33歳の小学生

若松ゲンゴロウ丸

1【朝顔の夏】

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「え!?クビになっちゃうんですか!?」


 想定できない角度からのいかづちが身に降りかかってきた。頭も体もビリビリ感電してしまい、機能が全部停止。

 文字通り、晴天の霹靂へきれきを喰らった。

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 例年より梅雨が早く開けた6月末。

 カラっと晴れたオフィス街の昼下がりは、日本経済を支えるサラリーマン達がビジネスバッグとスーツを片手にアスファルトの上を駆け回っている。家族を守る為、承認欲求を満たす為、週末に遊び倒すため…そんな各々の思惑が交わって社会というものが成り立っているんだと最近分かってきた。

 高校卒業後、1年間就職浪人。歴史的と言われる就職氷河期の壁に阻まれ、大企業はもちろん、中小零細れいさい企業さえ内定を貰うことが叶わなかった。たまたま今の勤務先になる「株式会社パキーラ」とそれなりに大きい企業に拾ってもらったのは、高校に常設していた就職紹介センターの所長と人事部長の笠原さんが偶然にも同級生だったというミラクルのおかげである。

 しかし優良企業に入れたからといって順風満帆な社会人生活を送れる訳ではない。14人いた同期は今や俺しか残っていない。社会という荒波に揉まれまくった俺は、今や主任という立場で部下の営業指導なんかもやっている。

 

 社会人15年目、得意先のアポイントで意気揚々いきようようと外出しようとしていた所、人事部長の笠原さんから呼び出しがあった。

「朝顔です!入ります。」

 小会議室は3畳程の大きさで正方形の机が1つ、その机を囲うように椅子が4つある。 扉の向かいには羽目はめごろした窓があり、そこから強い西日が入るのでいつもブラインドは降ろされている。笠原部長は部屋に入って右側の席に座って俺を待っていた。

「おー朝顔、すまんな、忙しいところ。」

 笠原部長は飄々ひょうひょうとした口ぶりはいつも通りだが、発する言葉の音階がいつもより低いような気がした。

 そしてもう一人。

 窓側に座っている黒縁メガネに真っ黒なスーツ・真っ黒のネクタイを着こなしている男が立ったまま俺を見定めている。髪型はきっちり「七三分け」…いやこれはきっと「九一分け」と言うのだろうか?見た目ではっきりと堅物かたぶつだと分かるが、顔の表情はブラインドからこぼれている日差しのせいで朧気おぼろげにしか見えない…

「国家学歴監査特別公安室補佐をやっております黒鉄くろがねです。」

 名乗り終えたと同時に直角にお辞儀。そして、腰を折ったまま右方向からフックを引っかけるように顔の前に名刺を差し出してきた。会って早々ブン殴られるかと思い、反射的に背中を仰け反る。どうしてこんなにも敵体感を覚えるのだろうか?既にペースを握られているが、流れを呼び込むために体を左右に小刻みに揺らす「ウェービング」をしながら「どうも」と軽いカウンターパンチ…いや会釈えしゃく

「朝顔…今から黒鉄さんから何点か質問があるから、正直に答えてくれ。」

「あっ、はい、分かりました。」

 黒鉄は椅子の下に置いてあった1億円の札束が入っていそうな厳重なシルバーのアタッシュケースから、数枚あるA4の書類を取り出し、俺の目を見据え活舌よく質問を畳み掛ける。

「では、朝顔さん。早速なんですがご質問させていただきます。まずは朝顔さんの生年月日をお願いします。」

「昭和57年4月25日です。」

「ご出生の場所は?」

「岡山県の緑御池市みどりおいけし大豆島おおまめしまです。」

「通われた小学校は?」

「同じ島内の大豆おおまめ小学校です」

「いつのご年齢の時に通われていましたか?」

「年齢ですか?ええっと、確か6歳から12歳の間になるのかな。」

「その一度の期間でよろしいですか?」

「何ですか一度の期間って?あなた何が聞きたいんですか!?」

「朝顔、まあそんないきり立ちなさんな。落ち着け、落ち着け」

 挑発的な態度で尋問されているように感じファイティングポーズを取りそうになる。矢継早やつぎばやに質問されるので少し苛立いらだってしまったが、笠原セコンドからのアドバイスで冷静さを取り戻す。深呼吸、ふうー。

