蝉が死んだ、そんな日に

酸味

第1話


 夏が終わる。


 頭上から響く扇風機の羽根の音。チョークが黒板にぶつかり奏でられる心地の良い音。読経のように眠気を誘う年老いた国語教師の覇気のない説明。それから左耳から聞こえてくるボカロ曲。

 水曜日の六限目、退屈で眠気を覚える現代文の授業の最中。教室の後ろ側の席を良いことに片耳に付けていたイヤホンを取ってみて、ふと窓の外から聞こえてくる蝉の鳴き声に耳を澄ませてみると、死に直面した蝉たちの号哭が耳を駆けて行き、私は初めて気づく。

 つい先日までけたたましくそこに存在していた蝉時雨が今は遠く離れたところに少しだけ聞こえ、蝉小雨と言えるほどに勢いの失った蝉の号哭が私にそれを強く実感させる。体感では相も変わらず暑苦しい気温が残り続け、ようやく台風が日本を襲い始めたくらいだというのに、もう暦は九月へと突入していた。


 今年も、高校生らしいことをしなかった夏休みが過ぎ去って行く。そんな実感に、ほんの少しの憂鬱と、量産型の私には過ぎた願望に対する諦観を覚える。

 夏と言うものは若き心が猛り、情熱的な愛や友情を育む季節ではなかったのか。気付けばもう十六回目の夏が過ぎ、熱い抱擁も、凍えた絶望も、乱舞しだすような歓喜も、融解したくなるような悲哀も、しかし私の色彩の薄い人生にはそれらが迎え入れようという気配はまるでない。そこには停滞し変わりのない薄い安寧があって、何もかもが良くなってしまう程に落ち着いた、堕落的な快楽だけがある。

 私の脳裏に過るのは、在りし日に見たとあるアニメ。炭酸水をぶちまけたような爽快感のあるソーダ色の空の下、少年少女が夢に向かって歩みを進めるジュブナイル。そこには努力と夢と現実のはざまに置かれた、喜こもごも彼らの悲とした感情が夏の夕方の空の色のように交じり合っていて、一秒一秒が大切な思い出になるであろう、色彩の濃い日々があった。在りし日に今もどこかで夢見る青春。

 嗚呼、しかし私とてもう高校二年になった。成長とはリアリズム的思考と諦観を身に着けることだと中学の頃、したり顔をした友人が何かを悟ったとばかりに声高に言っていたのを、今更になって案外それが的を得ていることにこの身をもって気付かされるのです。

 教室から見えるのは、少し青々しさを失ったように思われる木々の葉と、何も変わらないつまらない日常。これこそが普通の人間に見える、普通の生活と言うものなのだろう。私自身も己の珠なることを認めることなく、中庸であることを心の底から信用しきっているが故、その理想に近付こうとする努力さえ、しまいには忘れてしまった。あるいは私が愚かだったからこそ、何もせずに、青春は訪れるのだろうという理想論に心を躍らせ、結果なにもしなかったツケが回ってきたのだろう。

 少し前までは、美しく理想的なみずみずしい物語を見ることが大好きだった。

 けれど今では、その思いもとうに失せてしまった。それどころかその理想がついには叶わぬと悟ってしまったから、避けるようになっていた。だけれど、何となく、今でも私の愚かな心の奥底では今もその幻想を抱き続けているのです。

 なんという救いようもないことだろう。なんという馬鹿げたアンビバレントなのでしょう。創作物のような青春だなんて、ごく一部の人間にしか訪れないのだともう気付いている私の、けれどいまだに諦めのついていない愚鈍さは、「夢見がち」でなく「現実逃避」に近いのだろう。


 あぁ、でも。

 それでも今年はほんの少し違う事が起こった。

 けれどもそれは熱意溢れるドラマティックな青春では無くて、馬鹿げた高校生のコメディでもない。重厚で陰鬱で落ち着いたトラジティと言えるものであった。

 あと、それからほんの少しのファンタジー。もしくは重篤な幻聴もしくは譫妄。

 今から思い出しても、それは現実のことであるのか、白昼夢であったのかも分かってはいない。明らかに幻視幻聴の類であって、明らかにフェータルエラーを神経器官が噴出したのだと思う。だけれど、確かにソレは、私にとって現実のものであった。


 それは見飽きたような、テンプレートに基づいた独自性のない三文小説のような。ありきたりで面白みのない夏の出来事だ。

 それでも、気怠いあの日、親友が自殺したことを知ったのは衝撃的だった。

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