僕といじわる後輩ちゃんの内緒の図書館

@Sophist_ssbu

卯月

雨、横殴りの雨。こんな日は傘を差すのが嫌になる。ほとんど真横から差し込むように詰襟を濡らす雨の前で傘はまるで無力だ。それに、時折吹き荒む突風は傘を思い切り引っ張って、華奢な僕の体ごと吹っ飛ばしてしまいそうだった。それでも僕は傘を閉じようとは思わない。折角晴れた朝にわざわざ持ってきたのにただの荷物にしてしまっては勿体ない気がするからだ。僕は意地だけで、登校中の苦労が勿体無いからと下校中まで苦労を重ねる愚行を犯している。新学期早々から憂鬱だ。

そんなことを思っていた時だった。

「うっ…うぅ…えぐっ…」

雨が傘を叩く大きな音の隙間を縫うようにして、少女の嗚咽が聞こえた。それは僕の薄っぺらい憂いよりもずっと深く、雷を鳴らし始めたこの雨雲よりもずっと低い、小さな嗚咽だ。

風に引っ張られながら立ち止まって周囲を見渡す。すると、横断歩道の向こう側には崩れ落ちるようにして座っている女の子が、雨に打たれながら震えていた。

肌の色は白く、黒髪が肩までかかるくらいの十代半ばの子のようだ。

震えているのは寒いからか、それとも何か別の理由だろうか。考えても分かることではない。

僕はなぜだか、その子に傘をあげるべきだと思って歩行者ボタンを押した。

押してすぐに後悔する。

見ず知らずの男が話しかけるのは気持ち悪いんじゃないか?傘だけ渡して去ろうか?そもそもこの突風混じりの豪雨の中で無用の長物と化した傘を押しつけるのはもはや嫌がらせでは?

あらゆる思考が頭を巡ったがそのどれもが、数秒前の自分の安っぽいお節介精神を非難していた。

そうこう考えているうちに、信号は青になってしまった。

僕は傘を畳んで横断歩道を渡る。

車のライトが、斜めに向かって降り落ちる数多の雨粒を照らしていた。

ふと、少女が顔を上げてこちらを見る。

僕はずっと彼女の様子を気にして見ていたものだから、自然と目が合ってしまう。

すると、途端に彼女は走ってどこかへ去ってしまった。

困っている人に何も出来なかった罪悪感と、どうするか決めかねていた自分の行動を決めずに済んだ解放感。僕はなんとも言えない気持ちを自分の中で咀嚼しながら、もう一度傘を開いて、半分だけ渡った横断歩道を引き返して元の通学路に戻った。

