並行世界の気付き
「え?」
「うわぁ!」
雷が落ちた。奥に見える空で青白い閃光が走る。音と光のタイムラグに不意を突かれる。
「先輩!雨も降ってきました」
「取り敢えずそこに行こう」
夏目先輩が指したのは、おそらく展望や日陰の提供を目的として造られたであろう五角形の屋根をした設備だった。
「これは結構な大雨ですね」
「あー長引くかなぁ」
ここは雨宿りにはうってつけの場所だろう。だがもうすぐ日も暮れて冷え込んでくるはずだ。それならば。
「先輩、僕の家に行きませんか?ここから近いので走ったらすぐ着きます」
「いいの?」
「はい!」
「よっし行こう!」
ーーーーー
極力雨に濡れないよう僕らは持てる限り全力で走った。走っている間も僕は落雷の直前に先輩が言った言葉をじっくりと反芻していた。
パラレルワールドから来た。
先輩は多分そう言った。あまりにも突飛な発言だったから僕の聞き間違えの線もある。その真偽は先輩がシャワーを浴び終えてから確かめよう。
「失礼します夏目先輩。バスタオルと着替えの服を置いておくので着てください。妹のですがサイズは同じくらいだと思います」
「ありがと。一緒に入る?」
「すみませんシャワーの音でよく分かりません。失礼しました!ごゆっくりどうぞ」
「ふはは」
先輩が僕の家で、僕が普段使っている浴室で、いつものシャンプーとリンスと石鹸で、その白い身体を包んでいる。こんなことがあり得るのだろうか。いやあり得ていいのだろうか。そもそもここへ来ようと提案したのは僕だがよくよく考えてみればおかしなことだったのかもしれない。焦っていた。先輩が風邪を引いてしまうと考えて焦った。言い訳になるのはこれぐらいの理由しかないが、それは置いておいてまずは両親と妹不在の奇跡を喜ぼう。父さんと母さんは仕事で深夜までは帰ってこないしあいつは友達の家でお泊まり会ってところだろうな。僕も中学生の頃はよく友達の家で遊んだけど夏休み初日、いや終業式の日からお泊まりなんて元気だよな。勝手に服を借りたのは素直に謝ろう。土下座の一回や二回くれてやる。僕からしてみれば先輩に服を貸すなんてご褒美でしかないがあいつからしたらいい迷惑かもしれない。念のため土下座と合わせて僕のスイーツコレクションの献上を考えておこう。何があっただろうか。プリンにゼリーにチョコレート。いやプリンはそもそもあいつのか。それにオレンジジュース。これは先輩に出すように持って行こう。先輩が出る前に部屋も軽く片付けよう。軽い。軽いと言えばさっきから足取りが軽くて仕方がない。何度も上がった階段でさえいつもの数倍は速い。二階へ上がればすぐに僕の部屋。母さんと妹からの日常的な指導によりこれといって散らかってはいない。となると問題は臭いだ。男子高校生の汗ばんだ臭い。人間は寝ているだけども汗をかくという。高校生に限らず臭いは切っても離せないテーマである。しかしこの永遠に続くかに思われた課題にも解決策が登場した。それが消臭スプレー。引き金を引くだけでその場の空気を掌握する点では銃と善悪での対を為す。僕は開発者に感謝をしなければならない。
「シャワーと着替えありがとー……って何してるの?」
「あ。感謝と謝罪の土下座をしていました」
「え?ああそうなの?」
「机の上にあるオレンジジュース、よければ飲んでください」
「うん。ありがとう」
先輩が私服だ。至福だ。見慣れた妹の服であってもこれほど変わるものなのか。シンプルな純白ワンピースが本当に似合う。
「ベッドでもそこのクッションでも好きなところに座ってください」
「じゃあベッドにしちゃおっかなぁー」
「あの、夏目先輩」
「うん。さっきの続きだよね」
夏目先輩の言葉の真偽。真偽というよりもその内容。遠ざけようとする度に頭の片隅に引っかかる。
「あのね。私はパラレルワールドから来たらしいの」
やはり聞き間違えではなかった。それでも、いや、尚更その言葉の意味が分からない。
「どういうことなんですか」
