自分の気持ち、はっきりと2
「この暖簾でしょ?」
「そうそうこれこれ!お母さんありがとう~」
玄関で母から暖簾を受け取り、タクシーの中で待っていた一郎さんに手渡す。一郎さんは愛おしそうに暖簾を広げた。
「大事な暖簾だったんですね……。すみません、勝手に変えてしまって……」
「いいんですよ。こうしてまた私に顔を見せてくれたのですから」
そう言って一郎さんは優しく暖簾を撫でた。
生地の良し悪しなど私にはわからないが、そんな私から見てもこの暖簾はどう見ても安物だ。厚みのない生地に、ありきたりな菊の模様。それでもこんなに大切なものなのは、おそらくこの暖簾の価値が値段じゃなく思い出だからだろう。
一郎さんとこの暖簾の間には、どんな思い出があるのかな。そう考えていたら、突然タクシーが停車した。もちろんまだ朱雀店にはついていない。
「あれ?ここグルービーですよ?」
タクシーが停車したのは、店の近くにあるグルービーというファミレスだった。お昼時の駐車場はたくさんの車で埋まっている。
「実は、今日は荒木さんに一つお話がありまして。せっかくなのでここで食事をしながら話しましょう」
「は、はぁ……」
いったい話とは何だろう。店長の日頃の様子とか聞かれるのかな。一郎さんは料金を支払い、タクシーを降りた。私もそれに続く。
ファミレスはお昼時で混んでいたが、運よくすぐに席に座れた。一郎さんが私にメニューを見せる。
「荒木さんは何を食べますか?」
「私はまだお腹が空いてないので、デザートにしておきます」
お腹が空いていないというのは本当だ。基本的に朱雀店のお昼ご飯は二時だし、それにあわせて朝食を食べてきているので、十二時前の現在はまだ全然お腹は空いていない。
だがそれよりも、おそらくこの会計は一郎さんがすることになるだろうからあまり沢山食べたくないというのが本音だ。事実私は財布を店に置いてきているし、一郎さんも私の分まで払うつもりでいるだろう。
「それでは私はこのあんみつを貰いましょうか」
「じゃあ店員さん呼びますね」
私はテーブルの上にあったベルを押した。やって来た店員にあんみつとプリンアラモードを注文する。おそらくこの店員さんには、孫とおじいちゃんが食事に来たと思われているんだろうな。
注文した品がくるまで雑談と呼べるような話をする。最近の仕事はどうですかという問いに、私はいつも通りと答える他なかった。
デザートを食べ終わって一口水を飲んだあと、一郎さんは本題に入った。
「先月の二十五日ですが、蓮太郎が何をしていたか覚えていませんか?」
「先月の二十五ですか……」
確か瀬川君が腕をケガしたのが二十六日だったから、その前日……。私は記憶を辿ってなんとか思い出そうとする。
「あれ?もしかして私その日店長に会ってないかもしれません」
何度思い返しても、その日店長の顔を見た記憶がない。放課後店に行くといつも通り瀬川君が店番をしていて、それを交代して退勤時間までずっとファイル整理をしていたはずだ。店長が帰って来たのはおそらく私が帰った後だろう。
そのことを一郎さんに伝えると、一郎さんは「そうですか……」と言っただけだった。
「あの、瀬川君に聞いてみましょうか。瀬川君なら店長に会ってるはずですから」
瀬川君が出勤してくるまでの店番は店長がしているはずなので、瀬川君なら確実に店長に会っているはずだ。まぁ稀に店長がどっか出かけちゃって無人状態の瞬間があるにはあるが。それでも、瀬川君の帰りは私よりずっと遅いので、どちらにしろ店長とは会っているだろう。
そう考えての提案だったが、一郎さんは首を横に振った。
「いえいえ、少し気になって聞いてみただけですから。それより荒木さん、あなたは二十五日が何の日だったか覚えていますか?」
「二十五日?……あ。もしかして店長会議ですか?」
そう答えると、一郎さんは「その通りです」と頷いた。花音ちゃんに聞いた情報がまさかこんな所で役に立つとは。確か店長会議は基本的に毎月二十五日と言っていたはずだ。
