第13話 はじめまして……さよなら
紫に霞む地平線に、日が沈んでゆく。
リコッタが率いる鳥竜の編隊は、王都上空にさしかかった。
なだらかな丘の頂上にそびえる王城は弓なりの二本の角を戴き、そこから同心円にひしめく建物が放つ煌めきに、キルシュは息を呑む。
――何もかも先を行く魔族、人族を蛮人と見下すのは無理もない。
「どうです、われらが誇る王都コルヌコピアは」
リコッタの誇らしげな声。
「すごい、こんな明るい夜は初めて見た」
「ところで、プファオさま。その姿で登城されるのですか」
いつもの黒の修道女服をまとうキルシュは、手綱を握るリコッタの背に短く肯定を返す。
「せっかくです、わたしが化粧を刷いてさしあげましょう」
「いらないから」
「プファオさま、何かを隠すなら笑顔の中にですよ」
キルシュは、はっとした。
――彼女の言うとおり、魔杖を知られるわけにはいかない。
「ふふふ、髪飾りを貸してさしあげますわ」
左手からぐんぐんと迫る赤い竜の群が、リコッタの編隊を包む。
その先頭の竜騎士は片手をひろげて、
「王都の空を預かる警備隊長です。リコッタ姫、兄君はどうされた」
「愚兄は体調を崩しました」
騎士は短く頷いた。
「厳戒の王城へ案内いたします。われらに続いて下さい」
城砦から突き出た桟橋に、次々と鳥竜が降りた。
暗紅色の絨毯を凛然と歩むリコッタに、列と並ぶ衛兵が敬礼する。
黒衣をまとうキルシュとフェネトラも、彼女の後に続いて。
出迎えの騎士は、片足を引いて優雅な一礼。
「リコッタ姫、お久しぶりでございます。ますますお美しくなられて――」
「口上はいりません。父王の具合はどうですか」
二本の立派な角を頭から生やす騎士の口の端が震えて、
「長くはもたないと」
「わかりました。すぐに参りましょう」
廊下の壁際で、キルシュは待った。
向かいの扉で控える騎士の視線が、チラチラと鬱陶しい。
「角なしの蛮人が、なぜリコッタ姫の侍女なのだ」
剥き出しの敵意に、キルシュは微笑んだ。
――笑顔が全てを隠してくれるだろうか。
「蛮人、なにがおかしい」
鞘走る剣に、キルシュは微笑みを崩さず。
一歩を踏み出す騎士。
「よほど死にたいらしいな、望み通りにしてくれる」
剣が振り下ろされて、キルシュは腹底の魔力を解放。
絶速――時は凍り、湖底に沈んだかのように歪む暗い廊下。
爪先に魔力を込めて身体加速。重い体で騎士の背後に回り込み、泡立つ氷の片手剣を手に。
「なにぃ!」
空を斬った騎士の顔が、驚愕にゆがむ。
キルシュは騎士の首筋に剣尖を突きつけて、
「なんで剣を抜いたの?」
振り向く勇気も失せた騎士の手から滑り落ちた剣が廊下で踊る。
扉がひらいた。
「どうしたのです」
着替え終わったリコッタの尖った声に、降参の両手を上げた騎士は汗ばむ。
「……ちょっと剣の稽古に熱が入ったようでして、」
キルシュは凍剣で横殴り。
騎士は頭から崩れ落ちた。
丸椅子にキルシュは腰掛ける。
鏡に映る三つの唇が弧を描いて、
「くっくっく。わらわにまかせるのじゃ」
「ご主人さま、髪を編んでさしあげますの」
「フェネトラさまにイズニィ、時間がないのをお忘れです」
リコッタは、慣れた手つきでキルシュの顔に薄化粧を刷いていく。
うっすらと目縁を彩り、薄く紅を引き、最後に七色に遊ぶ花びらの髪飾りをとめた。
「完璧よ、プファオさまに嫉妬してしまいそうです」
「弟よ、
「姉さま、怒りますよ」
「ご主人さま、抱いてくだしぁー」
――みだりに発情するなと言ったであろが。
――ひぐぅ、ごめんなしゃい。