「では、改めて質問致しますが、6歳から12歳の時以外には大豆小学校及び他の小学校で授業を受けてはいませんね?」

「そうです。その通りです。」

「そうですか…少し詳しくお伺いしますが、朝顔さんの学年が6年生だった時、7月から朝顔さんはしかるべき義務教育を受けていましたか?」

「いえ、7月の途中から親の都合で大豆小学校を離れていました。」

「いつまで小学校を離れていましたか?」

「ええっと、確か千葉の中学校に入学するまで学校を離れていたと思います。」

 そう、俺は小学校に行けなかった時期があったのだ。


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 ヒキガエルとウシガエルが声高こえだかに大合唱していた真夏の夜のこと。「武史!島を脱出するぞ!」と父ちゃんに叩き起こされ、3分後には家を飛び出していた。

 父ちゃんは町工場の3代目の経営者。高度経済成長期を迎えた2代目の時、景気が良い本土とは対照的に島の景気は悪化。その為、2代目の時に借金は膨れ上がってしまった。それでも父ちゃんの母ちゃんの二人経営で少しずつ借金を返していった。しかし母ちゃんも早くに亡くなってしまい、更に経営が厳しくなってしまった。取り立て屋の圧力も日に日に強くなっていった。

そんなある日、父ちゃんは夜逃げの決意をする。息子の俺にも迷惑をかけたくないという想いが強くなったからなのだろうか、仲が良い海釣り仲間に頼み込み、小型漁船に乗りこんで大豆島を親子で抜け出したのだった。

 脱出後の逃避行は楽しかった。公共交通機関の電車やバスに乗らないというルールを決め、父ちゃんの祖母の住まいがある千葉県流山市を目指すヒッチハイクの旅。基本野宿スタイルだったので、様々なキャンプ場を巡った。

 キャンプ地では木と木の間にハンモックを作ったり、ルアーフィッシングを覚えたり、カヤックで川下りしたり…一番のお気に入りは日没直後のキャンプファイヤーと満点の星空を見上げることだった。

「武史、細かいまきが先だ。そして木の真ん中には小枝や枯葉を積み上げて、その上に太い薪を放射線状に並べて積んでいくんだ。」

「アイアイサー!」

「その後は外側に大きな薪を並べて、なるべく高い形を作るんだぞ。」

「父ちゃん、これだったら火凄いかな?」

「ああ、この形状が一番火柱が立つ。」

「でも、すぐ終わっちゃうでしょ?」

「いいんだ、それで。派手にやってさっと引き上げる。それがキャンプファイヤーの醍醐味だいごみさ。」

「それでも寂しいなあ、すぐに終わっちゃうのは。」

「火が消えてもキャンプは終わりじゃない。火が消えたら夜空いっぱいの星が見えるんだ。」

「星!星見たい!星見たい!」

「そういえば、武史は『カノープス』って星を知っているか?」

「なにそれー?」

「冬になったら一度探してみるといいな。北半球では高度が低いところでしか見ることができないから、『カノープス』を見たら長生きが出来るって言われているんだ。」

「星の位置はどの辺になるの?」

「一番明るいシリウスの位置は覚えているか?」

「うん!おおいぬ座の一等星だよね?」

「そうだ。そのシリウスのずっと下の水平線近くにカノープスは見えるんだ。だから回りに山があったり建物があるとなかなか見ることはできない星なのさ。」

「じゃあ冬になったら、カノープスを父ちゃんと見る!」

「よしっ、冬になったら海の近くでもキャンプしような。」

「うん!」

「見上げてごらんー 夜の星をー

 小さな星のー 小さな光がー

 ささやかな幸せをー うたってるー」

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 島を飛び出して9ヵ月の間、流山市に着くまで二人旅を続けていた。しかし、祖母の家に到着した後、父ちゃんの体調が急に悪化。「大人になっても素直に生きるんだぞ」と満面な笑みをのこし星の一つになってしまった。

 亡くなった後に祖母から聞いたのだが、島を旅立つ時も肺癌の症状が相当進行していたそうだ。父ちゃんが残してくれた物は町工場の鍵だけだったが、最後の時間に思い出を残すことで父親の役目を果たそうとしていたのではないだろうか…今はそう思っている。

