黒い真珠を求めて

悠井すみれ

黒い真珠を求めて

 《戦馬の鬣》と呼ばれる星が中天にかかるのを、アンドラーシは見上げていた。冬の夜空でひと際目立つその星は、闇の中を進む者に方角ばかりでなく時刻をも教えるしるべとなるのだ。


「そろそろ、かな……」


 呟いた息は白く凍り、闇に紛れて消えていく。寒さの中でひたすら待つのは辛いといえば辛いが、極北の国ミリアールトで真冬の行軍も経験したことがある彼してみれば何ということもない。しかも今回はただの訓練というか余興であって、誰の命が懸かっている訳でもないから気楽なものだ。


 ──まあ、クリャースタ様を喜ばせて差し上げたいとは思うが……陛下のためにも。


 主君の妃であるその方の美貌を思い浮かべて、アンドラーシの口元はわずかに綻んだ。月の光を紡いだような金の髪も、宝石の輝きを思わせる碧い目も、新雪の肌も。三十路を迎えてなお、クリャースタ妃は眩いほどに美しい。ミリアールトの女神である雪の女王、その化身の称号がフェリツィア王女のものになるには、まだ数年はかかることだろう。


 そう、アンドラーシが崇める王の妃は、女神に喩えられるほどに美しく気高く──ついでに、人柄のによってもよく知られている。元王女の出自がそうさせるのか、イシュテンにおいては大抵の男をしのぐ知識ゆえにか、クリャースタ妃はとにかく気位が高くよく分からないことを理由に怒る。王と心を通わせ、母となられてからはさすがに気性も和らいだようではあるけれど、それでもいまだに理不尽な──と、彼には思える──理由で叱責されることも多い。美しい方は怒った顔も美しいから、アンドラーシはさほど気に留めることはないが。大事なのは、その気難しい方が今回ばかりは期待に目を輝かせて彼や同輩を見上げてきたということだ。


『どうかよろしくお願いしますね。本当に久しぶりの、故郷の味なのです』


 女は、男の倍の時間をかけて半分ほどの量しか口にしないものだ。ましてクリャースタ妃ほどの麗人になるとものを食べているところを想像することすら難しい。フェリツィア王女を懐妊中だった頃だったろうか、王が自ら狩った鹿やらきじやらにそっぽを向いたという逸話も仄聞している。クリャースタ妃が食べ物のことで目の色を変えるという事態は不敬ながら興味深く面白く──王のためにも尽力しなければならないと、アンドラーシは決意したのだ。


 と、物思いに耽っている間に、闇の中に幾つかの灯りが瞬くのが見え始めた。馬の蹄や車輪が地面を揺らすのがアンドラーシが立つ場所にも伝わり、馬具が触れ合う音や人声も聞こえてくる。馬車と、それを護衛する騎影が幾つか。さらに夜を徹して走り続けるための替え馬の一団が近づいているのだ。そしてその先頭で馬を駆る者の顔が、星明りでも分かる距離まで迫ると、アンドラーシは馬にまたがりながら声を上げた。


「時間通りだな! やるではないか」

「王命ですから、当然です」


 生真面目に答えたのは、ラヨシュという名の青年だった。声変わりもしないうちから世話をしているから、つい子供、と形容しそうになってしまうのだが。実際アンドラーシから見れば若造も良いところなのだが、それでも二十歳を越えた立派な成人、なのだろう。大きな戦も乱もない昨今のこと、王に力量を見せる貴重な機会とあって少々気負っているようだった。


「休んでからゆっくり追いかけてくるが良い。あとは俺が王都まで運んでやろう」


 馬と指揮官を替え続けて、遥かミリアールトからイシュテンの王都まで、どれだけ短い日数でを届けられるのか、という実験なのだ。実際には王とクリャースタ妃に届くまでにまだ他の者の手を経なければならないのだが、まあそれは些末なことだろう。事実、ラヨシュも指摘することなく、またも生真面目に頷いた。


