降り続ける雨

 しとしとと雨が降る。騒がしかった教室は生徒が帰ったせいで、まるで別の場所かのように静かだ。耳を澄ませば、雨音が聞こえてくる。

 胸の苦しみを吐き出すようにため息をつけば、それすらも耳は拾う。静寂は、雨子をより不安にさせた。

 日向の机に目をやれば鞄がある。恐らくまだ下校はしていない、鞄を取りに来るはずだと予想して待つこと三十分。日向が姿を見せる気配は一向にない。

 一緒に待とうか、と心配性の友人曰く。琴梨を見送りに校門前へと行ったらしいが、それにしては遅い。

 気長に待つことだね、と帰り際に助言してくれた友人に従って、雨子は落ち着かない気持ちを誤魔化すように、自分の席に座った。手持ち無沙汰な状況を変えようとポケットの中から携帯電話を取りだした。

 電源をつけて、早々に後悔する。

 通知欄に姉からのメッセージが表示されていた。贈り物は、どうだったか。首尾を確認する文に、再度ため息をつきたくなった。

 お節介、心配していると言えば、聞こえは良い。だが姉は、ただの野次馬根性であるのは姉の性格、普段の態度から明らかだ。

 当たり障りのない返答をするか、どうするか悩んだ末に雨子は見なかったことにした。せめて、問題を解決してからにしようと電源を落とした。

「あれ、菊永さん?」

 待ち望んでいた声が雨子の名字を呼んだ。

 びくりと体を揺らし、反射的に目を向ければ日向が、きょとんとした顔でこちらへと近づいてきた。雨子は瞳を直視するのが恥ずかしくなり、俯く。彼のズボンの裾が雨に濡れているのを眺めた。

「あの、日向君にお礼をしたくて、待ってたの」

「え? お礼って何の」

「昨日、助けてくれてありがとう」

「あぁ、そうか」

 朝も言ってくれたよね。明るい笑顔はまさしく、ひまわりを連想させる。

 眩しさに雨子は思わず目を細めつつ、頬を緩めた。

 先ほどまで体を支配していた緊張感と妙な罪悪感が薄れたような気がした。勿論完全に消えたわけではないが、渡すぐらいなら、問題ないと自分を誤魔化せるぐらいにはなった。

「それで、服までいただいたお礼に、全く見合ってないんだけど、これ、もらってくれる?」

 服の礼として手作りクッキーなど、釣り合っていない。せめて店で見繕った物を用意すべきだったのだろう。姉に言われたからとはいえ、愛らしいラッピングされたクッキーからは好意がだだ漏れ、独りよがりが形になっているようで手を引っ込めたい衝動に駆られた。

 もし引かれてしまったら、雨子は心臓が痛くなって唾を飲み込む。

「これもしかして、手作り?」

「う、ん。一応味見したから大丈夫だと思うんだけど……日向君はクッキーとか、手作りとか平気?」

「うん、俺、甘いの好きなんだ。わ、嬉しいなぁ、ありがとう!」

 嘘偽りなど無縁の笑顔。ぱぁと花が咲いたように、いや周りに花を飛ばしながら喜ぶ姿に、ぶわりと体の熱が急上昇し、きゅうと胸を締め付けられるような感覚になった。息苦しさすらあり、日向の姿を直視するだけで思考がかき乱されて頭が真っ白になる。初めての、感情の渦に為す術もなく言葉すら紡げなくなった。

 瞬きをすれば星が散ってきらきらと輝いている幻覚から、逃れるように頭を振った。

 昨日の出来事で。たったあれだけで。いや雨子にとって、あれだけではなかった。今までの陰鬱とした価値観を、一気に塗り替えた。最悪な世界とは別の、綺麗な世界があって、生きているのを見せてくれた。

 日向にとって、なんてこともない話でも、雨子にとっては。

「食べてもいいか?」

「えっ今っ? め、目の前で?」

「駄目?」

 眉を下げる彼に、気恥ずかしさを隠して了承した。

 すると子供のように、わくわくした様子でラッピングを丁寧に解いた。少年のように目を輝かせて、星形のクッキーをつまんで、ぱくりと口に入れた。さく、といい音がして噛みしめると、ふにゃりと顔をほころばせた。

 豊かな表情に雨子は胸をなで下ろす、聞かなくても分かる。

 きっと不味くなかったのだ。

「すごくおいしい。勉強で行き詰まってて疲れてたから、甘いのが染み渡る」

「日向君の苦手科目って?」

「現国だなぁ、菊永さんは?」

「数学と英語。あまり得意じゃなくて、テストとか毎回ギリギリなの」

 緊張で声が震えていないか不安になりつつも、平静を装う。

 来週テストがあるのを思い出してしまえば憂鬱な気持ちになれば、彼が苦い顔を浮かべた。どうやら彼も来週の地獄が嫌らしい。

「来週のテストの為に、一応復習してるんだ……やっぱり苦手科目は進まない」

「そうだね、私も数学は……応用問題とかなると、途端に分からなくなって」

 何なら、基礎問題でも引っかかる。という事実は伝えなかった。あまりにも勉強が出来ない人間だと思われるのは嫌だった。

 特に日向には、と雨子は気まずげに目を逸らした。

「あ、なら。一緒に勉強しないか? 苦手科目が違うなら教え合えるし」

「えっ……え!」

「えっ」

 日向が机の中からノートと教科書を取り出してから前の席に座り、向き合う。机を挟んで見つめ合ってから雨子は、突然の提案に理解が追いつかなかった。

 勉強を一緒に、する。復唱して噛み砕けば、特に変なものではない。普通であったが、それでも雨子を動揺させるには十分な要素であった。

 過剰までの反応に日向は驚いたように目を見開き、徐々に不安そうに表情を暗くなる。嫌がっていると取られたらしい、雨子は焦りつつ首を横に振った。

「ち、違う、違うの。あの、いいのかなって」

「何がだ?」

「琴梨さんとか、その」

 彼女抜きで、日向と会話するのは。我ながら変な問いかけではあったが、雨子にとっては大きな問題でもあった。もし二人きりでいるのを琴梨が不服に思い、いざこざが起きるのは本意ではない。クッキーを渡すだけでも葛藤があったというのに。