 だから、小学6年生の時は、7月途中~翌年3月まで全く小学校には通えていない。

「なるほど分かりました。朝顔さん、昨年末に【学習履歴国家がくしゅうりれきこっかプロファイリング制度】が法制化されたことはご存知ですか?」

「ええ、よくテレビでも騒がれていたので知っています。」

 昨今、学歴詐称が国内で広く横行おうこうしていたことが判明し、国家ぐるみで管理が行く措置をとった。

それが【学習履歴国家プロファイリング制度】の法制化だ。

 国が個人の学歴を管理。更には取得した資格も報告義務が必要になった。現在は役所に行けば第三者の申請であろうと管理されている学歴及び資格を閲覧できる。就活生にしてみれば履歴書の作成が必要なく、国に登録している学歴プロファイリングを役所から取得し応募先の企業に提出すれば事足りるようになった。一方、この制度のおかげで、団塊だんかい世代の学歴報告へのコンプライアンスが非常に厳しくなり、定年間際に学歴詐欺がくれきさぎを指摘され退職金が減額になったというニュースがよく流れていた。

 さらに喜んだのはゴシップを扱うメディアだった。国会に初当選したタレント議員、ワイドショーに頻繁に出演してお茶の間受けの良いコメントを残すアマチュアコメンテーター、一代で瞬く間に億万長者となった羽振りの良いベンチャー企業の社長、マスコミが持上げるだけ持上げ、同時に学歴の粗を探し出す。時の人は叩けば埃が出てくることも多いらしく、幾度となくテレビで「学歴を偽っていました。」と謝罪シーンを見せられたから、さすがに【学習履歴国家プロファイリング制度】の事は耳に入っていた。


「つまり、朝顔さんは民法千八百二十五条に該当する、履歴書上の報告において誤った記載があったということです。」

「えーと、大豆小学校を卒業できていないのに、卒業したと記載があったということですか?」

「その通りです。」

「そうでしたか、それはどうもすいませんでした。以後気を付けます。」

「この話、すいませんでは済まない話なんでっす!!」

 黒鉄の様子が一変し、荒い口調で一喝された。レンズの奥の眼光が鋭く光った。

「いや、しかし、僕は学歴を詐称した訳ではありません!履歴書の記載に誤りがあっただけです。しかも高校や大学ならかく、僕の件は小学時代の話ですよ?」

「朝顔さん、大学だろうが小学課程であれ、学業には変わりありません。それに【義務教育未了者特別受講制度】はご存知ないのですか?」

「なっ、なんですか、その制度は?」

「朝顔さんは直ちに【義務教育未了者特別受講制度】を利用して小学の課程を修了してもらわなければいけません。そして義務教育を受講している間、正社員の形態での勤務が禁止されます。すなわちこれは、社会人としての免許書を失効するということと同じ意味になるのです。」

「ちょ、ちょっ、ちょっと待ってください!急にそんなことを言われても困ります!」

 突然の宣告に汗が噴き出した。

「朝顔、落ち着け、落ち着け。」

「いや、部長落ち着けないっすよ!じゃあ、その義務教育なんとか制度で小学校の教育を受け終わるまで会社で働けないってことですか?」

「おっしゃるとおりでございます。小学の課程を修了するまで教育を受けることを優先しなければいけません。すなわちこれは労働の権利を失うことと同義でございます。そして御社、株式会社パキーラ様の就業規則によりますと…」

「黒鉄さん、後は私が言いますから。」

 笠原部長が急に立ち上がり、一息付いた。そして興奮している俺の肩をポンと叩いた。

「朝顔。お前が小学課程を修了するには、あと154日間分の補講を受けなければならないらしい。今の世のシステムをかんがみて、どんなに急いでも5ヶ月は会社を離れないといけないようだ。」

「5カ月も…ですか?」

「今、連鎖的な世界規模の金融危機の影響が、うちの会社にも直撃していることは知っているよな?」

「はい…」

「お前は本当に会社想いで、社員の士気を上げることを常にいとわなかった。朝顔の会社への貢献度は誰もが知っているところだ。でも、すまん。うちの会社は5ヶ月も長期休暇している社員を援助できるほど今は耐久力がない。お前を守れなくて、ほんまにすまんかった。この通りだ。許してくれ!」