「はい。よろしくお願いいたします。──氷がだいぶ溶けています。布を噛ませていますが、滑らないようにご注意を」

「冬場でも、さすがに凍ったままという訳にはいかないのか。中心はまだっているのだろうが」

「だと思いますが。開けてみないと分からないのが不安といえば不安ですね」


 馬車の荷台を占める木箱の中身の大半は、王都に着くまでに溶けてしまうということだった。クリャースタ妃が所望の食材は生物なまものだそうで、ミリアールトの冬の特産品というか、かの地ではそこら辺で嫌というほど取れる雪と氷で低温を保っているのだ。そうして運ばれたといえば、アンドラーシにはほかにも心当たりがあった。


「そういえば、以前、ミリアールトから首が届けられたことがあったな。あの時も意外なほど腐っていないと思ったものだが。食べ物となるとまた話は別だろうな」

「……そうですね」


 当時、イシュテンの領土に加えられたばかりだったミリアールトが反旗を翻した時のことだ。宣戦布告として、仮初に統治を任された者の首が送りつけられてきたのだ。その生首はやはり氷漬けにされていて、死の直前の表情もはっきりと残していたものだ。

 アンドラーシはその男が嫌いだったから、知らず、口元に笑みが浮かんでいたらしい。言葉では頷きつつ、ラヨシュの表情は不謹慎だとでも言いたげに顰められていた。人を殺したことがない訳でもあるまいに、繊細なことだと思う。


 ──まあ、お前は甘いくらいがちょうど良いか。


 王は、一番上のマリカ王女の相手にラヨシュを見込んでいるらしい。クリャースタ妃の御子ではマリカ王女は何かと微妙な立場だから、武勲と縁遠い男の方が王もクリャースタ妃も安心だろう。もちろん、本人同士がほかに代えがたい存在であることが最も重要なのだろうが。そこをつついて揶揄うのもきっと楽しいが、王の命より優先されるようなことでは、もちろんない。


「──話をしている暇はなかったな。俺はもう行く」

「はい。お気を付けて」

「夜だろうと、平らな道だ。危険などない」


 ラヨシュはどこまでも角ばった声と言葉遣いで述べて、アンドラーシを少し苦笑させた。彼の王がミリアールトを降してから十年と少し、王の権によってイシュテンと北の地を結ぶ街道は整備されてきた。ラヨシュだってその事業の一端に携わっているし、アンドラーシの馬術もよく知っているだろうに。侮られた気がして少しだけ面白くないから、予定よりも馬を急がせて次の者を慌てさせてやろうか、とさえ思う。

 闇の中に確かな道筋を思い描いて、アンドラーシは手綱を取った。




 翌日の正午前、アンドラーシは正装してイシュテンの王宮に足を踏み入れていた。彼が無事に割り当てられた道程をこなした後、は無事に王宮の厨房に届けられたらしい。輸送に関わった者たちへの褒美として、その貴重な食材を国王一家と共に賞味する栄誉が与えられるということだった。


「しかし、そんなに美味いものなのかな……?」


 アンドラーシが話しかけたのは、長年の戦友であるジュラだった。彼がラヨシュから受け取ったを託した相手でもあるし、家族ぐるみで親しく交わる中でもあるから、今も互いの妻は女同士で話に花を咲かせているようだ。クリャースタ妃には及ばずとも、彼の妻も十分美しく、歳を重ねた分気品に磨きがかかっているように見える。見慣れたはずの妻の横顔に改めて目を細めながら、彼は意味もなく声を潜めた。


「魚の卵、などと。魚が卵で殖えるのも俺は初めて知ったくらいだぞ」


 イシュテンは戦馬の神がよみしたもうた草原の国。よって内陸深くに位置しており、海を擁するミリアールトは何かと食べるものが違うらしい。この地にあって魚などは下々が食するものであって、武人たる者は自らの槍や弓で仕留めた獣の肉で妻子を養うべきなのだ。

 だから、故郷の食材とはいえクリャースタ妃が水の中の生き物を好んで食したがる気持ちが、アンドラーシにはよく分からない。国一番の名手である王に獲物を捧げられるのは、この上ない名誉であるはずなのに。あの方にとっては誰とも知れない漁師が釣り上げた魚の方が魅力あるらしいのは、まったくもって王が気の毒だと思う。