「彼女はさっき帰ったよ。それに放課後、部活以外で居残るのは、親が許してないから。勉強は参加できないんだ」

 ごめんな、と謝る姿に勘違いしているのだと気がついた。どうやら雨子が琴梨を誘いたがっていると思っている。

 そういう意味ではないのだと、否定しようと何度か口を開閉した。だが、すぐに諦めて曖昧に微笑みを作った。細かく説明しないのは、琴梨の感情を邪推し、自身の想いをこぼしそうになるのを恐れてのことだった。

「私、教えるの下手だけど、それでも良かったら」

「あはは、俺もだよ。説明不得意。でも、まぁ、一人より二人の方が心強いよ。本当に困ったら、先生に聞こう」

「先生は職員室にいるかな?」

「うん、いつでも聞きに来て良いって」

 彼は教科書を広げて、青色のシンプルな筆箱からシャープペンシルを取り出し、握りしめると目線を落とした。さらりと艶やかな前髪が揺れて、影を作る。

 長い睫が瞬き、隙間からのぞく、真っ直ぐに雨子をうつす瞳が隠れたのが惜しい。宝石のように輝くのが好きなのだ。

 雨子は少しの寂しさを覚えて、重傷だなと自分に呆れた。誤魔化すように深呼吸をしてから、彼と同じように勉強道具を広げる。普段なら気分は下がる一方なのに、目の前に日向がいる、それだけで何もかもも変わった。

 安心するような、心臓が痛いような、苦しいような。複雑な思い翻弄されているのに雨子は不思議と嫌ではなかった。

 しとしと、雨が降る。窓を叩く音、二人の息づかいだけが小さく聞こえた。初めて雨の空気が悪くないと思える穏やかな時間に、雨子は肩の力を抜いた。

 ――ああ、このまま、雨が続けば良いのに。

 膨らんだ願いは、あまりに自分勝手であった。雨が嫌いだと豪語していた自分は何処にいったのか。単純すぎる己に呆れると同時、責めるように浮かんだ琴梨の顔。なんて自分は残酷なのだろうか、意地悪で、可愛くないと罵った。

 琴梨の顔は消えてはくれない、彼女を置いて彼に接触するというのは抜け駆けのようで、居心地の悪い。そう思いこそが彼女に失礼なのではないか。

 答えなどない。迷宮に入り込んでしまったかのように出口がない思考の渦。彼の傍は、複雑な感情が入り交じり苦しい。幸福と罪悪感、後ろめたさ、愛しさと、様々で雨子の心を翻弄し嵐のように乱して混乱させる。

 正常で冷静な自分にはなれないのだ。落ち着けと、息苦しさ解消のために、小さく深呼吸をした。

「……あ」

 ふと、彼の消しゴムが転がる。雨子の手にこつん、とぶつかって。

 彼の細い指が、こちらへとのびた。

 拾い上げるとき、不意に雨子の手を撫でた気がした。

 一瞬、ほんの少し。

 触れたかも不確かな感覚だった。なのに、その部分から一気に熱が膨れ上がったようで、無意識に顔を 上げた。

 日向も、雨子を見つめていた。美しいと思った宝石が、真っ直ぐ雨子を捉えて逃がさない。お互い驚いたような表情をしているのみだ。

 息すら止まる空間に、日向は唇を震わせて。

「葵、勉強捗ってるか?」

 がらりと扉が開かれた音に、硬直した空気が切り裂かれた。はじかれたように離れる。指を軽く動かしただけで触れられる距離であったのを、引っ込めた。

 雨子が気まずくなり顔を背けると日向が対応してくれた。

「先生、様子見に来てくれたんですか?」

「ああ、勉強熱心な生徒は、かわいがりたいからな」

「はは、内申が上がりそうですね?」

「おまえの内申は、元から良いから問題ないだろう」

 入ってきたのは先生らしい。

 ぶっきらぼうではあるが、人気の先生だ。暗い雨子にも気さくに話しかける。触れて欲しくない部分に無遠慮には踏み込んでこない配慮もある。雨子にとっても、話しやすい人であった。

「菊永も勉強か? おーおー、かわいい生徒が増えたな」

「先生、それ違う女子生徒に言って『先生だとセクハラ』って睨まれてませんでしたか?」

「よく知ってるな。そうだよ。何がセクハラだ、って泣き真似したといたが。可愛いに他意はないんだがなぁ。はぁ、距離感が難しいな。先生は悲しいよ」

 彼と先生にあわせて、雨子も笑う。

 騒がしい心臓、脳裏に焼き付いた彼の表情が、いつまで経っても消えない。ほんのり頬が赤く染まっていたように見えたのは、雨子の望みが見せた幻覚だったのかもしれない。

 こっそりと日向の顔を盗み見た。やはり変わらず、優等生らしい、明るく、上品な笑顔だけだった。

 ただ、その耳が、雨子の見間違いでなければ。先ほどと同じ、希望からの幻覚でなければ。自分と同じく朱色へと変化しているような気がした。

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