 笠原部長が俺に向かって頭を下げている。

「え!?クビになっちゃうんですか!?」

想定できない角度からのいかづちが身に降りかかってきた。頭も体もビリビリ感電してしまい、機能が全部停止。

 文字通り、晴天の霹靂へきれきを喰らった。


 その後のことは、ほとんど何も覚えていない。

 どうやってその場を離れたのか、どうやって帰路に付いたのか…おそらく、課長にも部下にも何も挨拶せず会社を出て行ったのだと思う。

 

 まさか、今になって義務教育の壁が立ちはだかるとは…

 


 パキーラに勤務している時から経年劣化著しい社宅に住んでいた。しかし、クビになった俺は2週間後にはここを退去しなければならない。窓も開けたくない、カーテンも閉め切ったまま、4畳半の畳の部屋で現実の壁に打ちひしがれ、うつ伏せに倒れていた。

「はあ…どうしようかな。」

深い溜息がでる。流山市の祖母の家はもう存在しない。以前お世話になった親戚が8年前に亡くなってから、お袋の親族が土地ごと売却してしまったらしい。お袋の親族とは会ったことがないので、33歳にもなって図々しく転がり込むのは忍びない。

 じゃあどこに行けばいいのか?行き先も無いのに「荷造りをしなければ」と無理やり体を起こした矢先、窓際に転がっている冊子が目についた。その冊子は笠原部長と黒鉄との別れ際に手渡されたものだったことを思い出した。あの時は、茫然自失ぼうぜんじしつで何を言われても右から左に受け流すことしかできなかったが、その冊子の一番フォントの大きな文字を注視した。蜘蛛くもの糸をたぐりよせるような気持ちで。

『義務教育未了者特別受講制度通信教育のご案内』

 民間がやっている専門学校の案内か…義務教育未了者特別受講制度が制定後、俺のように労働の権利を突然失った社会人が五万といることで、こういった専門学校がビジネスとして成り立つ世の中になっていた。その当事者としては新しいビジネスが成り立つのは有難くもあり、皮肉っぽくも感じてしまうのだが…。

案内状には端から端まで専門学校の名前・住所・定員数、そして月謝が記載されている。どれも今の俺の経済状況ではとても払えない値段だ。1ヵ月分の小学校の授業は月謝9万円が相場らしく、安くても7万円はするらしい。俺は会社をクビになったうえ、住居も失った状態。株式会社パキーラの退職金は支度準備金程度しか貰えなかった。突然の解雇かいこ通告だったとはいえ、万が一のそなえをしていなかったことは痛恨の極みだ。

 専門学校ではトータルで154日分の授業を受けなければならず、最低でも月謝が約5か月分かかる。義務教育未了者特別受講制度は労働の権利を剥奪はくだつする代わりに一時的なアルバイトは認められていたので、細々とした稼ぎでこの時期を凌ぎ切ることも考えていた。

「この望遠鏡売っちゃおうかな…」

 黒く光っている自分の所有物史上最高級の望遠鏡が押し入れに閉まってある。質屋に出したら高く売れるのだろうか。いや、これだけは売っちゃダメだ。自分が自分じゃなくなってしまう。

 更に冊子を読んでいると明るくない未来を思い描いてしまい鬱々とした気分になってきた。そんな中、右端に※の記号で始まる小さく書かれていた一文がフッと目に飛び込んできた。

『※尚、義務教育未了者特別受講制度は在籍していた母校でも受講可能となっております。母校の場合は、地方によっては授業料が税金でまかなわれる場合もございます。ご確認される際は地方の教育委員会窓口にお問い合わせください。』

 これでお金の問題が解決できるのか?早速、携帯から緑御池市みどりおいけしに連絡を取った。

「もしもし、お電話お待たせしました。担当の緑御池市教育委員会のわたりと申します。」

「あの、僕の母校は大豆小学校おおまめしょうがっこうになるのですが、義務教育未了者特別受講制度を母校で受けると受講費ってどうなりますか?」

「はい、緑御池市では、過去に通われていた小学校での受講は無料になります。ご検討いただけるようでしたら、諸々手続きがございますので、学歴プロファイリングをご持参くださいますようお願いします。」

「いやっほーう!うっしゃ、よっしゃあああ!」

 思わず心の叫びが口から漏れてしまった。

「あの…大丈夫ですか?」

「あっ、すいません…準備して後日手続きに伺います。」


 俺の故郷には、あの時卒業できなかった大豆小学校がある。

 そして父ちゃんから亡くなる間際に貰った町工場の鍵がある。

 上手くいけば、学歴と住居の問題が一気に解決するかもしれない!

