野山を駆け回る聖霊.
「あそこか」
「ずいぶん歩いたねえ」
1課から二人選ばれて、この山を上っている。掩護には、ヘリが一機。こちらには、念のため捕獲網と麻酔銃を装備した隊員。
幻獣が出たという、報告があった。幻の、獣。
そんなものは存在しない。不思議なものは、なにひとつ。存在しない。すべては存在するものでしかなく、人間が創造力の翼を羽ばたかせているだけ。現実は、幻の存在を許したりしない。
「村の婆さんよると、ここらへんで山菜採ってるときに見たらしいけど」
「ヘリ。GPS認証」
『認証。誤差なし。そこは街の管轄です』
「地図的には、ほとんど県境じゃん」
「グレーゾーン地帯ってやつだな」
山にしては、木が。
「おかしいな」
「どうした戌」
「木の感覚が揃いすぎてるし、太陽の光も、森の中に入ってきてる」
「たしかに、言われてみれば」
放棄された山林なら、こうはなっていないはず。街の予算はほとんど高齢者の対策に使われていて、山林保護の予算など出てはいない。山のほうが、圧倒的に少ない街だから。
「誰かが管理してるってか?」
「それも、凄く、分かっている人が」
「地権者は?」
「ありえない。話を聞いた山菜採りのばあちゃんが名目上の地権者だもの」
「そうか。気になるな。ヘリ。上空から山の状態を確認してくれ。何か、変わったところはないか」
ヘリは、音が聞こえない範囲で離れたところにいる。
『こちらヘリ。さっきから確認しているが、なんというか、とても綺麗な山だ。山肌が斜めにカーブしていて、土砂崩れや一部欠けなどもない』
「綺麗な山、か」
「いちさん、何か動いた。銃を」
戌子が、伏せる。
銃を構えた。1課のエースだから、いちとか
動きは、感じられない。そういう敏感な感覚は、戌子のほうが鋭い。内偵外部担当で居ぬ子だから、戌子。
「二時方向。斜め上」
言われた方向に銃口を向け、確認する。
森の動く音。やわらかな風。
「風じゃないのか?」
何も、感じられない。穏やかな、森。
「いる。いるよ。なにか、いる」
「ヘリ。サーマル感知」
『もっと近づかないと無理だ。ローター音が聞こえることになるぞ』
感知が使えないとなると、本当に目視に頼るしかない。銃を素早く、確認する。弾倉。グリップ。トリガー。安全装置。
隙を見せても、攻めてきたり、してこない。
「敵ではなさそうだけど」
「うん」
「おまえは、見えてるのか?」
「見えてるっていうか、存在を感じる。私に近い生き物なのかもしれない」
「戌に近い」
猫か。
「いちさん、ちょっと離れて待機していただける?」
「どれぐらい」
「十五歩の距離」
戌子から、ゆっくり、十五歩、離れた。
銃を片手に持って、伏せる。戌子に当たらないように、撃つときは独立した射線を確保しなければならない。
風。やさしく、頬を撫でる。
過ごしやすい、森だ。こんなに、心が休まるものなのか。森といえば、うっそうとしていて、よくわからない植物や動物がいるところだと、思っていた。ここは、なんというか、安心がある。
戌子の近く。
なにか、いる。
銃を構えようとして、声。
「いちさん、うしろっ」
振り返ろうとして、肩になにかが、触れる。
動けなくなった。
声が聞こえる。
緊張、しないで。大きく呼吸をして。だいじょうぶ。かっこいい銃ね。見せてもらえるかしら。
声。
肩に触れた部分を伝わって、流れ込んでくる。
戌子。銃を構えて、ゆっくり近付いてくる。
なぜか、安心していた。
危害を加えられることが、ないから、なのか。
また、声。
驚かせてごめんなさい。ヘリも、どうぞ近づいてきてください。山頂に、ヘリの発着ができる空間があります。
「おまえは」
こちらに近付いてきた戌子。声で、止まる。
「おまえは、誰だ」
戌子。走り出す。
肩を振り払い、反転して銃口を向ける。戌子と合流。自分は膝立ちのまま。戌子は立ったまま。
胸の大きな、女性。
何も着ていない。
いや。
女性じゃない。
「戌子。女の股間って、あんな感じだったか?」
「いや、上付きとか下付きとかはありますけど、いちさんのアングルからでも、見え、ない、ですか?」
「見えん」
性器がない。
「割れ目もないってのは、おかしくないか」
「おしっこできないって、ことですよね」
得体の知れない生き物。
困ったように、立ち尽くしている。
「喋れないのか」
銃を、降ろした。
「ちょっといちさん」
戌子が、周囲警戒を解いて相手に銃口を向ける。
「肩に何か触れていたとき。声が聞こえた」
銃を腰に差した。
「俺がおかしくなったら、すぐに撃て。いいな。もういちど接触する」
言った瞬間。
目の前に。
大きな胸。整った顔。
抱きついてくる。
こんにちは。お話ししましょう。
「おまえは」
抱き留めて、気付く。
体重が、ほとんどない。軽かった。
「戌子まだ撃つな」
安全装置が解除される音。
「自己紹介だ。俺から。街の一課のエースが俺だ。一番だから、一とかいちとか呼ばれている」
はじめさん。こんにちは。
「おまえは誰だ。どうしてここにいる」
私に名前はありません。ここにいるのは、ここが好きだからです。
「いちさん、喋れてるん、ですか?」
「おまえは、人か?」
ひと?
「俺たちと、同じ種族、なのか?」
はじめさん。あなたと、いま銃を私に向けている、この、ええと、ひと。このひと。
「人の概念は理解できるんだな」
あなたと、このひとは、違いますよね。違うひと、ですよね。
「そうだな。仕事仲間ってだけだ」
じゃあ、わたしも、違うひとです。みんなみんな、ひとりずつ、違うひと。
「ポエムを聴きたいんじゃない。事実を教えろ。おまえは誰だ。なぜここにいる」
わたしはわたしで、ここには好きだからいます。
「質問を変えよう。そうだな。普段何食ってる?」
たいようのひかり。
「排泄は、しないのか?」
しない。
「植物と人間のハーフか」
むかし、棄てられたんだと思う。そして、森に、育てられた。
「声が出ないようだが」
声。出したことない。
「よし。わかった。いったん離れてくれ」
離れて、すごい速さで木々の間を抜けていく。くっつく前の、位置取り。
「いちさん。大丈夫ですか」
戌子が駆け寄ってきて、簡易バイタルチェックを行おうとする。
「大丈夫だ。チェックしなくていい」
「あれはいったい。すごい速さで」
「おまえ、狼に育てられた子供、分かるか?」
「ええまあ。有名ですから」
「あれの、植物版だ。光合成を獲得しているのに、体色が肌色な理由は分からないけど」
分からないものに、手招きする。
「ゆっくり、歩いてきてくれ」
言われた通り、ゆっくり歩いてくる。
「戌子。手を」
手を、差し出す。
「手を繋げば、喋れるだろう」
「こう、ですか」
こんにちわぁ。
「うわっ」
名前。私も名前決めました。
「野山を駆け回る聖霊」
「ん?」
「あれ」
「あっ声。声出た。すごい。はじめさん。こんにちわぁ」
「こんにちは」
手は、繋がれたまま。
「あなたは?」
「え、わたし?」
「おなまえ。教えて?」
「戌子」
「いぬこさん。こんにちわぁ」
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