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 自室から比較的落ち着いた色合いの着物、そして体を拭くための手拭いを調達した桐花は、小走りで井戸へと向かう。途中ですれ違った使用人には意外そうな顔をされたが、急いでいることが明確だったこともあってか特に声をかけられることはなかった。


(冬、まだいるかしら。いなくなっていたりしないでしょうね)


 あの無愛想な用心棒ならあり得なくもない。桐花は逸る気持ちを足取りに乗せて、庭先まで向かう。

 夏場だから日はまだ落ちていないが、辺りは幾分か薄暗くなっている。足下に気を付けながら、桐花は縁側から外へと出た。


「冬! お着替えを持ってきたわよ」


 息が弾んで聞き取りづらいかもしれなかったが、構わずに桐花は声をかけ。冬に対しては強気でいなければ──という思いがあったのだ。

 井戸の側に人の気配はない。辺りはしんと静まり返って、物音ひとつしない。

 逃げられてしまっただろうか、という不安が桐花の胸をかげらせていく。やはり、冬を相手にするのは、自分では力不足だったか──。


「──間ノ瀬桐花」

「う、うわあ!?」


 ──ゆらり。

 それは、井戸の裏側──すなわち、影になっている場所から現れた。

 突然のことに、桐花は驚いてすっとんきょうな声を上げてしまう。──が、桐花とてその声の主が誰かわからない程に愚かではなかった。


「ふ、冬……。そんなところにいたのね」

「…………」


 ぽたぽたと、頭から水滴をしたたらせて。

 全身を水で清めたらしい冬は、濡れた素肌に桐花の羽織といった格好で、井戸の後ろにしゃがみこんでいたらしい。己が体を抱き込むようにして、羽織の前を隠している。

 掴んだ腕もほっそりとしていたが、地についた両の脚も何と儚いのだろう──と、桐花はぼんやり思った。

 青白い肌。細い身体。見るからに不健康そうな冬だが、これでも一騎当千の用心棒。見た目と事実の釣り合わなさに、桐花は眼前の人物をつい疑いたくなってしまう。


「とりあえず、私の着物を持ってきたから、早いところ着替えてしまいなさい。体はこの手拭いで拭くこと。風邪を引かれては堪ったものじゃないものね」


 着替えるまで後ろを向いているから、と告げてから、桐花はくるりと冬に背を向ける。誰だって、自分の着替えをまじまじと見られるのは気持ちの良いものではないだろう。

 冬は何も言わず、桐花の持ってきた着物に腕を通したようだった。ごそごそ、という衣擦れの音が、桐花の耳にも入る。自分が着替えている訳ではないというのに、いやに気恥ずかしかった。


(……冬、今まで見てきた人の中で一番痩せているかもしれないけれど、それでも美しい身体をしているわ)


 このようなことを考えてはいけないことくらい、桐花とて心得ている。

 それでも──見惚れてしまったのだ。冬の、あまりにも儚く頼りなく、それでいて存在感を放つ肢体に。


「──間ノ瀬桐花、もう良い」


 つん、と。想像していた以上に優しく肩に触れられて、桐花はびくりと体を揺らした。

 振り返って見れば、其処にはすっかり着物を身に付けた冬がいる。やはり丈は少し足りなかったようで、足元は些か涼しげだったが、違和感を覚える程のものではなかった。

 普通なら、似合っている──とでも声をかけるべきなのだろう。現に、桐花の持ってきた着物は冬によく似合っていた。あまり派手な色合いを好まないだろうからと、あまり目立たない山鳩色の着物を持ってきておいて正解だった。本来なら内側に着るものだが、外に出る訳ではないから問題はないだろう。

 しかし、冬がこの着物を纏うことを良しとしているかはわからない。今だって、よく見る仏頂面である。

 内心では不快なのではなかろうか。何とも言えぬ不安感を前に、桐花は冬に言葉をかけることが出来なかった。


「……? どうかしたのか?」

 