「一月の会議には荒木さんも来てくれていましたね」
「はい、どうしても行きたくて無理を聞いてもらったんです」
「では、先月の会議に来なかったのはどうしてかわかりますか?」
「それは……。やっぱり、無理矢理連れ出す理由がないとダメということじゃないでしょうか……」
何故私にこんなことを聞くのだろう。おそらくこんなこと私に聞かなくても一郎さんはわかっているだろうし、だからこそ一月の会議は轟木さんのことを理由にして無理矢理出席させたんだろうし。
一郎さんはやっぱりわかっていたらしく、「そうですよね……」と呟いた。
一郎さん的には店長に会議に出てもらいたいのだろう。店長が会議に行かないことについて私は今は何とも思ってはいないが、普通に考えればやはり出るのが当たり前なのだ。
「今日来たから次も来るなんて、そんな簡単な事をする子じゃないとわかっていながら期待していました……」
「はい……」
何とも言えない気持ちになる。正直私は、一月の会議に出たからってそれ以降ずっと出席し続けるなんて微塵も思わなかった。だからこそあの時自分も会議に行きたいと躍起になったし、このチャンスを逃したら次はないと思った。
しかし、店長がまた来ることを一郎さんは少なからず期待していたのだ。おそらく頭では理解している。次は来ないことを。それでも、また来るという半分願望みたいな期待があったのだろう。
「蓮太郎は、店で家族の話をしたりはしますか。私や荷太郎のことは」
「そうですねぇ……。あんまり聞いたことがないかもしれません……。あ、でも、お兄さんの話はたまにしますよ。私が振ったらですが」
「そうですか。蓮太郎は何と言いますか?」
「うーん……」
「あまり良くは言いませんか」
「いやいやそんな」
とは言ったが、あまり良くは言わないのが事実だ。私の「いやいやそんな」も、嘘だということは一郎さんにもバレているだろう。
一郎さんはテーブルの上で組んだ指の皺をゆっくり撫でながら言葉を探した。
「仕事はきっちりやってくれるのですがね。家に寄り付かなくて」
「詳しくは聞いてませんが、あまり関わりたくないというような事は前に言っていました、そういえば」
「そうでしょうねぇ。本部へ来る機会は多いのですが、うちには顔を出しませんからね。上手いこと私にも会わないようにするんですよ」
そう言って一郎さんは、指の皺に小さなため息を落とした。店長が家を苦手になったのはわかるが、こうなってくると一郎さんが可哀想に思えてくる。
「店長って店長会議以外にも黄龍に行く用事があるんですか?」
「ええ、ありますよもちろん。蓮太郎には朱雀店以外の仕事も任せてますからね」
「えっ、そうなんですか。じゃあ他の会議とかで会えたりしないんですか?一郎さんは社長さんですし……」
「もともと私がいない会議の方が多いですが、私がいると蓮太郎は来ません。オンラインだとか資料を送るだけだとかサボりだとか、結局その場には来ないんですよ」
私が何と返そうかと悩んでいる間に一郎さんは続ける。
「そのうち私がいると蓮太郎が来ないから、社長は出席しないでくれと他の部長からクレームを受けましてね」
「えぇ……それは……なんというか」
「いいんですよ、はっきりと言ってくれても」
そう言われても、社長に向かってはっきりと何を言ったらいいのだろうか。お孫さんの悪口だろうか。一郎さんに促されて尚、私は口をもごもごさせながらヘラリとした笑みを返した。
「そ、そういえば、結局私をここに連れてきた理由って何だったんでしょう?店長がいると話しにくいことだから呼んだんですよね?」
これ以上このノリだと心臓がキュッとなるので、私は慌てて話題をスライドさせた。全くの新しい話題を出すわけではなく、あくまでスライドさせるのがミソだ。私をここへ連れてきた理由も普通に気になるし。
「そのことなんですが……」
一郎さんはテーブルの上のグラスに手を伸ばして、中身が空だと気付くと引っ込めた。水を注いでもらうために店員さんを呼ぼうと首を伸ばした私を、一郎さんが手の平でやんわりと制する。私は大人しくそれに従った。
