錆びついた耳鳴りが叫んでいる4
それは今から五年前の、二月二日の事だった。私はその時部下達の作成した報告書に店長印を押す作業をしていた。
お昼の十二時過ぎだったか。ほとんどの部下は昼食を摂るため出かけていて、店には私と二、三人の社員、そして神原君しかいなかった。
チリンチリンとセンサーが来客の鐘を鳴らし、ステンレス製の扉を開けて若い女性が入ってきた。その時彼女を応接室に案内したのは、当時二十五歳だった高瀬君だ。彼はどうにも要領が悪く、この日も昼食返上で業務をこなしていた所だった。
二人が応接室に入って五分後、困惑した顔の高瀬君が出て来て静かに私の方に近寄ってきた。その時私は「何だ、また何かやらかしたか」くらいにしか思ってはいなかった。
私に近寄ってきた高瀬君は、耳元で小さくこう囁いた。
「あの……先程のお客さん、人を殺してほしいっていう依頼なんですけど……」
彼の声は緊張していた。そういう依頼が全く無いとは言わないが、数年ぶりだ。ハッと店内を見回すと、皆仕事をする手を疎かにしてこちらを観察していた。私は咳ばらいを一つして立ち上がった。
「よし、私が伺おう。高瀬君も着いてきなさい」
高瀬君は気が進まない様子だったが、何も言わずに私に着いてきた。
応接室に入ると、部屋の奥の椅子に座っている依頼人と目が合った。私は依頼人と向かい合うようにして座る。この部屋には椅子が四つある。高瀬君も私の隣に座った。
依頼人の女性は落ち着いた調子で浮島円香(うきしままどか)と名乗った。私も自分がこの店の店長だということを伝えた。
「この店は、何でもしてくれるんですよね」
「現実的に可能な事なら」
「人を殺してほしいんです」
「ええ、伺っています。依頼を詳しくお聞きしてもよろしいですか」
口にした内容とは裏腹に、依頼人は酷く落ち着いていた。怒りでハイになって、その勢いのまま来てしまったのかもしれない。冷静に分析を試みる私の隣で、高瀬君はガチガチに緊張していた。高瀬君を連れてきた手前、格好悪い所を見せるわけにはいかない。私は上司らしく堂々と振る舞った。
「憎い人がいるんです。私の彼を誘惑して奪ったんです。彼は悪くないんです、あの女が悪いんです、彼は悪くないあの女が誘惑するから……あの女が悪いんです全部全部全部。だから殺してほしいんです」
彼女は表情乏しく、平坦に、一息で、それを言ってのけた。私は初め彼女は落ち着いているのだと思った。だが違った。彼女はその女性を憎みすぎて頭がおかしくなっていたのだ。高瀬君なんて目を見開いて固まっていた。彼を連れてきたのは間違いだったか。
「そ、そうですか。それでは、その女性の事を詳しくお聞きしてもよろしいですかな?」
「ええ」
浮島さんは出されたコーヒーを一口飲んだ。
「その女は……本当に最低なんです。私は彼と相思相愛だったんです。本当に。私は彼と結婚まで考えていました。そこにあの女が現れたんです。あの女は彼を誘惑して……」
「わかっています、それはわかっていますから。その……女性の名前とか、どこに住んでいるのとか。そういったことをお聞きしたいのですが……」
「あら、そうでしたか」
浮島さんは再びコーヒーに口をつけた。一口飲んでソーサーにカップを戻す。
「女の名前は……確か咲とか言ったかしら……。ごめんなさい、苗字まではわかりません。彼と同じ大学に通っているんです」
下の名前と大学しかわからないのか……。彼女は、おそらく何も考えずに衝動的にここに来ている。咲という女性を恨むあまりに周りが見えなくなっているだけなんだ。そんな状態で人なんて殺してしまったら、きっと後悔することになる。
「そうだ、写真を持ってきているんです」
浮島さんは鞄から手帳を取り出し、そのページの間に挟まっていた一枚の写真をテーブルの上に置いた。
「この女です」
写真はどうやらファーストフード店で撮影したらしく、狭い店内にたくさんの人が写っていた。彼女は隅に映る、薄い色素の髪を一つに束ねて友達と笑い合っている女性を指差した。
「この女性を?」
「ええ、殺してほしいんです」
「考え直すことはできませんか」
「無理なんですか?」
「きっと後悔します」
「無理なら無理と言ってください。自分でやります」
その後しばらく彼女の説得を試みたが、彼女は考え直すどころかどんどん機嫌を悪くしていった。
「殺してくださいと言っているんです!ここは何でも屋でしょう!?お金は払います。あの女を殺してください!」
高瀬君は完全に怖じけづいていた。私はこれ以上は何も言わない方がいいと思い、契約書を取り出した。殺害が依頼の場合は、いつもの契約書の他にもう一つ細かい契約書を書いてもらう必要がある。彼女にそれをわたすと、喜んでペンを走らせた。
「それでは、御依頼はこの女性の殺害ということで。この写真はお預かりしてもよろしいですかな?」
「ええ、そのために持って来たんです」
私は契約書と写真を預かった。高瀬君は話し合いの終わりが見えてホッとしているようだった。
浮島さんを見送り、店内を見回す。皆彼女の依頼が普通ではないと気づいているのだろう、気になっている様子だった。
