでなく他の人にもああいう態度らしい。初対面から嫌われてしまったわけではないのだと知ってホッとしたが、これではますます瀬川君と仲良くなれる気がしない。

「そういえば、国見さん達より瀬川君の方が仕事始めるの早かったんですか?」

「ああうんそうだね。だいぶ長いらしいよ」

「あんまり話さねーから詳しくは知らないけどな」

「ちなみにあたしが一年九ヶ月、で健太が一年一ヶ月……だっけ?」

「おう」

こんな立ち話をしているうちに店長が帰ってきた。引き戸のガラガラという音に振り返ると、片手にビニール袋を提げた店長が立っていた。そのビニール袋に国見さん達がさっそく食いつく。

「店長それ何?」

「食い物スか?」

「隣のおばちゃんに貰ったの」

店長が手渡すよりも早く袋を引ったくった国見さんは、中身のシュークリームに目を輝かせていた。それを花宮さんが横から更に引ったくる。店長はそんなことは気にも留めていないらしく、不思議そうな顔で店内をキョロキョロと見ていた。

「何か店綺麗になってない?」

「え?」

「あ、ホントだ」

シュークリームを奪い合っていた二人も、店長の一言に店の中を見回す。立ち話の最中も私の手にはずっと雑巾があり足元には水の入ったバケツが置いてあったのだが、どうやら先輩二人は今気づいたらしい。

「何をしたらいいかわからなかったんでとりあえず掃除をしておきました」

「マジか。こんなやる気ある子久しぶり」

いったい今までの従業員はどんな態度だったのか。国見さんは「すごい!この子は賢い!」と言いながら私の髪の毛をわしゃわしゃしている。

「そういえば、お客さんがいない時って何しとけばいいんですか?」

乱れた髪の毛を手櫛で直しながら店長に尋ねる。店長は「うー……ん」と一瞬考えるそぶりを見せたが、

「すること無いし何もしなくていいんじゃない?」

と笑顔で答えた。今度こそため息が出た。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る