「私も蓮太郎も出席する会議といえば、やはり店長会議が手っ取り早いんですね」
「まぁ、毎月やってるんですもんね」
「ええ、今月はあとだいたい二週間後です」
今日は三月八日だ。毎月二十五日が店長会議だというのなら、あと十七日後である。
一郎さんは自分の指の皺をゆっくりと撫でて、俯き気味だった顔をちょっと上げた。
「荒木さん、あなたにお願いがあるのです。いえ、あなたにしか頼めない事があるのです」
「わ、私にですか……」
私に店長の説得を頼まれたってそれは無理ですよ。そんなの、きっと瀬川君でも陸男さんでも無理だろう。人に説得されたくらいじゃ嫌いなものを好きになんてなれない。
それに店長ってたいていのことには寛容で柔軟だが、自分が本当にダメだと思った一点には頑固だ。彼がもう出席したくないと決めたのなら、その価値観を変える何かが起こらない限りは、二度と出席しないだろう。
私は黙って一郎さんの次の言葉を待っていた。しかし、一郎さんはひどく言いにくそうに口ごもっている。
「あ、あの、その頼み事とは……」
私から先を促すと、一郎さんは心を決めたようで、ようやく口を開いた。
「荒木さん、あの店で何か不祥事を起こしてくれませんか?例えば、大事なデータの漏洩や偽造など……。目立つ失敗なら何でもいいです」
初め、何を言われたのかわからなかった。
その言葉がどういう意味なのか。私の脳は思考を停止したはずなのに、不思議とその意味がわかる。言葉がするすると紐解かれてわかりやすい言葉に変換される。その変換された言葉達が私の頭と心に衝撃を与える。
私が一郎さんの「頼み事」に衝撃を受けている間、一郎さんは言い訳をするように慌てて続けた。
「もちろん、なるべく荒木さんが糾弾されないように配慮します。それによってこの仕事を続けにくくなったとしても、新しい職場を必ず提供します。ご迷惑を掛けたお詫びと謝礼もいたします。だからどうか、手を貸していただけないでしょうか」
そこまで言うと彼はそっと私の目を見て、そして目を逸らすように頭を下げた。こんな偉い人が、私みたいなただのアルバイトに頭を下げるだなんて、なんだかお笑いだ。しかとその理由が、孫に会いたいからだなんて。
それほどまでに店長の事が特別なんだな、と私はぼんやりとしたまま感じていた。
一郎さんが店長のことを特別視しているのはわかる。もしかしたら、孫として可愛がりたいのかもしれない。用なんか無くても黄龍に顔を出しにきて欲しいし、一緒に将棋とか指したい、それもわかる。
でも、その頼み事は聞けない。それはダメだ。それじゃあダメなんだ。他でもない私がダメなんだ。
「申し訳ないですが、それはお断りさせていただきます」
私の言葉に、一郎さんはゆっくりと顔を上げた。その顔には、失意と落胆の色が浮かんでいた。また、そりゃそうか、というような表情にも見えた。
私は一瞬だけ息を呑んで、まだ誰にも話したことのない、私の選んだ選択肢を口にした。お父さんにも、お母さんにも、友達にも、瀬川君にも、そして店長にも言ったことのない、それをありったけの勇気で一郎さんにぶつけた。
「私、正社員になろうと思うんです……!私なんかが、何の役に立つんだって自分でも思うんですけどっ、でも私、この仕事が本当に好きって気づいて……!だから……、だからそれじゃダメなんです。他の仕事じゃない、この仕事じゃないと……!」
一郎さんの頼み事というのは、つまり、私の起こした問題で店長を会議に呼ぼうという作戦だ。それは所詮は轟木さんの時と一緒で、店長は一度しか会議に出席しないだろう。
そんな不祥事を起こして、たくさんのお金を貰う代わりに当然私は卑劣野郎のレッテルを貼られ、この会社にいることができなくなって、その結果一郎さんが得られるのは店長がたった一回会議に出席するだけ!そんなことの為に。
そんなことの為に、私がこの仕事を捨てるわけがない!
