領空

凸君

領空

ラジオ体操には欠かさず参加していた。毎朝早起きし、スタンプカードをもって公民館まで歩いていく。そのあと近所のお寺で宿題をしていた時期もたしかあったはず。その習慣は僕に夏空の青さと早朝の空気の冷たさを教えてくれた。しかし罪深いことに、青く果て高い空と、きりりと澄んだ空気を誰かと共有することを強いていたのも事実だ。

 散歩の習慣がいつ始まったのかはもう覚えていない。しかしこのラジオ体操の経験が原点となっていることは確かだと思う。あの頃とは違って僕はもう大学生で、この領空とも呼べる自分だけの空を誰かに侵犯されることもない。寝静まった世界で起きてるのは僕一人だ。自分だけの空気。自分だけの青。すべての空を一人占めしながら歩いていく。お気に入りの音楽を耳元で再生しながら、ポケットに入れたジャラ銭で適当な缶コーヒーを購入し、ベンチか何かに座って読書をする。この時間の何と素晴らしいことか。この世界を一人占めにする感覚は、きっとモラトリアムの期間に生きている人間だけに与えられる特権だろう。

 大学の1限が始まるまであと2時間半ある。そろそろ帰路についても良いころだろう。散歩の時間を設けることで、平々凡々とした大学の日々に少しのきらめきを与えることができる。イヤホンを外し、鳥のささやきに耳を傾けながら家路についた。

 ある日の朝のことだ。「おはよ!こんなトコで会うなんて奇遇だね!」はつらつとした声で僕の静寂は唐突な終わりを迎えた。「ヤマだよね!オハヨ!」確認するようにもう一度挨拶を交わしてくる。なんだなんだと顔をあげると、こちらに歩いてくる女が一人。たしか......。アンちゃんとか呼ばれているあの子だ。同じ学部の。領空侵犯に多少のいら立ちを覚えつつもとりあえず挨拶を返す。「おはよう。鞍橋さん。早いね」「アはは。今日1限休講じゃん?きのう飲みすぎちゃったから、ちょっと散歩をね。」「へえ。気をつけなよ?」「うん。3限からになったから、ヘーキヘーキ」鞍橋は続ける。「ン?何読んでんの?」これまた唐突な質問に戸惑いながらも返答する。「コレ?枝野 蟷螂の『グラス一杯の砂』だよ。知ってる?」「ああ~ァ。有名だよね!私も好き!」......てっきり知らないものだと思っていた。「じゃ、またブラブラしてくるね!またね!」鞍橋は大きく手を振りながら闊歩していった。

 明らかな領空侵犯だった。自分だけの空に飛来する飛行物体。敵機でなくとも空を独り占めできなかったことは事実だ。いくら顔見知りの人だと言えども、制空権を渡すわけにはいかない。再び僕のもとに静寂が訪れたが、缶コーヒーをグイと飲み干し、今日の散歩を切り上げた。

 それから数日の間、僕は領空を支配することができた。秋の朝の皮フが締め付けられるような空気。カラリと乾いた風が僕の頬を撫でる。やっぱりこの感覚でなくちゃ。冷たいコーヒーを飲むと、体がさらに冷まされる心地がして、僕は身震いをした。四季を身をもって感じられるこのひと時は、僕が散歩の時間で一番好きな瞬間だ。自分が世界と一体化するこの感覚。自然の温度と自分が近づいていくのを感じながら、僕は枝野の新作を読み進めた。

 次の日のことだ。「あ!またヤマじゃん!」鞍橋の声だ。また僕一人の世界を遮りに来たのか。「おはよう。講義以外で会うのも珍しいね。また飲みすぎ?」独り占めを邪魔された苛立ちから、少しヤなことを言ってしまった。「ンーや。昨日はそんなに飲んでないかなア。ヤ、飲んでるか......??」鞍橋のことを深く知っているわけではないが、しかしそのために鞍橋が酔いを醒ます目的以外でこんな早朝に外出する理由はわからなかった。そのため、この返答は少し意外だった。「なんだか、気に入っちゃったんだよね。散歩するの」鞍橋はこう続ける。「なんていうか、み~んな寝静まってる時間の街に、独りぼっちでいる感覚?が好きでさ」じゃあ僕に話しかけてくるなよ。と思った。「ヤマはさ。なんでこんな時間に外で読書してるの?」鞍橋と大体同じ感覚だ。と答えれば良いけれども、なんだかそれはシャクだった。「僕は空が好きなんだ」「ヘエ。どして?」「早朝の、青く澄んだ空の下で読書をするのが落ち着くんだ」そしてそれを邪魔してくるのがお前だ。とは付け加えないでおいた。「風流だね」そう言って鞍橋は笑った。「どうだろ。缶コーヒーの売り上げに貢献してるだけかも」冗談だ。「かもね。じゃあ、また講義でね」以前と同じ足取りで鞍橋は去っていった。

 またもや領空侵犯を許してしまい、残念極まりなかった。それにしても、鞍橋が「一人占め」の感覚が好きでこんな時間に散歩しているとは驚きだった。おそらくそういう概念とは無縁の人だと思っていたから。僕は缶コーヒーをまたグイと飲み干した。......本当はちびちびと飲むのが好みなんだけど。