 ひょこり、と冬が顔を覗き込んでくる。沈黙したまま突っ立っていたので、さすがに心配になったのだろうか。

 桐花は平静を装い、何でもないのよ、と誤魔化した。己が心の揺らぎを、冬に知られたくなかったのだ。


「それよりも、冬。着ていたものはどうしたの? 随分血が染み込んでいたようだったけれど……」


 あまり詮索されても都合が悪いので、桐花は早々に話題を切り替える。

 冬の体を清めることが第一の目的だったが、身に纏っていたものも早いところ洗わなくてはならない。

 冬は場馴れしているということもあってか色の濃い着物ばかり着ているが、それでも血液で変色しないとは限らない。血染めの着物など、気持ちの良いものではないだろう。

 桐花から問いかけれた冬は、ああ、と思い出したように言った。そして、井戸の後ろから何かを持ち出してくる。


「シミになってはいけないからな。着ていたものなら、軽く水洗いをしておいた。尤も、私は家事を得手としていないから、あくまでも応急処置だが……」

「まあ、手早いこと。大丈夫、私に比べたら、あなたはよくやっているわ。私なんて、冷水に触らせてもらえない時だってあるのですから。家事なんて、からきしよ」

「……他の──庶民たちのように、過ごしたいのか?」


 それは、特にこれといった感慨を抱いて放った言葉ではなかった。

 しかし、冬にとっては思うところがあったらしい。普段冷厳な冬にしては珍しく──此方を慮るような目で、そう尋ねてきた。


「そ──れは」


 桐花は思わず言葉に詰まった。当意即妙に答えられるはずがなかった。

 たしかに、桐花はこの村を──故郷を出たいと考えている。

 因習によって凝り固まり、頭の硬い老人ばかりが仕切っている小さな共同体。外界を知ろうともせず、たった一柱の──もとは人間だったとかいう、存在したのかどうかさえ怪しい神を祀っている。しかも、つい最近になって誘拐にも手を出し始めた。

 そんな村を好きになれという方が難しい。外界に興味を抱き、外の世界に羽ばたきたいと願う桐花なら尚更のことであった。


(でも──冬に話したら、お祖父様に私の願いを告げ口されてしまうかもしれない)


 祖父であり村長である伝三に、今の自分の思惑を知られては取り返しのつかないことになる。最悪、村を出るどころか、屋敷でさえも出ることを禁じられるだろう。そうなっては一巻の終わりだ。

 返答を待つ冬に、桐花は向き直る。慎重に、機を窺いながら、口を開いた。


「……それを聞いて、どうするつもり? 私がこの村から出たいと言ったなら、あなたに利はあるのかしら」


 思っていた以上に刺々しい声が出た──と思う。こうも責め立てるような物言いをするつもりはなかったが、内にある焦燥が漏れ出てしまったのかもしれない。

 冬の瞳が見開かれる。純粋に驚いているようだった。


「どうするつもりか、と──そのように問われても、私には何とも言えない」

「……それはどうして?」

「私には、どうするつもりもないからだ」


 きっぱりと、冬は言い切った。あまりにも潔い口振りであった。


「私はただ、あなたが物憂げな顔をしているところをよく見るものだから、その理由を突き止めたかっただけだ。もしかしたら、この村に苦しめられているのではないか──と。誰かにあなたを探るようにと言われたのではない。私が勝手に問うたまでのこと」

「そうは言っても……あなた、この村に──間ノ瀬家に助けられたようなものじゃない。その恩義で、お祖父様の利になるような情報を集めている──というのも、あり得ない話ではないわよ」


 真剣に伝えようとしてくれている冬には悪いが、桐花はまだ疑念を払拭することが出来ない。

 冬は、昨年に村のすぐ側で倒れているところを山菜摘みに行った村人に発見、そして保護された。身寄りもなく、行く宛がないという冬に、村長は用心棒として間ノ瀬家に奉公することを提案した。

 謂わば、間ノ瀬家──金峰村は、冬にとって恩人とも呼べる存在なのだ。恩義を感じ、役立とうと思う心があっても可笑しくはない。

 神経質に顔を強張らせる桐花を、冬は静かに見下ろす。その眼差しは、冷たく凍てついた印象のある冬にしては、妙に優しげなものだった。


「……たしかに、間ノ瀬に──金峰村に生かされたのは事実だ。この村がなければ、私は行き倒れて飢え死にしていただろう」

「ならば、尚更」

「──だが私には、この身を、命を、捧げなければならぬ相手がいる」


 不気味な程、落ち着いた声だった。

 思わず口をつぐんだ桐花に構わず、冬は続ける。


「……このような言い方では、駆け落ちでもするつもりかと誤解されてしまいそうだな。言うなれば──そうだな、私には決して揺るがぬ、生きる意味というものがある」

「生きる、意味……」

「是。それを成し遂げぬ限り、私は何処にも忠誠は誓わないし、この身を投じることもない。──いや、成し遂げられるのは私しかいないから、どう思ったところでやらねばならないのだが」