 ──魚の肉ならまだしも……その、卵とは……。


 アンドラーシらが大事にミリアールトから運んだのは、巨大な魚の腹を裂いて卵を取り出し、ほぐして塩漬けにしたもの、らしい。黒真珠にも喩えられる珍味なのだとクリャースタ妃は力説していたが、そのような美称に似つかわしくない生臭そうな食材ではないかと思う。肉のために殺すよりもよほど残酷だろうとも感じるし。正直な感想を述べるなら、口に入れるのは避けたいところだった。

 とはいえ王の妃からの招待を無碍にするのは拙い、くらいの良識は彼にだってある。弱気と見られるのも悔しいから、愚痴とも言えない程度に話題を振っただけ、返って来るのは相槌程度だろうと思っていたのだが──ジュラは、ぼそりと意外なことを呟いた。


「俺はミリアールトにいた頃に食したことがある。保存食としては一般的らしい」


 十年以上前のことだから忘れかけていたが、確かにジュラは征服されたばかりのミリアールトの総督を務めたことがある。かの地の風習についても、この友はアンドラーシよりもよほど詳しいはずで、ならば心構えを聞いておくこともできるだろうか。


「ほう。美味かったか?」

「一応は卵である以上、滋養はあるのではないか」


 しかし、ジュラの回答は微妙に核心からずれていた。


 ──俺は味を聞いたのだが……?


 ジュラは決して愚鈍ではないから、答えの噛み合わなさに気付いていないはずもあるまい。ならば、クリャースタ妃への非礼を避けるために言葉を濁したということであって、件の食材の味は期待してはならないということではないのだろうか。


 ──……まあ、毒ではないのだろうし。


 愛妃の喜ぶ顔を見れば、王も喜ぶのだろう。そして主君と臣下は苦楽を共にするものなのだから、アンドラーシもその場を見れば嬉しいはずだ。そう自分に言い聞かせて、アンドラーシは重くなりがちな足を叱咤して王宮の回廊を進んだ。




 王宮の奥でアンドラーシらを迎えた王は今日もその立場に相応しい威厳を漂わせていたし、クリャースタ妃は変わらず美しかった。内輪の席とあって結い上げた髪には宝石の類は飾られておらず、けれど金糸の輝きだけで王冠に勝る豪奢さを誇っている。

 妃と王子と王女たちを左右に侍らせた王は、集った臣下を見渡して口を開いた。


「疲れているだろうに呼び出して悪かったな。とはいえ妃のたっての願いを叶えてくれたことへの礼をしたかったのだ」

「陛下のお召しとあらば、いついかなる時でも喜んで参上いたしますとも」


 一同を代表して、アンドラーシは請けあった。誰もが同じ思いに決まっているが、だからこそ誰よりも先んじて口に出さなければならない。その発言によって、彼は王から苦笑交じりの眼差しを受け取ることができた。


「相変わらず調子の良いことだ。常にありがたいと思っているが」

「私の我が儘に駆り出してしまって申し訳ありませんでした。でも、我が故郷とイシュテンがより近しく結ばれたのは喜ばしいことです」


 そしてクリャースタ妃が彼らに向けたのは、夫君よりも晴れやかな、曇りのない笑顔だった。何といってもミリアールトはこの方の故郷、一年の大半を氷に閉ざされる厳しい土地であっても、あるいはだからこそ、消息を頻繁に聞けるようになるのはやはり嬉しいことなのだろう。妃の言葉に、王も大きく頷いた。


「今回は……まあ、お前たちも意味がよく分からないまま運んでくれたのだろうが。重要な報せや人の場合も、同様にこれだけの短い日数で届けられることが分かったのだ。今後のためには貴重な結果であった」


 口ぶりからして、魚卵の塩漬けとやらにさほど価値も興味も置いていないのは王も臣下と同じようだった。非常に機嫌が良いらしいクリャースタ妃は気付かないか、気に留めないことにしたようだったが。彼女は従者に碧い目を向け、配膳を進めるように無言で命じた。