「パラレルワールドって知ってる?並行世界とも言うらしいんだけど」
「一応知ってます。でもそんなことあり得るんですか?まるでフィクションですよ」
「私だって分からない」
「分からないって……」
並行世界。ある分岐点から分かれた隣り合う世界。だがそんなトンデモ論は漫画や映画でしか目にしない。それでも夏目先輩は並行世界を語ろうとしている。冗談好きな人ではあるが、こんな真剣な顔は見たことがない。今の僕にはこの人の話を聴くしかないんだ。
「だから最初から話すね」
「……はい」
「まず私がこっちの世界に来た理由。それは分からない。明確な意図があって来たわけじゃないし移動の方法も知らないの。気付いたらこっちの世界に居たって感じ」
気付いたらってことは元の世界との大きな違いはないのか。
「いつ分かったんですか?」
「初めに異変を感じたのは今から一ヶ月前くらい」
「何があったんですか?」
「友達と話が噛み合わなかったんだ。私は記憶にないのに二人でクレープ店に行ったとかなんとか。その時は私のど忘れだと思ってたんだけどその後も何回か似たようなことがあってね。決定的だったのはハンカチ」
「ハンカチ……ですか?」
「そう。部屋を掃除してたらね、無かったのハンカチが。引き出しに入れてあるはずのハンカチがどこを探してもないの」
「親か誰かがどっかにやったとか」
「それはないと思う。引き出しには鍵をかけてたし」
「そもそも何でハンカチが決定打だったんですか?」
「それがね。そのハンカチがおばあちゃんの形見だったからなんだよ。私はおばあちゃんが死んじゃって本当に悲しかった。寂しかった。だから形見のハンカチを大事にしてる。だけど」
「だけど?」
「だけどこの世界ではおばあちゃんが生きていた」
「え?」
死んだはずの人が生きていた。そんなことはあり得ない。SFの世界でもなければ。SF。並行世界。本当なのだろうか。
「おばあちゃんとは一緒に住んでいなかったから気付くまでに時間がかかったけど、これで私は自分の置かれている現状が異常なことに確信した。そこからはネットとか本でたくさん調べたんだ」
「それで並行世界という結論に辿り着いた」
「うん」
ネットや本か。先輩はきっと誰にも言わなかった。いや言えなかったんだろう。自分が並行世界から来たなんて、言ったところで誰も信じはしない。多分僕に打ち明けたのは小説のせいだ。僕が文芸部の部室で読んでいた漫画にしていたカバーはどれもSF小説のものだった。だから少しでもあり得ない話に耐性がありそうな僕を選んだ。もちろん告白なんかのためではなくて。
「僕はそれでか」
「え?」
「僕は……僕は」
ああ、僕はどうしてこうも器が狭い。抑えろ。昂るな。これまで読んできた漫画で何を学んだ。ここで先輩に当たるなんてまるで紳士じゃないだろ。僕より辛い人が目の前にいる。僕は、僕はどうすればいいんだ。
「僕は……先輩の力になりたい」
数秒の間に繰り返した思考を越えて出た答えは僕自身も思いもよらぬものだった。それは考えたのではなく、きっと、感じたこと。ならば僕が次にするべきことは自分の心に素直になる他ない。先輩の手伝いをしよう。先輩の哀しい笑顔は見たくない。僕は先輩の気持ちいい笑顔が見たいんだ。
「ありがとう……ありがとう」
「あれ先輩?どうして泣くんですか」
「だってだってぇ」
ーーーーー
暫く先輩をなだめてから両親が帰る前にと先輩を家の近くまで送って行った。道中も雷雨が続いたが今回は傘のおかげで余裕を持って会話ができた。どうやら先輩は色々溜め込んでいたらしい。周りに対する違和感。理解されないことへの不安や不信。夏目先輩のことだろうからおかしいのは自分だと言い聞かせていたに違いない。そんな小さなズレは膨らんだ風船に小さな穴を開け時間と共にしぼませた。おばあさんと再会した時先輩はどう感じたのだろう。おばあさんは先輩の瞳にどう映ったのだろう。
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