「私には出来ません。どんなに頭を下げられても。どんなことを言われても。私はこの仕事を裏切りたくありません!」
思わず立ち上がって声を張り上げていた。我に返って周りを見回すが、皆何事もないように食事をしている。お昼時の喧騒が私の声を掻き消してくれたらしい。
「そうですか……荒木さんは正社員に……。それは、申し訳ないことを言いました」
「わかってもらえれば、私はいいんです……」
力が抜けたようにポスンとソファーに座る。私達の間に、しばらく沈黙が流れた。
「……それに、一郎さん言ったじゃないですか。店長のことをよろしくお願いしますって」
「覚えていたのですか」
「当たり前です。一郎さんがそんなんだから、私や瀬川君が店長のこと見ててあげるしかないじゃないですか」
「すみません……」
俯きながらぽつぽつと喋っていた私と一郎さんは、突然降ってきた「空いているお皿おさげしましょうか」という声に驚いて顔を上げた。営業スマイルで立っている店員さんに、平静を装って「お願いします」と答える。
何となく、もう店を出ようという雰囲気になった。
会計を済ませてガラス製のドアをくぐる。会計の前に一郎さんが呼んだタクシーが、駐車場に滑り込んできた。こんなに早く到着するなんて、これは何でも屋パワーなのか、それとも単に運が良かっただけなのか、私には判別がつかない。
駐車場を一郎さんの後について歩いていると、一郎さんは急に立ち止まった。タクシーまであと二、三メートルという距離だ。
「すみません、荒木さん。今日の話は忘れてくれませんか」
こちらを向いて一郎さんが言う。
「私も、生意気なこと沢山言ってしまって本当にすみませんでした」
私は思い切り頭を下げた。勢いで失礼なことを沢山言ってしまった。何だか目の前の相手は自分が働いている会社の社長ではなくて、店長のおじいちゃんなんだと感じた。
「謝らないでください。ほら、顔を上げて。私も、今日荒木さんと話して得られたものがあります」
一郎さんは、目尻のシワを深くして微笑んだ。
「私は少し疲れていたようです。蓮太郎について難しく考えすぎていたのかもしれません。また蓮太郎がうちに帰ってきてくれる日を、ゆっくりと待つことにしましょう」
「そうですよ、店長ったら天の邪鬼なんですから、放っておいた方が案外寂しくなって帰ってきたりするものですよ」
帰りのタクシーで「うちは正社員になるのに特別な試験などは何もありません。私は荒木さんが正社員になる日をいつでもお待ちしていますよ」と言われた。頑張ろうと思った。
店についても、一郎さんはタクシーから降りようとしなかった。どうやら店長には会わずこのまま帰るらしい。私は「今日はありがとうございました」と軽く頭をさげた。一郎さんも「こちらこそありがとうございました」とお礼を言った。後部席の窓が閉まって、タクシーは黄龍へ向かって走り出した。
「ただいま帰りましたー」
朱雀店のボロボロの引き戸を開けると、目の前のカウンターで店長が頬杖をついていた。
「おかえり雅美ちゃん。遅かったね」
「ええ、まぁ……」
「一郎ちゃんは?」
「黄龍に帰りましたよ」
一郎さんが帰ったと聞くと、店長は明らかに機嫌をよくした。親の心子知らずというが、この場合祖父の子孫知らず、か。
「雅美ちゃん魔よけの力があるのかな?一店に一台雅美ちゃん置いた方がいいかもね」
「残念ながら私は一人しかいませんので」
カウンターから出た店長はソファーの方へ歩いて行ったかと思うと、テーブルの上の紙を持ってまた戻ってきた。
「そういえば、さっきお客さん来たよ」
「えっ、私がいないちょっとの間にですか?」
「うん、雅美ちゃんが長い間一郎ちゃんと話してる間に」
別に隠そうと思ってたわけじゃないけど、何だろうこのしてやられた感。私は少しくさくさしながら店長にわたされた紙を見た。
「依頼自体はもう片付いたんだけどさ、とりあえずその紙読んどいて」
「ちょっとどこ行くんですか」
「どっかその辺」
「あっ、ちょっと店長!」
私が呼び止めるのを無視して、店長は出て行ってしまった。私は「もうっ」と一人で頬を膨らませた。しかしいくら怒っても店長の放浪癖が治るわけもないし、そもそも私も半分諦めている。私はテーブルに店長にもらった紙を置いて台所へ向かった。
台所で紅茶を淹れ、冷蔵庫から取り出したチーズケーキと一緒にお盆に乗せて店に戻る。ソファーに深く腰掛け、紅茶を飲みながら再び紙を手に取った。紙の表面にはいつもの印刷された明朝体じゃなくて店長の丸っこい文字が並んでいる。
「えーとなになに……」
その紙には私がいない間に来たお客さんの依頼についてが簡潔にまとめられていた。私はチーズケーキをほお張りながらそれを読む。
依頼人の名前は三千院景子(さんぜんいんけいこ)さん。年は四十九歳。依頼内容は昔なくした宝石のついたネックレスの捜索。と、私はここでテーブルの上に置きっぱなしになっていた写真を見た。なるほど、この写真に写っているネックレスが三千院さんの探し物か。
しかしそのネックレスは槙島さんの依頼のときに私が社長室から取ってきた大量の宝石類の中にあったため、黄龍に保管してあるそれを明日三千院さんに返却する流れとなった。依頼はほぼほぼ解決した、と。まさかあの中にこのネックレスがあったとは……。
しかし文字にはまだ続きがあった。早期解決にたいそう喜んだ三千院さんは、お礼に彼女の五十歳のバースデーパーティーに招待してくれた。なので、三月二十一日を空けておくこと。朝七時半にいったん店に集合。要正装、と。ん?