「せっかく運んでいただいたものを、私だけでいただくのは申し訳ないですから。ミリアールトの味を、どうぞ皆様もご賞味くださいませ」

「無論、手間をかけさせた褒美がこれだけということはないぞ。改めて相応の品を取らせるから安心するが良い」


 王の言葉は臣下に安堵と喜びを、運ばれてきたモノは不安をもたらした。ただ、クリャースタ妃の銀の鈴を振るような声が、涼やかに響く。


蝶鮫卵の塩漬チョールナヤです。まずはそのまま味わうのが良いですから、どうぞ」


 アンドラーシの目の前に出されたのは、磁器製の匙に盛られた黒い塊──否、目を凝らせば細かな粒が寄り集まっているのが分かる。鳥の卵とは違って、魚の卵はひとつひとつがごく小さいらしかった。


 ──虫の卵の方が近いな。


 幼い頃に木登りをした際など、枝葉に産み付けられた虫の卵で手を汚したことが何度かあるはずだ。不快かつ気味の悪い感触を思い出して、そもそも薄かったアンドラーシの食欲は一層失せた。とはいえ、クリャースタ妃は期待に満ちた目で彼らの感想を待っている。毒ではないのだから、と。改めて自分に言い聞かせ、アンドラーシは思い切って黒い粒を載せた匙を口に運んだ。


 ──お、これは……?


 懸念していた生臭さはなく、味そのものも、苦みやえぐみといった不快さはない。コクがある味わいは、さすがに卵だから、ということなのだろうか。塩気があるから酒の肴には良いのかもしれない。少なくとも、恐れていたほどの珍味ではないようだった。

 アンドラーシの近くの席からは、ジュラが驚いたような声を上げている。


「──臣が昔ミリアールトで食したものとは違いますな。以前は、塩辛いばかりで生臭いと思いましたが……」

「はい。よく食べられているものは塩を利かせることで保存性を高めているのだそうです。民にとってはその方が使いやすいのでしょうし、もしかしたらそちらならもっと楽に取り寄せることができたかもしれないのですが──味は台無しになってしまいますから。せっかく卵をいただくのに、それでは魚にも申し訳ないというものでしょう。新鮮なものをほど良い塩加減で漬ければ、数日のうちに熟成して風味が出ます。ほんの一瞬の食べごろの、貴重な味ということになりますわね」


 ──クリャースタ様がこれほど饒舌なのも珍しいな……。


 しかも、これだけ熱を込めて前のめりになって語るとは。アンドラーシにとっては、魚の卵よりもそちらの方が新鮮に感じられた。


 前菜代わりのひと匙が平らげられるのは一瞬だから、次の皿が運ばれている。彼らが運んだ魚の卵とやらがどれほどの量だったのかは知らないが、汁物にも肉料理にも、付け合わせや薬味として黒い艶やかな粒が飾られている。クリャースタ妃は、祖国の貴重な食材を惜しみなく使うことに決めているようだった。


「次は、違う種類のものも取り寄せてみたいですわね。鮭の卵ですと、もっと大粒で色も赤くて、彩も食感も良いのですわ」

「そうか。色々あるのだな」


 どこかはしゃいだようなクリャースタ妃に対して、王は気のない相槌を打った。やはり夫婦の間にも意識の違いはあるようだ。王がちらりとアンドラーシらに視線を向けたところからして、雪と氷の詰まった箱を丁重に運ぶ役目は、また彼らに与えられるのかもしれない。戦場で王のために剣や槍を振るうのに比べれば、いかにも退屈な役どころだし、魚の卵の味の違いにもさしたる興味がある訳でもないが──


 ──まあ、ご信頼いただいている証と思えば、良いか。


 冬の間に、大量の氷と人手を使ってごく少量の食材を運ぶ。それほどの財力や権力を持つ者は、王のほかにはそういないだろう。ならばイシュテンにあってこの味を知ることができる者は、王とクリャースタ妃に近しいごく一部の者だけということになる。

 そう思うと、魚の卵とやらの不思議な味も、貴重な美食として堪能することができそうだった。

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