花畑に魅せられて
紗也ましろ
花と色
空が静かに泣いていた。ハラハラと舞い落ちてくる清純な白が、辺り一面を銀世界へと染め上げる。そんな中、私は廃れた街並みを行くあてもなくただ歩き続ける。残された足跡はいずれ埋れてしまうだろう。凍った空の涙も私も、その行為自体になんの意識も目的も持っていない。
麻布をフードのように深く被り、凍えるような空気を肺から吐き出す。普段なら絶えることのない、欺き、偽り、奪い合う人々の声も、今日は白で消されて聞こえない。
私もいつか、この銀色世界の一部となるのだろうか。その時はせめて、誰よりも美しい姿でありたい。
そんな幻影を追いながら歩く最中、ふと目の前に現れた白以外の色に思わず足が止まる。
一目惚れだった。
熟れた甘い匂い。一面に咲き誇る花々。鮮やかな色彩。
「きれい……」
銀色世界に浮かぶ異様で壮麗な光景に、思わず嘆声を漏らす。その中心では、美しい花々を育てたであろう青年が、空を見上げて白を眺めていた。
私が足を止めてから数秒、こちらを振り向いた青年と目が合う。その瞳は、この街では到底見かけることはない慈悲に満ちた色を宿していた。
微動だにしない、否、できなかった私は、そのまま白に埋もれてしまうのではないかと思った。そんな私に対して、青年はそっと言葉をかけてくる。
「こんなところでどうしたんだい?危ないよ」
その温かい声が、私を覆っていた白を溶かす。
——見つけた
今、この瞬間に感じた衝撃が、衝動が、私に標を示してくれた。心の中で、空に対して『私の方が先に目的を見つけた』なんて一人で勝手に勝ち誇る。そして、この鼓動の高鳴りが消え去ってしまう前に、拙くも懸命に言葉を紡ぐ。
「わ、私にも、教えてください」
「……へ?」
これが私と先生の出会いだった。
「そこはもう少し切ってあげるといいかも」
「はい」
「力を抜いて、優しくね」
「は、はい」
大切な仕事中に急に声をかけた、教養もない非常識な子供。そんな私を受け入れてくれた先生は、花の造り方ひとつひとつを丁寧に教えてくれた。
学校に行ったことのなかった私にとって、花造りは知識不足で理解が難しい作業も多かった。しかし、それらは全く苦ではなく、むしろ、もっと沢山練習したいと向上心を得るきっかけになった。いつか、先生のような華麗で凛とした花を造れるようになるために。
「君はとても上手だね」
「先生の、お陰です」
ちなみに、先生と呼んでいることに深い意味はない。私にとって教えを与えてくれる人というイメージが『先生』しかなかっただけだ。しかし、この呼び方を私は気に入っている。先生も満更ではなさそうだったし。
お互い本名は知らない。別に珍しいことでもない。親に捨てられた人、行き場を無くした人。この地域は、そういった人たちが集まっている場所なのだから。
名前について、ある時先生が作業中の私に尋ねてきたことがある。
「君、名前はあるのかい?」
「……わかりません」
「そうか……」
視線を手元のマグカップに落とす先生。私にはその口から紡がれる言葉の真意を汲み取ることが出来ず、諦めて作業に戻ろうとする。
「なら、さやか」
「……?」
「彩ある花と書いて『彩花』だ。どう?」
それが私に与えられた名前だということを、遅れながらも理解する。
「さやか……」
口の中で何度もその三文字を反芻する。彩ある花。先生が私につけてくれた名前。
「よく考えたら、勝手に名前つけられても困るよね。ペットじゃないんだし。ごめん、今のは忘れ——」
「先生、私、名前ありました」
驚いたような顔をする先生。私は浮き立つ気持ちを抑えながら、覚えたての言葉を紡ぐ。
「彩花、です」
先生の瞳には、満面の笑みを浮かべた私が写っていた。
数ヶ月も一緒にいると、お互いの行動が自然と噛み合ってくる。朝は先生がココアを入れて、私が部屋をストーブで暖める。その後、先生が仕事の時はついて行ってお手伝いをして、お休みのときはログハウスで一緒にゆっくりとした時間を過ごす。
そんなある日の朝、普段は落ち着いている先生が、何故かソワソワしていた。
「どうか、しましたか」
「いや、ちょっとしたことなんだけれども……その髪が邪魔にならないのかなと思ってね」
腰あたりまで伸びきった黒髪に視線を向けられ、そう尋ねられる。
確かに作業をしていると邪魔になることが多い。先生も気にしてるみたいだし、切ってしまおうか。思い立つや否や、すぐに机の上のハサミを手に取って、後ろ髪に当てる。
「ちょ、待ちなさい」
先生は慌てて私からハサミを取り上げて、代わりにポケットから小さな紙袋を取り出す。
「プレゼント、って訳でもないけれど……」
珍しく口籠りながら渡された紙袋には、綺麗な花の模様が描かれていた。その花を傷つけないように丁寧に紙袋の口を開けると、中から青い髪留めが姿を現す。
