恋人たちと応援さん

キノハタ

プロローグー1 日下部

 いつかの冬の日、私があの人を刺したことは未だに鮮明に覚えている。


 いや、あんな体験、どうしたって忘れられそうにないのだけど。


 あの時、私は怒りに満ちていた。何に怒っていたんだっけ。・・・確か、クラスメイトの一人から執拗な嫌がらせを受けていたはずだ。


 そうなった理由はよくわからない。わからないくらい、些細なことだった。それにより、そいつは集団から私を追い出した。それから、私を否定する言葉や手紙、落書きなんかを、延々と送られ続けていた。


 それだけじゃなく、筆記用具が壊されたり、体操着が盗まれたりというのもしょっちゅうだった。そのことを訴えると、気を引きたいだけだの何だと囃し立ててきた。


 何かあれば私をやり玉に挙げる。結構発言力があるやつだったから、周囲の誰もそれを止めなかった。そして、そいつ一人で行為は段々とエスカレートしていく。


 やられたことに対する苛立ちがあった。誰にも助けられない悲しさがあった。自身の居場所がない苦しさがあった。


 でも、当時の私はそれを、心の中にため込むことしかできなかった。それを表に出すすべを知らなかった。私が悪いのだとさえ思っていた。


 でもいつか限界はやってくる。


 その日、最後の授業は選択の美術だった。


 いつも通り、隣の席から囃し立てる声がした。


 その時、確かたまたま手の付近を紙で切っていたのでそこに絆創膏を張っていた。


 そいつはそれがリスカだなんだと囃し立てる。それだけならまだしも、周囲に小声で噂話を広げていく。そんな様を見せつけながら、にやにやと私を見る。


 ねえ、してみてよ、リスカ。するんでしょ?見てほしいんでしょ?見ててあげるからやって見せてよ。


 手に持った彫刻刀をくるくる回しながら、小さく甲高い声で私をなじる。あまりに目立ち始めたものだから、最近は周囲からも噂話が聞こえてくるようになった。


 どうなんだろう、でもあいつのことだしなあ。いや、本当かもよ。


 いや、本当かもよ、じゃないのよ。誰か止めてよ。この馬鹿を。


 唇をきゅっと結んだ。


 胃の奥の方がじわりと痛んだ。


 自分の彫刻刀がガリっと音を立てて、木材に食い込んだ。


 木に刻まれた傷が、下書きの線を大きく越えた。


 あーら、失敗だねえ。どしたの?本当のこといっちゃったから?ごめんねー。


 頭が熱を帯びた。心臓の音が頭に響く。握っていた彫刻刀にますます力が入る。木材を握っていた逆側の手が震えだした。


 きゃはは、という笑い声が、遠のいていく。


 自分の表情が止まっていくのが分かる。顔の筋肉という筋肉が効力を発揮しなくなっていく。眼は不思議と瞬きをしなくなった。


 ねえ、無視しないでよ。耳ついてるー?どうやってリスカしてんのか、見せてよっていってんだけど。


 ああ、ああ、ああ。


 ここが限界なんだ。


 「わかった、見せてあげる」


 私は持っていた10cm四方の木材を思いっきりそいつ目掛けてぶん投げた。


 顔を狙ったつもりだったが、狙いは少しそれて、そいつの机に直撃した。机の上に置いてあった木材や彫刻刀が、大きな音を立てて辺りに散らばっていく。


 少し騒がしかった美術室が、静かになった。私の心臓の音ばかり聞こえる。


 誰かが、たくさんの人が私を見ている。でも、そんなことはどうでもよかった。


 あんた、なにを・・・。


 「見たいんでしょ?リスカ。だから、見せてあげるって言ってんの」


 そいつが座っていた木椅子を思いっきり蹴飛ばす。派手に転んで、そいつはしりもちをつく。短い悲鳴が、教室に一瞬鳴り響く。ただ、それもすぐ静かになった。


 心臓の音がうるさい。


 立ったままそいつの頭の上に当たる位置に左手をかざす。


 右手の彫刻刀を振りかぶった。


 そいつは顔を守るようにして手で頭を抱えた。自分が刺されるとでも思っているのだろうか。ばーか。そんなことするものかよ。


 お望み通り、私の手を刺してやる。そして、そこから出た血をこいつに飲ませてやる。


 知ればいい。好き勝手に否定してきた私が何を思っていたか。思い知ればいい。どれだけの痛みが私の中にあるか。


 あんたが私をどれだけ傷つけてきたか。知ればいい。


 思いっきり振り下ろした。



 


 彫刻刀が手に突き刺さった。私以外の手に。





 「え?」


 血が手首から垂れて制服の裾に染みをつくっていく。いくつかの血が雫になって、あいつの顔に落ちる。


 声が漏れた。誰の声だろう。


 誰もが茫然としていた。私を含めて。


 横を向くと、隣に座っていた少年が自分の手を、私の手の上にかざしていた。


 そこで初めて彼の顔を見る。苦痛に歪んだ眼でこちらを見ていた。


 彫刻刀を握っていた手から力が抜ける。彼の手は私の手の上からゆっくりと下がっていく。


 差し出していた左手の甲に少し痛みがあった。傷があった。


 彼の手を貫通した彫刻刀がつけた傷だと知った。


 彼は彫刻刀が刺さった方の手を逆の手で握りしめて、痛みが酷いのか呻くようにしてうずくまった。


 ただ、しばらくそうした後、ゆっくりと彫刻刀に手を添えると、言葉にならないような声を上げながらそれを引き抜いた。


 彫刻刀が抜かれたところから血が溢れて、床にちいさな水たまりを作る。血の付いた彫刻刀がそばにからんと落ちた。


 彼はそのそばに苦悶の声を上げながら、うずくまっている。


 私も、周囲もその様をただ茫然としながら見ているしかなかった。


 泣き声がした。


 出所を探すと、私をいじめていたやつが、私の足元で顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。


 同時に視界が急に下に落ちる。


 茫然とした後に、自分の腰が抜けたのだということにようやく気が付いた。


 手が、足が、指先に至るまでがくがくと震えている。


 ようやく音が戻ってきた。周囲がざわざわと騒ぎ出す。


 美術の教師が何人かの生徒に保健室に!と叫ぶみたいに指示を飛ばしていた。



 ーーーーーーーーーーーーー


 何日かの謹慎の後、言ってしまえば暴力事件を起こしたにもかかわらず私は思ったより学校にすんなりと戻ることができた。


 理由は、この件を境にいじめが明るみに出たこと。私をいじめていたやつは、私が自分を刺そうとしたと主張したらしいけれど、一部始終を見ていた周囲と美術の教師がそれを覆したこと。それが私の証言と一致したこと。


 最後に、私が刺した彼が、これは自分が転んで手を伸ばしてしまって傷ついてしまったのだと言ったこと。


 全ては自分の過失だと、そう、主張した。


 当然、周囲はそんなわけがないだろうと告げたのだが、彼はがんとして主張を曲げなかった。全部、自分のせいだと。


 一番の被害者がそうやって主張しているものだから、下されるべき罰は宙ぶらりんのまま、私といじめていたやつの短めの謹慎という形で手が打たれた。



 ーーーーーーーーーーーーー

  

 数か月後、私たちは付き合うことになる。


 そして、さらに数か月した後に私たちは別れた。


 これは、大学生になった今でも、私の心に傷と一緒に残っている、そんな失恋の話だ。


 --------------


 ???「いや、尊と・・・・・、ほんと尊すぎるわ」


 ???「あんたのそういうとこほんと、いい性格してると思うわ」

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