「要正装……?」
この要正装って、スーツとかじゃなくてドレスレベルの正装ってこと?どういうこと?
「…………」
せ、瀬川君に聞きに行こう。
瀬川君の部屋のドアをノックすると、相変わらず返事もなしにいきなりドアが開いた。現れた瀬川君が「どうしたの?」と言う。
「瀬川君、これ読んだ?」
店長にわたされた紙を見せると、瀬川君は「ああ、さっきの依頼人のやつ?」と言った。
「そうなんだけど……ここ、要正装って書いてあるでしょ?瀬川君何着てく?」
「この三千院って人すごいお金持ちらしいからたぶんそれなりのものを着てかないとダメだと思うよ」
「そんなにお金持ちなの?」
「この県で勘解由小路家に次ぐ富豪だって。依頼に来た時に念のため素性を軽く調べたんだけど、いろんな事業に手をつけてそれがことごとく成功してるタイプの人だった」
「うわぁ……庶民の憧れ……。でも私ドレスどころかスーツも持ってないんだけどどうしよう……」
「そんなの僕も持ってないよ。というか、このパーティーに出席すること自体僕は乗り気じゃない」
まぁ、瀬川君はそうだろうなぁ。たぶん勝手に出席を決めた店長をちょっとばかり恨んでいるだろう。
逆に私は少し楽しみである。パーティーと名の付くものに参加するのは小学生の時のお友達の誕生日パーティー以来だ。大きな屋敷でのパーティーには不安もたくさんあるが、好奇心と期待も少なからずある。
「まぁ店長が帰ってきたら何とかするように言えばいいんじゃない。何もしてくれないなら行かなければいいんだし」
「あはは……、そうだね。とりあえず店長が帰って来たら聞いてみるね」
どうやら瀬川君は本気で乗り気じゃないらしい。むしろ怒っているようにすら見える。
店に戻ってカウンターに座った。店長にもらった紙をぺらりと目の前に置いてみる。
やっぱり私は楽しみだな、パーティー。きっと洋風の綺麗なお屋敷に集まって、大きなシャンデリアの下で豪華なお料理を食べるんだ。BGMはピアノの生演奏だったりして。
静かな部屋に一人でいるとどんどん妄想が膨らむ。私は赤色のドレスが着たいなぁ。ちょっと大人っぽいヒールのある靴を履いてみたり。久々にメイクも気合いを入れて、髪型もドレスに合うようにアレンジして。なんかワクワクしてきた!
「よーし、やるぞー!」
「何を?」
「ぎゃ━━!」
誰もいないと思っていた為つい口に出してしまったうきうき気分に、即座に返事が返ってくる。叫び声を上げて振り向くと、すぐ後ろに瀬川君が立っていた。
「瀬川君!いつからいたの!」
「たった今だけど」
私は「もっと存在感出して近づいてきてよ」と小さな声でぶつぶつ文句を垂れる。まぁ、妄想に耽っていた私が悪いのだが。
「店長どこに行ったか聞いてる?」
「さぁ……。出てったの三十分前くらいだから、まだ帰ってこないんじゃない?」
「そっか……」
ぶつぶつ言う私の文句を軽くスルーして、瀬川君はさっさと本題に入った。そしてその本題すらもものの十秒で済ませ、もう用はないとばかりに自分の部屋へ帰って行く。
「……相変わらず会話が続かない」
まぁ瀬川君と会話が続かないのは最初からだ。それに私がこの店でアルバイトを始めた時初めて瀬川君に会った頃に比べれば、これでもだいぶマシになっているのだ。
「この店でアルバイトを始めた時か……」
まだ整理し終わっていないファイルを手に取りカウンターに座る。ファイルを開くと、【六月】という二文字が飛び込んできた。そう、私がこの仕事を始めたのも六月だったはずだ。
「そういえば、一郎さんにみんなにはまだ内緒にしててって言うの忘れたなぁ」
だが、そんな口止めしなくても、一郎さんは言い触らしたりしないだろう。正社員になりたいだなんて、なんだかこっ恥ずかしくて店長や瀬川君には言えない。
この店で仕事を始めて一年と九ヶ月。よもや正社員になりたいと思う日が来るなんて、夢にも思わなかった。適当に大学に進学して、適当な就職先が決まったらこのバイトも適当に辞めてしまうのだと思っていた。そのつもりでいた。
まさか、この店がこんなに居心地のいい場所になるだなんて。私はこの仕事を始めたばかりの頃を思い出していた。
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