突然の出来事に戸惑っていると、先生に手招きされる。私は先生の目の前へと身体をずらす。そしてそのまま、先生に背中を預けた。
「ほらできた。これで邪魔にならないだろう?」
長い黒髪が、先生の手によって後ろの高い位置で束ねられ、青い髪留めで結ばれる。
鏡に映る私の姿は、まるで別人のように見えた。
「ありがとう、ございます」
「うん、やり方は簡単だから次は自分でできるかな」
その日から私は髪を結ぶようになった。もちろん先生に頼んでだ。本当は自分で結べるけれど、先生に髪を結んでもらうことに意味があったから。先生は花だけではなく、手にしたもの全てを美しくできてしまうのかもしれない。
「今日もかい?」
首を縦に振ると、先生は少し困ったように微笑む。その仕草と表情が堪らなく愛おしかった。
ある日、先生のお手伝いをしている途中に刃物で髪をバッサリ切ってしまったことがあった。
「大丈夫かい!?あぁよかった。でも綺麗な髪が……」
「大丈夫、まだ結べる」
私は短くなった髪を先生にやってもらっていたように後ろで一つにまとめる。短くて少し束ねにくいけれど、結べないことはない。
そんな私に対して先生は、一瞬驚いたような表情をして、でもすぐに優しく微笑んでくれる。
「短いのも似合うね」
私は幸せだった。
「少し、仕事に行ってくるよ」
冬の終わりも近い朝、先生はそう告げた。私はいつも通り持ち物を準備する。その途中で、何かが私の頭に触れる。何だろうかと思い目線を上げると、そこにあったのは先生の手だった。その行為の意味を理解するまで、数十秒ほどかかった。そして、頭を撫でられているのだとわかると、驚きと戸惑いで身体が固まってしまう。そのタイミングを見計らったかのように、先生は穏やかに、それであって真剣味を帯びた声で私を制する。
「彩花、今回は君を連れて行くことはできない」
今までそんなことを言われたことは一度もなかった。そのため、何故?と深く追求したくなったけれど、それを飲み込んですぐに頷く。本当は一緒に行きたかったが、先生がそう言うなら仕方がない。また帰ってきたときに造った花の話を聞かせてもらおう。そう自分を説得して、玄関から先生を見送る。その背中はどこか寂しそうに見えた。
それから先生が帰ってくることはなかった。
初めは何か事情があるのだろうと思っていた。しかし、帰ってこない日が2日、3日と続いたあたりで流石におかしいと胸がざわめきだす。今までも先生が一人で出かけること自体は何度かあった。しかし、帰ってこない日は一度たりともなかった。何処かで事故に遭ったのだろうか。もしかしたら、毎日髪を結ばせていたせいで愛想を尽かされてしまったのかもしれない。
一度火がついた不安は消えることはない。私は迷うことなく外へと飛び出した。
どれくらい走ったのだろう。気がついたときには息が切れていて、呼吸が白い吐息を作っていた。目の前は一面銀色世界。まるで出会った日のような光景だった。ひとつだけ違うのは、真ん中にポツンと咲いている、不格好で歪な一輪の花。
ゆっくりとその花に近づく。
「ねえ、先生」
返事はない。
「なんで先生が、お花になってるの……?」
先生はお花を造る人だったはずなのに。
積もった白にゆっくりと膝をついて先生の手をとる。そこには、私を撫でてくれたときの温もりはなかった。
「私、自分で、髪結べるよ?お花も、上手に育てられる、よ?だから……」
言葉に詰まる。
「だから……?」
何を言いたいのだろう。一緒にいたい?それとも好き?
いや、そんな簡単なものではない。そんな簡単な一言で終わらせていいわけがない。
ならば、することは決まっている。
「先生、私が、綺麗にしてあげるね」
ポツンと咲いている花。歪で不格好。だから私は、先生に教わったことを使ってそれを綺麗に飾ってゆく。きっと、これが最後の先生の授業だ。
「上手、かな。ねぇ先生、どうですか。私、上手になりました、か」
温かいものが頬を伝う。やがてそれは地面に落ちて、感情と一緒に白と混ざり合って消えてゆく。
「こんな育て方したら、お花がかわいそう」
だから私が教えてあげなくちゃ。
今までで一番上手に造れた花を崩さないように、ゆっくりと立ち上がる。いつの間にか空は泣き止んでいた。しかし、陽の光が私を照らすことはない。
なぜ人は、美しいものに生より死を見出すのだろう。私は先生と出会ったとき、あの景色を不思議と綺麗だと思った。先生の足元に咲いていた花々の正体を知ってもなお、その美しさは失われることがなかった。
だから、私は今日も舞う。その美しさを求めて、とても綺麗な
いつか、私自身が花となるその時まで。
花畑に魅せられて 紗也ましろ @sayama_07
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