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支度を終えた桐花は、早速ホフリの君の御神体を拝みに行くべく二人の若い衆を伴って間ノ瀬の屋敷を出た。
(お外に出るのなんて、いつぶりかしら)
はしゃいではいけないということは、桐花とて熟知している。しかし、普段滅多なことがない限り屋敷を出ることの出来ない桐花にとって、外出するという行為は否が応にも心が躍った。
平然とした風を装いながらも心躍らせる桐花とは対照的に、供である若い衆の顔色は優れない。
それもそのはず、村長が閉じ込めるようにしてまで大切に育ててきた孫娘だ。村長直々の許可が下りたとはいえ、大事があっては顔向けどころの話ではあるまい。
そんな若い衆たちの様子を見て、少し可哀想なことをしてしまったかしら──と桐花は思ったものの、まず解決すべきは村祭りである。彼らには悪いが、せっかく得た機会だ。有効に活用させてもらうとしよう。
(この時間帯だと、さすがに村人たちも忙しそうね)
村祭りは三日後に開催される手筈となっている。村人たちはその際に振る舞う料理の下準備や村内の飾り付け、そして神域の神官たちは儀式が滞りなく進められるように整えておかなければならない。この時期になると、誰が道を歩いていようがいちいち目くじらを立てる余裕などないのだ。
桐花はきょろきょろと辺りを見回しつつ、見知った顔がないか探す。
(苅安さんはいないかしら)
協力者である苅安の姿がないか──と桐花は探ってみたが、目の届く範囲にその姿を捉えることは出来なかった。彼は神域の側に住んでいるのではないようだ。
きっと苅安なら、野良仕事も似合うのだろう。勿論良い意味で、だ。
汗水流しながら野良仕事に励む苅安を想像して、桐花はくすりと密やかに微笑む。もしも此処に彼がいたのなら、おおい、なんて言いながら手を振ってくれるに違いない──とも思いながら歩を進める。
しばらく歩いていると、神域、そしてその背後に鎮座する、山の入り口とも言える森が見えてきた。件の御神体は、この山の中に所在している。
(……此処で、かの鬼女が打ち倒されたのね)
村人の中には周辺の山々に山菜や小動物を求めて出る者もいるが、神域付近はその一帯が禁足地となっている。そのため、村祭りが近くとも頻繁に人が立ち入ることはなく、不気味な程静謐としている。
かつて鬼女が住まい、そして打ち倒された地。今はもう、この村を守護する神しかいないというのに、何故か背筋はぞわりと凍る。
(……この不気味な気配は、かの鬼女の怨念なのかしら……)
篝に一蹴されたものの、桐花としては鬼女の鈍いを否定出来ずにいる。
鬼女を実際に見た訳ではない。口伝てに聞いただけで、その絵すら目にしたことはない。大方、母辺りが気を遣っているのだろう。もう絵ごときで怯えるような年頃ではないのに。
これまで村人たちに祀り上げられていたにも関わらず、その村人の一人に殺された鬼女。その心中は如何程のものであっただろうか。裏切られた、と思っただろうか。
実際に、今や村人たちは鬼女を恐れ、そして彼女を打ち倒したホフリの君を崇めている。鬼女からしてみれば、金峰村は裏切り者の集まりなのだ。
そんな村ならば──苦悶のうちに滅んでしまえと、思うだろうか。
「──様、お嬢様」
「……!」
思案の海に沈みそうになっていた桐花は、お付きの若い衆から声をかけられてその意識を現へと引き戻される。
若い衆は気まずそうな顔をしながらも、片手を挙げてある一点を指した。
「此方が、ホフリの君の御神体となります。お嬢様も何度かいらっしゃったことがあるとお聞きしておりますが、これほど近付かれるのは初めてでしょう。お足下にお気をつけください」
「……わかっています」
桐花の眼前には、周辺の木々の中でも郡を抜いて聳え立つ大樹が鎮座している。
これこそが、ホフリの君の御神体。乙女たちが神楽舞を捧げ、村祭りにて祀られる絶対的な存在。
ただの木ではないか──と断じることは出来なかった。金峰村の出身でない者なら出来るのだろうが、生まれてこの方金峰村から出たことのない桐花にとって、その大樹を軽々しく扱うことはおろか、見ることすら不可能であった。
それだけ、偉大にして、畏怖すべき存在なのだ。ホフリの君という神は。
桐花は根の張った地面で転倒しないようにと気を付けながら、御神体へと近付く。若い衆たちはしばらく尻込みしていたが、やがてそろりそろりと桐花の後ろに続いた。
(……何という威圧感なのかしら。動きも鳴きもしない、植物だというのに──私たち人間よりも上位の存在としか思えない)
御神体たる大樹を、桐花は直視出来なかった。その威容には、圧倒される他なかったのだ。
恐る恐る大樹の側まで寄った桐花は、其処でそっと幹に触れる。硬く、ごつごつとしたそれに触れることは躊躇われたが、何とはなしにただ拝むだけでは意味がないような気がしてならなかった。
ふぅぅ、と桐花は細く息を吐く。そして、目を瞑って胸中で祈る。
(どうか、今年の村祭りで──惨劇を終わらせることが出来ますように)
その祈りは、果たしてホフリの君へと届いただろうか。
桐花は大樹から手を離し、少し離れたところで待っている若い衆の方へと振り返った。あまり長居していては、祖父から怪しまれるに違いない。
早いところ戻ろう──と、足を踏み出そうとした時であった。
『──×××』
それは、何と言ったのだろうか。
はっとして、桐花は振り返る。しかし、背後には当然ながら誰もいない。
(今の、声は)
桐花の名前を呼んだ訳ではない。だというのに、桐花は自分が呼ばれたような気がしてならなかった。
若い衆に背を向けて、桐花は再び御神体の方へと向かう。後ろから何やら声がかかったが、気にしてなどいられない。
(先程の声は、一体何処から──いいえ、きっと私にしか聞こえないものだったんだわ。そうでなければ、お伴の二人も気付いているはずだもの)
忙しなく辺りを見回しつつ、桐花はそれらしき気配を探る。“そういった”勘はからきしだと自負しているが、今は何にでも頼らなければならない。
御神体の周りには、何もなさそうだ。──いや、それらしき気配は、何も感じられない。
(此処じゃないのなら──もっと奥かしら)
桐花は足下も気にせずに、駆け足で御神体の背後──詰まるところ、奥まった方へと駆けていく。
お嬢様、と背後から呼び掛ける声があったが、今はそれどころではない。桐花は耳を澄ませつつ、自分に向けて何やら声をかけた存在を探してひた走る。
(何処、何処なの──?)