そうしているうちに、食事に行っていた部下達が一人また一人と帰ってきた。この依頼は、今日出勤の全員が帰ってきてから、誰が担当するのか決めようと思っていた。そして、誰もやろうと言わなかったら、自分がやろうと決めていた。
最後の一人が帰ってきた時、私は席を立った。
「みんな、聞いてくれ。さっき依頼を受けた。人を殺してくれというものだ。一応みんなにも聞いておきたい。この依頼を担当したい者はいるか?」
皆驚いた顔をして私の話を聞いていた。殺害希望の依頼など滅多にこない。特に若い者は、こんな依頼は初めて聞いた者も多いだろう。
私は店内を見回した。一回見回して、もう一度見直す。やはり、手を挙げる者はいない。戸惑っている者ばかりだ。ベテランなら誰かしら名乗り出てくれるかもしれないと思っていたが、大きな責任を伴う仕事だ。やりたいと言う者はいなかった。私はこの仕事は自分が責任を持ってやり遂げようと決めた。その事を宣言しようと口を開いた、その時だった。
「誰もやりたないんやったらボクがやりますわ」
その若々しい声に耳を疑った。こんな仕事をやりたがる者がいるだなんて。それに、独特の喋り方のこの声は……。
「いや、ダメだ。神原君、君はまだ高校生だろう」
店中の全員の視線を浴びて、神原君は立っていた。相変わらず気味の悪い笑顔を張り付けている。皆はそんなに気にしていないようだったが、私はどうもこの子が苦手だった。何を考えているのかわからない、というのが一番の理由だ。
「大丈夫ですて。何事も経験やないですか」
「確かにそうだが……だからといって君にやらせる訳にはいかない。これは私が責任を持ってやり遂げる」
前にここで一番古い部下に、神原君について相談してみた事がある。そうしたら、笑いながら「考え過ぎだ」と言われた。
しかし、今もう一度彼に同じ質問をしたら、果たしてあの時のように笑い飛ばせるだろうか。
「……とにかく、君にはまだ未来がある。今後この仕事を辞めるかもしれない。その時、こんな過去があったら困るだろう。この仕事は私がやる」
少し睨みつけるようにしてそう言った。私は何か言い返してくるだろうと身構えていたが、彼は「それなら仕方ないですね」とだけ言って椅子に座ってしまった。
一瞬気が抜けたが、気を取り直して通常業務に戻るよう指示した。
その日の真夜中だった。部下達は皆帰り、私は社長机で浮島さんの依頼について考えていた。今夜は雪が多い。私はブラインドを少し開けて、外の様子を窺った。
その時、チリンチリンという鐘が聞こえ、私は顔を上げた。神原君がステンレス製のドアから中に入ってきた所だった。
「どうしたんだ?」
奥にある私の席と入口の扉の間はだいぶ距離があったが、この静けさだ、私の声はちゃんと神原君に届いていただろう。
神原君は何も言わずに、黙って私の方に近づいてきた。彼が一歩進むたびに着流しの裾が揺れる。私の隣まで歩いてきて、彼はようやく口を開いた。
「ちょっと、忘れ物をしまして」
「そうか。夜は危ないから早めに帰りなさい」
忘れ物をした、と言うが神原君はその場を動こうとせず、いつもの笑みを浮かべて私の隣に立っている。
「……どうした?忘れ物を取りに来たんだろう」
「それ、今日の依頼の資料ですか」
「あ?ああ……」
神原君は私の机の上にある紙を見ていた。皆が帰った後浮島さんに言われた大学の名簿を調べ、ターゲットの個人情報を書き留めた物だった。
「ボクにやらせてもらえませんか」
「まだ言っているのか……。これは君がやるような仕事ではない」
「店長かてやりたくないんやないですか」
「こういうのは専門の業者に任せるんだ。私が直接やるわけではない」
「だったら尚更ボクでもええやないですか」
「まだ高校生で未来ある君が手を下すようなことでもないし、そんな業者とパイプを繋がせるのもいただけない」
私はパソコンを閉じて資料を引き出しの中に仕舞った。自宅の方へ行こう。そうしたら、さすがに神原君も諦めるだろう。私は立ち上がった。
「店長が亡くならはったらこの仕事する人おらへんくなりますね」
「……何?」
神原君は入口の方へスッと歩き出した。私はさっきの言葉を頭の中で繰り返していた。
「待ちなさい。さっきのはどういう意味だ」
意味などわかっていた。しかし受け入れられなかった。変わった子だとは思っていた。しかし、そんな事考えるような子だとは思いたくなかった。
「そのままの意味ですわ。人殺す仕事するために別の人殺さなあかん。それだけの意味や」
思わず身構えた。私と神原君の距離は三メートル程ある。大丈夫だ、私は空手をやっていた。神原君は格闘技は何の経験もないはずだ。いざとなっても返り討ちにできる。
……はずだ。ただ、私は確かに恐怖を感じていた。彼は、狐のように読めなくて、蛇のように冷たくて、獅子のように獰猛だった。
「何故……そんなにこの仕事をやりたがるんだ」
神原君は振り返って笑った。
「人、殺してみたいんです」
そして付け足した。「この仕事ならそれが出来るみたいなんで」と。
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