彼(?)は学院生活を楽しみたい、全土を統べる覇王に成り上がっても。

トマトジュー酢

第1話 冒険者ギルドで鑑定玉を割る

 潤む夏空の下、会葬者は別れの言葉を柩に捧げてゆく。

 いよいよ最後となり、青い釣鐘の花に埋もれる亡骸にすがりつく乙女。


「ああー、お父さまー」


 頑張ったな、さすが我が息子だ、その力で皆を守るのだよ、十七歳の誕生日までは——キルシュの胸裏に優しい父の声がよぎった。


 残念な姉さまだけど、父さまとの約束を守らなきゃ——キルシュは唇をひらく。


「泣かないで、僕がみんなを守るから」


 涙に濡れた白貌が振り返り、迫られ見下ろされ、細い腕がしなり。


「あんたが死ねばよかったのよ!」


 頬を叩かれ、キルシュはよろめいた。


 いくら魔術が使えても、僕はまだ子供だ、と思い知る。



 借金取りが押しかけ、使用人も去り、館の中は空っぽになった。


 パンとスープだけ、無言の朝食。

 暖炉を背に主席の騎士爵未亡人は、キルシュをみつめる。


「十年前、あの人は胸に孤児を抱いて百年戦争から帰ってきました。なぜか、幼いあなたを三歳と知っていましたが。しかし、あの人は何かをあなたに見いだしたのでしょう。我が子のようにあなたを溺愛しておりました。娘たちが羨むほどに」


 騎士爵未亡人は、空の皿をみつめる息子に微笑む。


「七日前、あの人と何があったの?」


 キルシュは、うつむいた。


「珍しく上機嫌だった、あの人の最後の思い出を知りたいの」


 大窓から差し込む陽光に混じる小鳥のさえずり——悔しいほどに羨ましい。

 けれど、学がなければ剣を振るだけのお人好しは騙され魔物に喰われ借金を残し。


「言えないというのなら、愛する息子を追い出さねばなりません。ご覧の通り、お金がないのですから」


 騎士爵未亡人の微笑みがゆがむ。


「お願いよ、あの人の最後の笑顔の意味を知りたいの」


 砂色の髪を揺らし、姉は弟へ首をひねった。


「わたしも知りたいな」


 残念な姉さまたちとは違い何かと味方になってくれるエシレ姉のお願い——キルシュは決意の顔を持ち上げる。


「僕はブルデヴァーグ王立学院で勉強したい。それが話す条件です」


 騎士爵未亡人は、目尻を拭った。


「まぁ、嬉しい。お金は工面しますから励みなさい」



 馬に跨がり、一家揃って山小屋へ。

 キルシュは扉に鍵を差し込む。

 薄暗い室内は一週間前と同じ、机の上に山積みの魔術書。

 騎士爵未亡人の灰色の瞳が、うすく光り、


「魔術の修行をしていたのね」


 そうです、と言いさして低く太い咆哮。


 外へ飛び出ると、山小屋の倍はある猛獣が木立を縫うように四つ足で駆け迫る。


 長女と次女は立ち向かった。恐怖から目を離さず杖を振る。

 巨獣は炎球を弾き飛ばし、盛り上がる大地の壁を蹴散らす。

 土砂の帳を破る巨大な灰色熊に、抱き合う長女と次女の瞳は絶望に彩られ。


 エシレは茫然の母の背に隠れた。

 キルシュは皆の前に滑り込む。

 半身から片手を突き出し無詠唱から、腹底に満ちる魔力を解放。


 あたりの空気がずしりと重くなり、幾重にも泡立つ氷塊が鋭い音を残し。


 数多の氷杭を浴びて、そびえる灰色熊は真後ろに沈む。


「キィくん、すごい!」


 エシレは弟に抱きついた。

 絶句の騎士爵未亡人は、我を取り戻し、


「あなたが目覚めた魔術を教えなさい」


 お前自身を守るため、切り札は隠せ——姉にされるがまま胸によぎった老師の声に頷いて、キルシュは体ごと振り向いた。


 森陰に映える帝王紫の瞳が、騎士爵未亡人の灰色の瞳を捉えて、


「白魔です」


 三大禁呪のひとつ……あの人は、なんて子を育ててしまったの。ふふふ、この子の未来がわたしの天眼に映らなかったのは腹立たしいけれど、エシレの剣聖にキルシュの白魔。ついに世界がこの手に——騎士爵未亡人は目頭を押さえた。