わからないのがもどかしい。気付けないのが歯痒くて仕方ない。
桐花は息切れしながらも、声の主は何処かと足を動かす。それだけ、放っておいてはいけない、このまま捨て置いてはならないという気持ちが先行する。
それに──あの名前には、何処か聞き覚えがある。
「……っ!」
足下をろくに見ていなかったが故であろう。桐花は地面を這うようにして露出していた木の根に躓き、地面へと倒れ伏した。
強かに体を打ち付けて、桐花の唇からは悲鳴にも似た吐息が漏れる。全身に痛みが走り、まともな声すら出せなかった。
しばらくの間、桐花は起き上がることが出来ずに、躓いた時のままで地面に転がっていた。起き上がる力が入らなかったというよりは、気力ごと削がれたような感覚だった。
「……っ、うぅ……」
幽かな呻き声を上げつつ、何とか桐花は顔を上げる。ぼやけていた視界が、徐々にはっきりとしたものへ戻っていく。
そして──彼女は視界の端に、あるものを捉えた。
(あれは──!)
まだ体のあちこちが痛んだままだったが、桐花は躊躇いなく起き上がった。軋む体に鞭を打ちつつ、“それ”のもとへと近付いていく。
(こんなところに、洞窟があったなんて……)
桐花が見つけたもの。それは、木々の群れに隠れるようにして存在する洞窟だった。
大きさはあまりないが、人一人が通れるだけの広さはあるように思える。桐花程度の人間であれば、余裕で潜ることが出来るだろう。余程の巨漢でなければ、無理なく潜れそうな広さであった。
桐花はごくり、と唾を飲む。恐怖を感じなかった訳ではないが、それよりも先程の声の主を追いかけたいという気持ちの方が勝った。
(もしかしたら──いいえ、きっとあの声は此処から聞こえたはずだわ)
体を屈めて、桐花は洞穴へと体を滑り込ませる。幸いなことに、お付きの若い衆は此処まで追い付いていないようだった。
洞窟の中は薄暗く、緩やかな坂道となっていた。奥に行けば行く程、闇が濃くなっていく。入り口から突き当たりを確認することは出来なかった。
万が一にも転げ落ちないようにと気を付けながら、桐花は洞窟を這っていく。掌が土で汚れたが、先程盛大に転倒したためあまり気にならない。
(この奥に、何があるというのかしら。御神体にも近い訳だし、ホフリの君に関係する何かが秘匿されていても可笑しくはないけれど……)
そのように思案しつつそろそろと這っていた桐花だったが、ふとその手に何やら硬いものがぶつかった。
何だろう、と思い、桐花は歩を止める。手に当たったそれを手探りで掴んで、その感触を確かめる。
(……? 丸い……? それに、所々穴が空いていたり窪んだりしているようだけれど……)
桐花の拾い上げたものは、片手では掴みきれぬ大きさの、丸い形状をしたものだった。
目を凝らして、桐花は拾い上げたものが何かを確認しようとする。石のようには思えないし、そもそも今まで触ったことのない感触だ。もしやこれは、ホフリの君に関係する手掛かりとなるものなのではないか──。
「──え」
しかし、桐花は硬直する。
暗がりに慣れてきた視界。それは、手にしているものをはっきりと映した。
土に汚れ、転がっていたもの。それは、桐花もよく知る──いや、彼女も有しているであろうそれであった。
「人の──骨」
──殴打。
自分の手にしたそれが
痛い。体がぐらり、とよろめく。受け身を取ることも出来ない。
何が起こったのかわからないまま──桐花は、手にした髑髏と共に、真っ直ぐ伸びる坂道を転がり落ちていった。
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