 故郷に帰ることを決めたと同時に湧き出た一つの下心。大豆小学校には数年前からスミレが教諭をやっていると風の噂で聞いたのだが…



 突発的なクビ通告を受けてから早2週間。

 本州から定期船に乗って大豆島の玄関と言われている大豆港に到着していた。大豆港と本州を結ぶ定期船は、一日往復3本となっていた。俺が小学生の時はその倍はあった気がするが…

瀬戸内海は波がおだやかで、容赦ようしゃなく照らす太陽の光を海面が優しく吸収している。沿岸漁業から帰ってきた旧型の漁船を囲うウミネコの群れが甲高い声でミャーミャー鳴いていた。

「帰ったぁ!ただいま!」

 とりあえずありったけの声で叫んでみると、いぶかしそうに見ていた縞々しましまの猫が「シャー」と声を上げ、そそくさと離れていった。それ以外は何も反応がない。港の回りに全く人がいないからだ。

 揺れる桟橋を渡って渡港から見える建物は、漁獲物を加工・貯蔵する小さな倉庫と本土の品物が手軽に手に入るので島民に重宝されていた「田村商店」。そしてその並びの端には島で唯一のバー兼食事処の「来夢来島らいむらいとう」。建物の奥に目を移すと海岸沿いに舗装された道路があり、その先にこんもりとした森が見える。ここを「スタディの森」という。そしてスタディの森を突き出して見えるのが、大豆小学校の最上部の時計台だ。

 以前は、もう少し島に活気があったような気もするが、この目に見える風景は21年前と比べるとそれほど変わり映えがしない。

そして徐々に複雑な気分になっていった。二度と帰るつもりがなかった故郷の島に、33才無職になって戻る羽目になるとは…

 

 大豆小学校は、港から徒歩10分程の距離。その先に海神様のトヨコラスケをまつ海神神社うみがみじんじゃが見えてくる。その手前を曲がると、鬱蒼さっそうしげるクロマツに囲まれた、舗装が全くされていない急勾配きゅうこうばいな細い坂道が表れてくる。これがスタディの森への入口だ。この坂道は大豆小学校に繋がる一本道で、車が通れる幅はなく通学路の用途以外で使われることはない。すなわちこの道は大豆小学校の先生と生徒が幾年もの歳月をかけて作った足跡そのものなのだ。

 10歳だった頃、海神神社にある島で一番大きなクロマツをよじ登って大きな枝を足場に秘密基地を作った。


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「おーいスミレ!そこの板を取って!」

「あんたバカじゃないの!こんな大きな板、私一人で持てるわけないでしょ!」

「えっ?今そんなこと言われても…俺と松葉まつばが木に上る前に言ってよ。」

「そんなの考えなくても分かるでしょ!?あんた達の想像力は0なの!?」

「たはははは!武史たけし、スミレの言うとおりじゃ!先のことなんて考えてなかったわ!」

「本当バカ過ぎるわよ、あんた達は。」

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 昔よくここで一緒に遊んだ松葉は今何処にいるのだろうか?元気にやっているのだろうか。物思いに老け込みながら坂の頂上に到着すると、ようやく校舎とグラウンドが見えてきた。『緑御池市立大豆小学校みどりおいけしりつおおまめしょうがっこう』と古い板にはみ出しそうな勢いで黒く大きく荒く書かれた表札。入口に門構えはなく、歩いてきた道から直接グラウンドにひも付かれている。数十本のソメイヨシノに囲まれているグラウンド。広さは東京ドーム一個分だろうか。

その端っこのブランコがびついた音をギーギーと鳴らしながら前後に揺れている。 ブランコの線対称の位置には小さな体育室があり、その前方には大きな石碑がある。その石碑には『大豆の石の如く《ごとく》 屈強でたくましくあれ 瀬戸内の海の如く 優しく全てを包み込め』と文字が掘られている。

グラウンドの入口から直線にある三階建ての木造の校舎は、守り神として島を優しく見守っているように見える。明治生まれの120歳。島の栄枯盛衰を見てきた生き証人だ。

 ここは大豆島唯一の小学校なので大豆の島民として義務教育をスタートするのであれば、必然的にこの名前のついた学校に通うことになる。一体今はどれくらいの生徒数が通っているのだろうか?