鏡に映るのは、イズニィの二本の角を掴んで揺すり始めたフェネトラ姉、そして自分ではない顔。
――やばい、別の世界の扉をひらいてしまいそう。
長廊を進み、扉を固める衛兵が斧槍を下げた。
騎士が命じて、ゆっくりと扉がひらく。
むせるような香があふれて、
「プアァオさまのご到着でございます」
キルシュ一行は広間に足を踏み入れた。
天蓋つきの寝台を囲む角めく魔族たちが、一斉に顔を向ける。
キルシュは一人で寝台に向かう、ざわめきに微笑をくれて。
自然と割れた寝台の正面に、ただ一度の王胤の特権としてひざまずくことなく立った。
漂う腐臭――まもなく死ぬ。
大きな二本の角を生やし峻厳の面差しに滲む苦悶、目がひらく。
闇色の瞳に、黒の小さな魔女がおさまり、
「プファオ、やっときたか……」
枯れた手が宙に伸びる。
二人の召し使いが、魔王の体を起こしにかかった。
虚ろな瞳が、キルシュをみつめる。
「大きくなった……」
これで最後と思うと、キルシュの決意が揺らいだ。
――別れを告げるだけなのに。
魔王は微笑んだ。
――空から見守ることしかできなかったわしを、
「プファオ、お前の水が欲しい」
最初で最後だから――キルシュは腹底の魔力を絞って解放。
白魔――しゅるしゅると練り上げた氷の杯を手に。
虚空から絞り出した冷水を満たし、御前へ。
差し出された氷の杯を、魔王は震える手で飲み干した。
深い吐息、キルシュは特別な言葉がくる予感に胸が震えて。
「プファオを次なる王とス」
ばったりと、魔王が寝台に沈む。
耳をつんざく怒声と悲鳴が、キルシュの耳を素通りして、
「はじめまして……さよなら」
もう一人の父さま――キルシュは穏やかな死に顔を胸に刻む。
四人の妃の祈りは届かず、百年戦争を休戦に導いた魔王は病に崩じた。
悲しみに浸ることなく、喪服の王族は黒の楕円卓の席につく。
壁に列と控える近衛騎士に混じり、黒い翼どころか全身の震えが止まらないイズニィ。
杯が満たされ、王族会議が始まろうとしていた。
角を生やす王族の冷たい視線に、キルシュはただ微笑む。姉とリコッタに挟まれて。
豪華な料理の皿の向こうは、次王と目されていた第一王子カンパリの蛇のような温度のない目。
その右隣は、冷艶の面差しの第二王女。
左隣は、どこか虎を思わせる風貌の第三王子の歯軋り。
目の端に映る姉の白貌は青ざめて。
――ああ、姉さまはダメだ。僕がなんとかしないと。
第一王子カンパリが言葉を添えて杯を掲げた。無言で一同が応じる。
魔族の言葉がわからないキルシュは、ただ微笑む。
キルシュに向かって吠えた第三王子を、カンパリは鋭い眼光で制し、
「そこの半魔、われらの言葉がわからないのか」
キルシュは、そっと懐の蔓薔薇の杖を握った。
――底無しの目、何かがくる。
ずん、と腹底に雪崩れる魔力。
宙ぶらりんの杯の小さな湖面が細波を立てて、広間の空気がずしりと重くなり。
カンパリは深紅の目を細めた。
黒の小さな魔女から立ち昇るとんでもない魔力を感じて、第二王女は目を剥く。
笑みを消したキルシュは、一同を見渡し、
「僕は次王を辞退する。姉さま、帰りましょう」
「待て、」
炯と底光る深紅の瞳に滲む黄金――だから、どうした。
席を立って、華奢な肩に手を伸ばすと。
「姉さま?」
「くくく、同じ半魔でも貴様は違うのか」
キルシュは気絶の姉を椅子から引き上げた。
小さな悲鳴をあげて駆け寄ったイズニィに預ける。
同じく隣で気絶のリコッタ――廃鉱の底の時と同じ、たぶん膨大な魔力を浴びて気絶、命の危険はないと思うけど、姉さまの恐がり様は尋常じゃなかった、これなのか?