「お母さま、これでキィくんはずっと一緒だよね」


 歩み寄り、騎士爵未亡人はキルシュを抱きしめた。


「ええ、そうですとも。病弱だったあなたを寝ずに看病したのは、わたしなのですから」

「大好き、お母さま!」

「わたしの可愛い息子、キルシュ。その力で家族を守る義務がありますのよ」


 無力な姉二人の号泣——キルシュの胸に、両頬の傷をゆがませた不器用な笑顔がよぎった。


「母さま、わかりました」


 帝王紫が蒸発の凪いだ闇色の瞳に、騎士爵未亡人は婉然と微笑む。



 平民落ち——行き先の副都の別名は学院の街。

 わずかな家財を積んだ馬車は、郊外の館に止まる。

 玄関広間にて、騎士爵未亡人の姉と使用人が揃っての出迎え。

 キルシュも挨拶する。


「お世話になります、伯母さま」

「まぁ、わたしの可愛いキルシュ。大きくなったわね」


 伯母は白皙の甥に微笑んで、騎士爵未亡人に向き直った。


「やっぱり、この子を世継ぎとして迎えようと思うの」

「敬愛なるお姉さま、お断りしますわ」


 伯母はキルシュを抱擁して、


「いつでも遊びにいらっしゃいな。焼き菓子を用意して待ってるわ」



 ◇



 離れの小さな館に落ち着いて、二週間が過ぎた。


「お金がなければ生きていけません。働くのです!」


 貧しい食卓に、騎士爵未亡人の雷が落ちた。

 キルシュは、野菜スープに浸したパンをほおばる。


「絶対にイヤ、女神のわたしはデートで忙しいの」

「わたしもイヤ、舞踏会でご馳走をお腹いっぱい食べる」

「わたしはいいよ、キィくんと一緒なら」

「あなたは編入試験に向けて勉強を頑張りなさい」

「ごちそうさまでした、図書館にいってまいります」


 キルシュは席を立った。


「待ちなさい。あなたもですよ」

「僕も編入試験に向けて追い込みなんです」

「わたしの可愛い息子、残りの夏休みは冒険者ギルドで高額の仕事を請けなさいな。それで半年は遊んで、いいえ、まともな暮らしになりますから」

「お母さま……いま遊んでって言った」

「やっぱり、働いたら負け」


 騎士爵未亡人の吊り気味の目がいっそう吊り上がり、


「おだまり! この穀潰しどもが! 毎日飽きもせず鏡に向かい、手料理のひとつも覚えず、夕方に出かけては酔っぱらって夜更けに帰ってくる、ああ、嘆かわしい!」


 騎士爵未亡人はキルシュに微笑んだ。


「あなたの白魔をお金に換えるのです。約束しましょう、夕食は山盛りの肉皿を」


 週末には伯母が経営する食堂で肉をたらふく食べているキルシュの心は、ぴくりとも動かない、が。


「報酬の半分が僕のものとなるなら考えます」


 騎士爵未亡人は、力なく首を横に振った。


「そうしてあげたいけど、借金が多すぎるの。ね、わかってちょうだい」


 十年と三ヶ月を母と慕った騎士爵未亡人の涙目に、キルシュは頷くしかなかった。



 夏の日差しを硬く弾く大通りに、愚痴がこぼれゆく。


「ったく、なんで、女神のわたしが働かなきゃならないのよ」


 ぷりぷり歩く白の法衣の後を、修道女姿のキルシュは裾を両指でつまみ追いかける。


 あなたを溺愛したあの人の約束通り、あなたを隠します、ちょうど背丈が同じエシレに成りなさいな——女装はともかく魔術をかけて瞳に髪の色まで変えるなんて……僕は人形じゃない。