そうしてそのまま下校。

なんとか家について、シャワーを浴びる。

なんとなく頭から離れなかったその子のことを、ベッドに潜ってから少しだけ考えようかと思ったけど、疲れていたのでそのまま寝てしまった。


朝食を済ませ、学生服に袖を通し、家を出てから鍵を掛けるまでのルーティンワークをこなし、そのまま学校に行く。

高校二年生として二度目の朝は、当たり前だが去年とさして変わらない。

昨日のひどい雨が嘘のようにすっきりと晴れた清々しい朝の空は、台風一過とでも言いたげだ。

チャイムの鳴る寸前に学校に着いてから、少し慌ただしく荷物を机の中に入れる。

新学期が始まって2日目、まだ友達もまともにいないこの状況では早く着いたところで暇を持て余すだけなので、狙ってこの時間に来ている。

今日は新学期早々であることもあって、ホームルームとオリエンテーションばかりで楽な日課だ。午前の授業が終わり、一人図書館で昼食を済ませ、午後の授業も終わった。

途中、ホームルームで役員決めもあったが、僕は去年に続いて図書委員を務めることにした。

この委員会は好きだ。

本は嫌いじゃないし、カウンター当番の仕事を引き受ければ合法的に図書館で昼食を食べられる。

本当はカウンター当番は二人一組なんだけど、去年僕のパートナーとなっていた先輩はサボりっぱなしで結局一度しか来なかったので、実質一人だった。

正直言って、司書の先生がいつでもいるから僕ら図書委員の役割は薄く、おまけにサボってもペナルティがないためまともに仕事をする人はいなかった。

そのおかげで僕は退屈な昼休みや放課後にいつでも図書館に通って、カウンターで読書や課題、ネットサーフィンに明け暮れることができたのだけれど。

今年もそんな一年が送れそうで、ちょっとだけ良い気分になった。


それからしばらくのこと。

いつものように昼休みに図書館に行くと、そこにはすでに後輩と思われる女子がカウンターでノートを広げて勉強をしていた。

今日の担当の人だろう、つい先日に図書委員会の集会でカウンター当番表が配布されたから、自分の当番曜日を理解してここにいるといった具合か。

「…どうも」

僕は一応のマナーは守りつつ無視したければ無視できる程度の声で挨拶をした。すると

「っ!!」

その後輩は僕を見るなり驚いて握っていた消しゴムを落とした。

色白で、黒髪が肩にかかるくらいの長さだ。

あまりのリアクションに少し戸惑いながら、僕は彼女の消しゴムを拾って渡す。彼女は礼を言わずに受け取ってから、ノートに向かったまま言った。

「はじめまして。一年四組の、天本栞です」

簡易な自己紹介だ、愛想も良いとは言えない。なんとなく不機嫌にすら見える。

それでも、最低限の礼は尽くしてくれたのだからこちらも自己紹介で返す。

「僕は、二年四組の来栖雫です。一応去年も通年で図書委員やってたから、なんか分かんないことあったら聞いてね、カウンターの仕事も僕がいる時は僕がやるよ」

何故か張り詰めている空気を弛緩させようと、必要もないことをペラペラと喋ってしまった。しかしそれに対して特に返事もなく、天本さんはまた勉強を始めてしまった。

それにしても……

どこかで見掛けたことがあるような気がしてならない。僕は女子の知り合いなんて少ないし、というかいないから少しでも接点があるなら覚えてるはずなんだが、どうにも思い出せない。果たしてどこで会っただろうか。

それとなく眺めていると、

「いやらしい目で見ないでください」

「ご、ごめん……なさいすみません」

凍るような目つきで睨まれてしまった。

全く如何わしいことなど考えてなかったが確かに不躾に見すぎてしまったかもしれない。しかし、いよいよ気まずくなってきた。

さっきまでは特に理由もなく重かった空気が、今では明確に理由を帯びて僕を苦しめる。

教室に戻りたい、でも露骨に逃げたくない。

僕の中ではかなり長時間葛藤していたが、時間は止まったように進まない。

「あ」

天本さんがまたも消しゴムを落とした。僕はそれを拾って渡す。

「来栖先輩、自分の方が遠くにいても絶対消しゴム拾うんですね」

「え、あぁ、拾うかどうか悩むのが面倒だから一律で拾うって決めてるんだよね」

辿々しくも適当に答えた、正直脊髄反射で拾っているだけだ。理由なんてあるわけない。

「へぇ、それは……良い心掛けですね。これからも続けてください」

淡々と天本さんは言う。

「ど、どうも」

褒められた、少しは雰囲気を懐柔出来ただろうか。

なんとなく安心していると、天本さんは唐突に消しゴムを左手で払って机から落とした。

何してるんだ?

「先輩、何してるんですか?早く拾ってくださいよ」

涼しい顔で言われる。拾えと言われても、今のはわざと落としたように見えたけど……

「あ、うん」

戸惑いつつも消しゴムを拾って渡す。

「よくできましたね」

少しだけ笑顔になった天本さんに言われる。僕は何となく愛想笑いで返したが、「よくできましたね」は消しゴムを拾ってもらった後の台詞として違和感が半端ない。

しかしまあ、気にするほどのことでもない。

僕は気分を切り替え、返却ボックスに入れられた本から、これから読む本を物色しようとすると

「先輩、消しゴム飛んでっちゃいました、拾ってください」

図書館の奥の方を指差しながら天本さんが僕に言う。

「飛んでっちゃったって……絶対わざとでしょ。さすがに自分で拾ってよ」

「でも来栖先輩、一律で拾うんですよね?私と約束しましたよね?」

完全に弄ばれてる。が、さっきのセクハラ紛いの罪悪感もあるし、いちいち噛みつくのも面倒だ、ここは転がされることにした

「約束って言うほどじゃないでしょ……まあ別にいいけど。どこに飛んでっちゃったの?」

「それくらい自分で探してくださいよ」

大分イラッとする言い回しだ。とは言え「一律で拾う」と言ってしまったのは僕だ、これも自業自得。そう強引に自分を納得させてからカウンターを出て、這いつくばって消しゴムを探す。