「痛いっ!」

 校舎を見つめながら歩いていると、何かに足を取られて背負い投げをされたかのようにひっくり返ってしまった。受け身をしっかりとったが、不覚にもひざを擦りむき軽く出血してしまう。太陽からの強い日差しで砂漠にいるように景色がゆがんで見えていたが、転んだ後にグラウンドに目を移すと、辺りに穴ぼこが無数にあることに気付いた。無機質な穴というより、誰かが堀ったような浅い穴だ。

「あははははははは!だっさ!あははははは!」

 校舎の方面から子供の笑い声が響く。明らかに俺を見て笑っている声だった。

「大人をからかうなよ」という気持ちを込めて校舎に顔を向けると、笑っていた子は下駄箱の奥に逃げ隠れていってしまった。

「いかん、いかん。」

 頬を両手でパンと叩き、冷静になる。まあ俺はこの校舎の先輩だからな。住まいと学歴が理由で戻ったとはいえ、今日という一日を「朝顔の凱旋がいせん記念日」と銘打ったから、せめて振る舞いだけは恰好良くしてやろうと心に決めていた。

さっきの男の子、ここの生徒なのか?島民の子にしては小奇麗こぎれいな恰好をしていたような。あの身長だったら上級生だろうか?

おもむろに立ち上がり、服と肌についた砂を何事もなかったかのようにすまし顔でサッサッと払いのけると、不気味な機械音が辺りに響き渡った。

 ゴーン、ゴーンゴーン…

 ソメイヨシノからカラスがクワクワ鳴きなが円状に飛び立っていく。学校のチャイムって老朽化ろうきゅうかするものなのか…

「はい、もう休み時間は終わりよ!早く教室に戻りなさい!」

 あの声は!?甲高い若い女性の声が熱い日差しの中でも心地よく聴こえてきた。20年振りに聞く声でも、すぐに分かった。

 期待に胸躍らせながら声が聞こえる方へ駆け始めた瞬間、

「痛っ!」

 

 

 保健室独特の消毒液の臭い、懐かしいなあ。元気なのに体調が悪いと訴えて、授業中にベッドで寝ることができたという背徳感を思い出す。

「あんた、何キョロキョロしてんのよ!急に学校に現れて一体何してくれてんのよ!?何なの一体?どいうことなの?」

 目の前にいる女性に矢継ぎ早に責め立てられる。

「頭から血を流している大の大人が廊下をスキップしていたら、生徒が怖がることくらい考えなくても分かるでしょ!あんたの想像力は0なの!?」

 膝と顔の擦り傷に粗っぽく消毒剤を振り掛けられた。切り口に合わせ手早く器用な手つきでガーゼを切ってくれてるこの女性が同級生だったスミレだ。大豆島で教諭になっていたのは本当だったのか。

 髪を後ろで結んでおり化粧はほとんどしていないが清潔感がある。上下グレイのジャージを着ていて大人の女性らしさみたいのは感じないのだが、手先が細く、爪の色と同色のマニキュアを塗っている。あのスミレが最低限の身だしなみをしているのは、時の流れを感じずにはいられない。小学校の頃「じゃじゃ馬姫」と言われ、おてんばだけど誰よりも世話好きで同級生だけではなく先生や島のみんなから愛されていた存在。歯に衣着きぬきせぬ物言いが今も変わってなかったことが嬉しい。