「姉さま、待ってください。この格好は酷く歩きにくいのです」


 トルテは振り向いた。


「わたしは、あんたの姉さまじゃないの。わたしの従者、そうでしょ」


 遠巻きに眺める人々の好奇を無視して、白の法衣に身を包むトルテは腰に片手をあて指を立てる。


「いい、絶対にしゃべらないで。女神のわたしに任せるのよ」


 はいはい、姉さま——キルシュは、鼻先まで黒衣を下げる。



 冒険者ギルドの広間に、二人は足を踏み入れた。


 ——すっげぇ美人だな。

 ——依頼をしにきたのだろ。お近づきになりてぇな。


 昼から杯を交わす赤ら顔の露骨な視線を浴びながら、受付に向かう。

 トルテは肩口にかかる砂色の髪を優雅に払い、


「冒険者の登録するわ」

「お連れの方をでしょうか」

「わ、た、し、よ。時間がないの、さっさとして」


 笑みを消した受付嬢は引っ込んだ。

 ほどなく戻り、大きな水晶玉を窓口に固定する。


「総合鑑定をします。手をかざしてください」


 トルテの白い手が水晶玉へと伸びる。

 瞬間、キルシュはとっくに腹底で練り上げた魔力を全て解放。


 絶速——時は凍り、世界は一変。湖底に沈んだかのような冒険者ギルドの広間。


 爪先に魔力を込めて身体加速。それでも、腰まで浸かった砂海の歩み。

 なんとか水晶玉に触れ、姉の背に控えて。


 トルテの灰色の瞳が白に染まり、小さな爆発音。


「ギャーッ」


 腰が抜けた姉の背を、キルシュは支える。乱れた息を整えながら。


 ——すげぇ、鑑定玉が真っ二つなんて初めて見たぞ。

 ——ぐへへ、あのとんでもない胸に魔力が詰まってるんだな。


 キルシュは、甘やかな匂いの髪に頬を寄せた。


 ——姉さまの実力はS級です、冒険者登録の続きを。


 我に返ったトルテは、よよと立ち直り、


「ご覧の通り、わたしの実力はS級よ。これ以上の鑑定は不要、とっとと登録しなさい」

「え、あの、もう一度——」

「聞こえなかったの? わたしの実力はS級よ」

「は、はい。速やかに手続きをいたします」


 ざわめく広間を横切り、トルテは掲示板を流し見る。

 もっとも報酬が高い依頼書を手に振り返り、


「わたしはトルテ。魔物から街を守り抜いた剣聖クワルクの長子よ」


 静かなどよめきが渦巻いた。


「数日限りの冒険者の仲間を募集するわ。館が建つ報酬に剣聖の血を引くわたしと至福の一日デートよ。もちろん、全て奢ってもらうけど」


 しん、と静まりかえった。


「ちょっと、どうしたの。下界に舞い降りた女神のわたしとデートできるのよ」

「そのデートってのは最後までヤれるのか」

「はぁ? 最後って何?」


 落胆が押し寄せて、トルテはうろたえた。

 キルシュは、金刺繍の袖口を強く引っ張る。


 ——たぶん、口づけを交わすことですよ。


 真っ赤になったトルテは、こほんと咳払い。


「いいわ、最後までつきあってあげる」


 一拍の静寂から歓喜。

 トルテさま、姫さま——下卑た面々が押し寄せて、


「ち、ちょっと、イヤーッ!」


 胸元から杖を引き抜いた姉に合わせて、キルシュは魔力を解放。


 絶速——沈黙の時の中、数瞬で凍った虚空が姉弟を囲む。


 次々と氷壁に弾かれる男どもに怯える姉の手から、キルシュは依頼書を抜き取った。


【魔窟の底に刺さる聖剣を回収した者に千金をさずける】


 大深度の闇に徘徊する凶悪。地上へ這い出ては、血肉を求めて暴れ回り、そして剣聖の命すら奪った魔物ども。


 危険と報酬が釣り合わないような気がする。けれど、借金を返して自由をこの手に。


 依頼書に描かれた簡易地図には、魔窟の上に地獄行きのような大穴——いけるかも。


「姉さま、二人だけでやりましょう」

「あんたの強さは認めるけど、荷物持ちがいないじゃない」


 キルシュは姉をじっとみつめた。


「絶対にイヤ」

「姉さまは照明係り。後は僕がやりますから」

「ちょっと、勝手に決めない——ぁん」


 キルシュは細い腰に手を回し、


「姉さま、炎を」


 氷壁を舐め回す男ども、トルテの片頬がひくついて。


 歌うような詠唱が始まり、悲鳴が逃げ出した。


 鑑定不能の魔術師の一撃を浴びるほど愚かではなかったらしい——キルシュは姉が振り下ろす杖より速く魔力を解放。


 轟音、建物が揺れた。


 氷壁は霧散し、広間は二人だけ。

 弟から差し出された依頼書に、トルテの口の端がゆがむ。


「んっと、生意気なんだから」

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