そして、苦節五分に及ぶ探索の結果、ついに消しゴムを発見した。

「はい、どうぞ」

僕が消しゴムを差し出すと、天本さんはすっかり口を押さえて笑っていた。

「ねぇ、いくら何でも笑いすぎじゃない?」

文句を言うと、笑いながら天本さんは答える。

「先輩が消しゴム探してるところ最高に無様でしたよ!あははっ」

彼女は笑いながら一呼吸置いて僕をまっすぐ見る。

「私、来栖先輩のことちょっと気に入りました、今日から私のペットにしてあげます」

耳を疑った。

ペット?僕の聞き間違いだろうか。

ペットの意味するところが愛玩動物だろうがポリエチレンテレフタラートだろうが、どちらにせよ意味がわからない。

何を言ってるんだ一体。

これは、図書委員にやばい奴が入ってしまったのかもしれない。

そしてやばい奴とは関わらないのが吉だ。

笑ってばかりで僕が差し出した消しゴムを受け取る気配がまるでない天本のノートの上に消しゴムを置いてから、僕はそのまま帰った。


次の日も図書館には天本がいた。

「天本、何で今日もいるの?」

もはや敬称を付ける気は失せていた。

「こっちのセリフですよ、来栖先輩も今日は当番じゃないじゃないですか。もしかして、いじめられに来たんですか?」

ひどい言いようだが、確かに当番じゃないのに来てるのは事実だ。その説明はしておくべきだろう。

「みんなサボってるから何となく僕が来てるんだよ、そっちは?」

「私もそんな感じですかね」

今年になってから司書の先生が代わり、新しい司書の先生は休みがちなので、いよいよ僕の身勝手な行動が正当性を帯びてきている。

今日も天本はノートを広げて勉強しているようだ。僕も黙ってカウンターの席について、勉強を始める。

放課後の図書館はぽつぽつと勉強しに来ている人がいるが、やはり閑静な雰囲気であることに違いはない。

そんな、しっとりとしたような雰囲気のなかで勉強をしていると

「痛っ!!」

突然ノートを押さえていた左手の甲に強い痛みが走り、声を上げてしまった。

図書館内の人が皆、僕の方を見る。

「先輩、ダメじゃないですか。図書館で大きな声出しちゃ」

天本はニヤニヤ笑いながら言ってくる。

見ると、左手の甲にはシャー芯が刺さっており、天本は筆記をするにはとても不向きで、明らかに刺すことに特化した持ち方でシャーペンを握っていた。

「何するの!?」

僕はひっそり声で怒鳴る。

「先輩が物欲しそうな顔してたから、ご褒美あげよっかなーって」

完全に言いがかりだ。

「にしてもいきなりは酷くない?」

「そうでしたか、次はちゃんと予告してから刺しますね」

「余計嫌だよ!」

改めて患部を見ると、芯は割と深めに刺さって手の甲は血を流していた。しかも芯は0.2mmのもの。

「これピンセットでも抜けないんじゃない?」

「先輩が愚図だから抜けないだけですよ、私に見せてください」

そう言って彼女は僕の左手を取る。

細く柔らかい手が僕の左手の甲に触れて、少しだけ脈が速くなってしまうのを感じる。

そのまま彼女は、僕に刺さっている芯を器用につまんで……

「痛い!!痛い痛い!」

グリグリと押しつけるようにして甚振ってくる。

「大きな声出しちゃダメって言ったじゃないですか。鳥ですら三歩歩くまでは覚えてるのに、先輩は0歩で忘れちゃうんですか?」

楽しそうに耳元で罵倒してくる。

僕は慌てて手を振り解いて左手を見た。奥の方で芯が砕けてしまっている。これじゃ綺麗に抜くのは到底不可能だな…

「その芯は首輪代わりです、それが刺さってるうちは先輩は私のペットですからね」

何を言ってるんだこの後輩。

まだ昨日のペット発言引きずってたのか。僕は聞き間違いだろうということでなんとか納得していたのに。

そんな風に、昼休みと放課後には天本に好き放題されるのが習慣化してしまった。

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