 「ヤマ、オハヨ!」大学で再会した鞍橋は、この前の早朝と同じテンションで話しかけてきた。「おはよう」「この前読んでたのって、枝野蟷螂の新作だよね!」「そうだよ。結構面白い」と答えたものの、かなり意外だった。有名な『グラス一杯の砂』はまだしも、文学少女にはおおよそ見えない彼女がこの新作に興味を示すとは思ってもいなかった。

 彼女には驚かされてばかりだ。「一人占め」の感覚を持っていること、同じ作家が好きでチェックしていること。意外にも彼女と自分との共通点が多いことがわかった。あの強引なところは到底真似できそうにもないが。

 一人で驚いていると、もっと意外な一言が彼女の口から発せられた。「ホント、良かったらでいいんだけど、それ、私にも読ませてよ。」——エッ?  仰天した。「読むのオ?」口にも出た。「読むよオ。好きなんだよね。枝野蟷螂。」

 とりあえず、貸すことにした。連絡が来たのは、ほんの数日後のことだった。「めっちゃくちゃ面白かった!!」声も元気なら文面も元気だ。「よかった。貸した甲斐があるよ」「それでさ、返したいんだけど、家きてくんない?」

 言いたいことはたくさんある。まず、大学で返せば良いわけだし、大学で返せないにしても貸した側が取りに行くってどういうことだよ。わけがわからないうちに押し切られ、地図のスクリーンショットが送られ、日時まで指定された。

 バイトの帰りに彼女の家によることになった。夜遅くにはなるが、パッと返してもらって、パッと帰ろう。明日は土曜日だ。おそらく誰にも邪魔されずに一人の朝を楽しむことができるだろう。

 ベルを鳴らすと、彼女が出てきた。「ゴメーン!ささ、入って入って。」「ここで渡してくれればいいよ」「いいから、入る!」また押し切られる。靴を脱ぎ、居間に案内されると、そこには大量の酒と、つまみと、また、酒。「ヤ、どしたん?」率直な感想だ。「いまから、大感想発表会を始めます」そう宣言すると、彼女はパチパチと拍手を始めた。「拍手ッ!」——どうやら僕もするべきらしい。

 缶チューハイを一気に流し込み、デンと机に置く。胡坐の彼女はこういった。「今回の作品はサ、前までのンとちょっと違うよねェ」どうやら本当に感想を発表したいらしい。「確かにね。退廃的な雰囲気とは打って変わって、明るめの」「そうそう!デカダンしてないと蟷螂ぽくないなァ~。って思ってたんだけど、これはこれで面白い!」結局、僕はちびちびと、彼女はガブガブと酒を飲みながら夜を明かす羽目になった。

 午前4時。僕はチェイサーを挟みながら飲んでいたし、彼女は単純にすごくお酒に強かったから、良い感じに酔うのはこのくらいの時刻になってからだった。「ふウ~ゥ。酔ったねエ~。」紅潮した顔の鞍橋が言う。「ゴメンね?つき合わせちゃって。」「別に、大丈夫だよ。鞍橋が蟷螂好きなのはちょっと意外だったけど、他の人の感想聞くのも新鮮で楽しかったな」「ンフフう。そうでしょオ~?」呂律が回らなくなり始めている。「もうすぐ明けるね。」窓に目を見やると、薄暗い中にほんのりと日が刺しているのがうかがえた。「ソだねエ~。......行っちゃう??」彼女の提案の意図が汲めず、僕は聞き返した。「どこに?」彼女はしたり顔で続けた。「散歩オ。好きでしょ?」

 かなり寒い朝だった。自分以外の人間と散歩するのはもちろんこれがはじめてだった。

「冷えるねえ。うぅッ。」彼女は大きく身震いをして、「まだ、だれもいないね。」そう続けた。「そうだね。」あたりはシンと冷え、霜まで降りている。ザクザクという二人の足音だけが、時が止まって静まり返った街に雪が降るかのように静かに響いた。「はァ~。いいなア」「何が?」「私もね。空が好き」たしかにいいよね。とばかりに頷いた。「凍える街に二人だけ。それを太陽が暖かく照らしてくれてるの」彼女の吐く息が白く濁り、太陽の光をやんわりと反射した。「一人が好き、だったんじゃ?」僕と同じように、彼女にも彼女の領空があったはずだ。「ン~、そだけど、たまには二人でも。そりゃ、一人でいたいときもあるけどね」クスクスと笑いながら彼女は言った。「かもしれないね。」僕は素直に同意した。彼女の言う通り、僕も領空を侵犯する彼女に心を許してしまっているから。

 僕には僕だけの領空がある。彼女には彼女の朝がある。けれども領空というものは確かに大空を介してつながっていて、朝日はまだ眠っている街と起きている二人ぼっちを等しく温めている。二つのコーヒー缶からでる湯気は、重なり合って二人の領空の果てに消えた。

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領空 凸君 @to2yan

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