「あんた聞いてんの!?血だらけの顔で、その気持ち悪いほほ笑みはなんなの!?だいたい何で血だらけでここに現れたの!?」

 スミレが空いてる手で胸倉を掴む。怖いし近いから顔が。

「…二回目は受け身が上手くとれなくて…」

「一人で柔道でもやってたの?あんた前より頭がおかしくなっちゃったわけ!?」

「痛っ!」

 ビンタされるようにベタっとガーゼを顔に貼られ、胸倉を離してくれた。

「そもそも20年も何処にいたのよ!?何も挨拶なしに急にいなくなって、島のみんながどれだけ心配したか、あんた何にも分かってないでしょ!?」

スミレが仁王立ちで激昂している。

「それは本当申し訳なく思ってるよ。でもあの時は仕方ない事情があってさ…」

「借金取りでしょ!島のみんなも分かってるわよ、そんなこと。」

「え?そうなの?」

「あんた達がいなくなった後、町工場が大変だったんだから。」

「町工場は親父一人でやっていたから、誰にも迷惑はかけてないはずだけど…」

「違うわよ!そんなこと言ってるんじゃないの。あんた達の町工場が火事で燃えちゃったから、その後の片づけがどれだけ大変だったか…」

「火事?そっかあ。そんなことがあったのか…それは申し訳なかったなあ。あとで島のみんなに謝りに行くよ…、あっ?えええぇ!?」

俺の住まいになるはずだった町工場が、焼けてなくなっていた。



 その夜、大豆港にほぼ隣接している来夢来島らいむらいとうのカウンターに座っていた。

 瀬戸内海は昔から魚の味が深いことで有名だ。浅瀬が多く海底まで太陽の光が届くからプランクトンが発生しやすい。さらには四方を囲む山々から栄養分が溶け込んだ水が瀬戸内海に流れ込み、魚達にすれば恰好かっこうえさの宝庫となる。強い潮流ちょうりゅうの中を泳ぎ回った魚は、身が引き締まり旨味が凝縮された魚へ変貌をげる。

「はいよーお待たせい!獲れたてのカタクチイワシ。これは今が旬じゃ!物凄く味が深い!高知産の生姜しょうが醤油で食うてくれ!」

 来夢来島はカクテルだけでなく沖合おきあい漁業で取れた魚をその日のうちに提供しているとのこと。さっき来夢来島オーナーの松葉から教えてもらった。 

「まさか松葉がこの店を引き継いでいたなんて…」

「たははははは!武史、おいのことはマスターって呼んでくれよ!10年前に先代が店閉めるっていうから、冗談で俺言ったんじゃ。『この店無くなったら、夢を見てこの島に来るお客さんがいなくなっちゃうよ、来夢来島なんだから。』そしたら『おめえ気に入った、おめえにやるよこの店!』ってさ。まいっちゃうよな、たははははは!」

「なんだその経緯は…」

 マスターこと松葉は、スミレと同じ俺の同級生。もともとは福岡の天神近くに住む都会っ子だった。4歳の頃両親が離婚したらしく、母子家庭として生活費用があまりかからない島暮らしを希望しアイターンでやってきたそうだ。

しかし、島暮らしは当然過酷なものだ。まず職がない。以前松葉のお母さんから聞いた話では、島にきて間もなく週6のペースで本土に出稼ぎをしていたらしい。そのうち島の人と仲良くなってからは畑のスペースを借りて自給自足を始め、田村商店にも勤めることができ本土に行くことは以前ほどなくなったと聞いている。

 お母さんも大変だったが当然松葉も最初は苦労しているように見えた。島暮らしに馴染なじめず、何をやらしてもわんわん泣いていた。好奇心旺盛な子供時代とはいえ島暮らしに適応するのは困難な事だ。

しかしある時、松葉が、山に籠って野草を食べ漁ったり、魚を自前のもりで突いたりと、突然覚醒したのである。何がきっかけで豹変したのか分からなかったので、回りからは海神様が憑依ひょういしたのではと噂になった。俺の知っている松葉は都会っ子だったのがウソのように誰もが認める島一番の快男児かいだんじに成長していった。

 

「じゃあじゃあじゃあ、久しぶりの再会に、かんぱーい!」

 お猪口しゃくにたらふく注いでくれた日本酒が弾け漏れる位、激しい乾杯をさせられた。20年会っていない松葉は性格も快男児のまま、顔は髭をもじゃもじゃに蓄えていた以外は全く変わっていない。でも体は横にも縦にもでかくなったなあ…185㎝100㎏はあるのか?オーバーオールと黄色のシャツがよく似合ってるなあ。