「半魔、逃げられないぞ」
冷笑のカンパリを、キルシュは見据えて。
――いや、どうでもいい。長居は無用、姉さまを連れて館に帰らなくては。苦労して王立学院に編入したのに、無断欠席で退学はイヤだ。
「僕らをほっといて、王族から抜けるから」
「残念だが、そうはいかない。半魔とはいえ、魔族の柱たるエアステス家の血胤の中でも希なる白魔の使い手を野放しにはできないな。落胤として、しっかり働いてもらうぞ。まずは、アウスレーゼの地を奪え」
「イヤだと言ったら?」
カンパリは鼻先で嗤う。
「わかりきったことを――」
転瞬、椅子が悲鳴を上げた。喪服をまとう王族らが床に飛ぶ。
キルシュは腹底で暴れる魔力を解放。
絶速――無窮の時に沈んだ暗い広間に、ゆらりと立つ人影。長卓の向こうカンパリが剣を抜いた。
まさかの絶速が切り札――驚愕を呑み込んだキルシュも懐の魔杖を抜く。
跳躍した蛇の貴公子の剣尖から伸びる赤黒い光芒、やばすぎる――キルシュは、ありったけの魔力を解放。
魔杖の蔓薔薇が、軋むように紫黒に咲いて。
二人は同時に虚空を斬った。
黒炎の斬撃と紫黒の光刃が十字で激突。
不規則に折れ曲がる広間に走る紫電、遅れて耳障りな重い衝撃。
あっという間に息が苦しい、けど間違いなく追撃が来る。
絶対に負けられない、僕らの命と自由がかかっている!
「うぉおおおー」
キルシュは、ありったけの魔力を解放。
黒の小さな魔女とフェネトラに覆い被さるイズニィを守るように、虚空が軋みを上げて。
晩餐の中心で生まれたての黒い十字閃光が弾けて、轟音が全てを薙ぎ払った。
爆風に耐えた厚い氷壁が崩れる。
「フェネトラさま、フェネトラさま――」
「うぅ……」
イズニィの膝枕で目覚めたフェネトラは、一つ瞬く。
壁で崩折れ血を流す王族に近衛騎士、黒の瓦礫に晩餐の跡形すらなく。
「弟よ、わらわは信じていたぞ」
「姉さまの嘘つき」
「ああん、わらわが、いつ嘘をついたのじゃ」
立ち上がったフェネトラは、弟の肩にすがり嗚咽をこぼし、
「突然に世界を地獄に落とすカンパリの力が、ずっと怖かった。怖かったのじゃ」
フェネトラの背に抱きついたイズニィも黒い翼を震わせて。
廊下を駆ける硬い靴音に、キルシュは魔杖を握った。
壊れた扉から飛び込む人影は、乱れ銀髪のバローロ。
遅れて駆け込んだ衛兵どもが、斧槍を構えて。
壁際で横たわる妹をみとめて、第二王子バローロの目が険しくなる。
「テメェがやったのか」
回復魔術は使えないし――キルシュは魔力を解放。
白魔――しゅるしゅると片腕から生えた氷の蔦が、天井に突き刺さった魔剣に巻きつく。
片手に込めた魔力が氷の蔦を走り、魔剣の先端で小さな爆発。
片腕を振って、引き抜いた魔剣を手に。
「バローロ、僕は次王を辞退した。けれど、カンパリが魔剣を抜いた。だから、こうなった」
「なんでテメェらだけが無傷なんだァ」
言ってから、バローロは気づいた。
冷たい戦慄が背中を這い上り、
――何か隠してると思ったが、まさかクソ兄の切り札と同じ絶速だァ?
「姉さま、泣かないで。僕が守ってあげるから」
「ご主人さまぁー、わたくしも守ってくだしぁー」
「なんでテメェは、オレさまの妹を守らねェんだ!」
「僕は全力を尽くした。早く、妹に回復魔術をかけてあげなよ」
何かが飛んできて、バローロは手におさめる。
妹の髪飾りは七色の花びら――めきりと、こめかみが一つ脈立つ。
横たわる妹へ駆けた。
抱き上げると、傷ひとつない綺麗な顔。気を失っているだけのように見える。
轟音。
黒の小さな魔女が魔剣の斬撃を放った。
壁に大穴が空いて、斧槍を放り投げた衛兵どもが我先に逃げ出す。
寄り添う半魔の姉弟と黒い翼の従者が、無惨な広間を後にする。
半魔の化け物は後回し――バローロは妹の銀髪に髪飾りをとめて。
立ち上がり、剣を抜く。
「くくく、誰も見ちゃいねェ。まずはクソ兄からだァ」
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