「じゃあ何だよ武史、クビになって家もなくなって、しかも小学生6年生に戻るのかよ!」

「仕方ないだろ!仕方なかったんだよ…」

「まあ、でも良かったじゃねーか。こうやってまた3人で集まれたんじゃからよ!」

 俺は7席並んでいる長方形の青いカウンターのセンターに座っているのに、スミレはむくれた顔をして端っこに座っている。

「あんた…本当明日から授業受けんの?」

 俺に質問しているが、全然顔をこっちに向けない。

「そうなんだよ。役所で手続きしたらさ、ちょうど明日から来年2月いっぱいで義務教育分の補習が終わるってさ。スミレ、役所から届いていただろ?俺の色々な書類がさ。」

「あんたどんなかおして授業受ける訳?こっちは真面目に授業してるんだから、ふざけたら締め上げるわよ!」

 スミレが昼の保健室で見せた怒りの目つきでこちらを睨んだ。

「いやっ…別に邪魔するつもりはないけど、この歳になって小学生の授業を真面目に受けてもなあ…」

「あんたがねーそんな態度だったら生徒に影響するでしょうが!あんたのことも当然小学生として扱いするから心しときなさいよ!」

スミレがこっちに向かって、おつまみで出されていたピーナッツを全速力で投げてきた。

「痛いっ!分かったって!大人しく授業受けますから!それより食べ物は大事にして!」

 スミレはすっかり教師としての職が板に付いている。俺が就職浪人だった頃、学習塾の講師のアルバイトを一年やっていた。黒板の代わりに壁掛けのホワイトボードだったが、それ以外は生徒20人の前で授業する姿は変わらない。学校とは違うので、勉強のことしか教えていないが、当然生徒と近くで触れ合うので、何となく先生の気持ちは分かっているつもりだったが…やっぱり全然違うんだろうなあ、学校の先生は。

「あんた、これ以上この島に迷惑かけたら本当に一生許さないからね!」

「まあまあまあ…スミレちゃん、久しぶり会ったんだからさ、そんなに荒れないで!荒れるのは日本海だけで十分だって!たははははは!」

島人ジョークか何か分からないが、松葉がしょーもない事を言ったのでスミレはその後そっぽをむいて黙り込んでしまった。

 

 もう戻らないと思っていた場所に帰って懐かしい顔に出会う。壁に塞がれて行き先もない真っ暗な道だと思っていたのに、道標のおかげで少し先の道が見えてきた。

 でも、明日からまさかの33歳の小学生かあ。

俺は一体どうなっちゃうんだろう??

「おい、武史!口空けっぱなしで、何考えとるんじゃ?」 

「まあ、でもやるしかないか!ポシティブに楽しんで乗り越えるしかないな!」

「それそれ~。武史それでいこうぜ!じゃあ帰ってきた武史の小学校卒業を祈願してかんぱーい!」

 

 

 あれ?ここは何処だ?

「あつっ!暑いわ!」

 目を開けると、一本の太いはりの先にある低い三角屋根の天窓から強い日差しが目に入った。首から上の部分だけ日が当てられていて、顔が無性に火照っており、全身は汗びっしょりだ。狭くて低い天井、そしてこの湿度、まるでサウナにいる気分。更にほこりっぽい空気とカビの臭ささが充満している。

 昨夜の記憶が曖昧あいまいすぎる。そうだ、住む所がないから…来夢来島の屋根裏部屋を借りたんだ。

 真っ直ぐ起き上がると頭をぶつけるので中腰のまま正方形の窓を空に向かって開ける。一瞬で海の匂いが入ってきたので思わず立ち上がり、天窓から顔を突き出す。

「ああ、海だ。」

 穏やかな波を目で追いながら鼻で深呼吸して、額の汗を手でぬぐうと、大事なことを思い出した。

「今日から学校やあぁぁぁ!」

 しゃがみこむ際、天窓の枠にゴンとあごをぶつけ悶絶もんぜつしそうになったが、持ってきた登山用のリュックのサイドポケットから携帯をゴソゴソ探し出し、画面を立ち上げると「8時28分」の表示。

「やばい!まずいぞ!」

 今日は小学生復帰の日。社会人になって一度も遅刻をしたことがないのに、いきなり出鼻でばなくじかれた。俺が自分で挫いたのだが…

 昨夜は、安堵感あんどかんから日本酒をたっぷり飲んでしまった。何の話をしたかほとんど覚えていないが、松葉から何度も何度も乾杯させられたことはかすかに覚えている。スミレからも何かしつこく小言を言われていたような…思い出そうとすると余計に頭が痛い。

 初日から遅刻だけは勘弁と、勝負日に付ける蝶ネクタイを手に持ってそのままの恰好で外に駆け出した。

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