 今日の冬は珍しく饒舌だ。表情も幾分か柔らかい。

 少なくとも桐花には、冬が嘘偽りを口にしているようには見えなかった。冬という人間に、嘘や偽りという存在から遠く離れたところにいる──という印象を抱いていたこともあるかもしれないが。


「……しかし、驚いた。あなたが私などのことを気にかけてくださるとは」


 つい、と冬の目が細められる。桐花は思わず後退りした。


「気にかけるだなんて、そんな……。私はただ、血なまぐさいのが嫌だっただけよ。驚かれる筋合いはないと思うのだけれど」

「だが、私のために着物も持ってきただろう。此処に捨て置くことも出来たというに」

「さすがにお屋敷を素っ裸か濡れ鼠で歩かれるのは気が引けるわよ」

「……あなたは、お優しいのだな」


 ──ふ、と。

 刹那であった。瞬きでもしていれば、見逃していたであろう一瞬であった。


 冬が、微笑んだのだ。


 丁々発止のやり取りをしていた桐花も、これには言葉を失った。二の句を接ぐことなど、出来なかった。


(──美しい)


 まただ。また、この用心棒に美を見出だしてしまった。

 今まで笑ったところを見たことがないからと言って、こうも心を奪われるものだろうか。紡ごうとしていた言の葉を奪うだけの美が、血なまぐさく愛想の欠片もない用心棒に備わっているものなのだろうか。

 ──この用心棒、一体何者だ。


「──桐花!」


 はっと意識を現に戻してみれば、冬はもう微笑んでなどいなかった。いつもの仏頂面で、桐花から視線を外している。


「ああ、桐花、此処にいたのね。自室にもいないものだから、心配したのよ」


 冬の視線の先にいたのは、桐花の母親である小百合だった。

 彼女は縁側から顔を出し、安堵したような、それでいて不安感を大いに残した表情で桐花を見ている。冬と共にいることに、難色を示しているのは明白であった。

 ちら、と冬を見ると、すぐに軽く顎を動かした。早く行け、という合図らしい。


「……ごめんなさいね、私、もう行くわ」


 自分から連れてきておいて勝手に戻るというのは勝手が過ぎるようにも思えたが、このまま此処に留まっていては小百合が心配するだろう。桐花は軽く会釈をしてから、小走りで小百合のもとへと戻った。

 小百合に叱られる、ということはないだろう──と桐花は踏んでいる。

 彼女は、娘である自分に真綿でくるむかのように接してくる。居場所のない村において、唯一気を許すことの出来る存在が桐花なのだ。

 案の定、小百合が桐花を叱り付けることはなかった。ただ、ずっと眉尻を下げて、泣き出しそうな顔をするばかりであった。


「……桐花、あの用心棒の方と何をお話ししていたの?」


 並んで歩いている最中、小百合からはそう問いかけられた。予想は出来ていたので、特に驚くべきことではない。

 桐花は薄く微笑みながら、小百合に答える。


「あの方が血まみれのまま屋敷をうろうろされていたものですから、我慢ならず井戸で清めるよう忠告したのです。無理矢理井戸端まで連れてきてしまいましたので、私の着物を貸して差し上げました」

「まあ……恐ろしくはなかったの?」

「……少し。でも、血なまぐさいのに比べたら、特段気にする程のことではありませんでした。あの方もまた、私たちと同じ人なのですから、何処に恐れる理由がありましょうか」


 落ち着いて、静かに、そして淑やかに。

 小百合が望む姿勢を、桐花はよく心得ている。こうしておけば、小百合は大抵不安げな表情を緩めるのだ。


「……そう。あなたが恐ろしい思いをしていなければ、それで良いの」


 しかし、この日は珍しく小百合の憂いが晴れることはなかった。

 表情を曇らせたまま、小百合はのろのろと歩む。その姿を怪訝に思いつつも、問いかける程の度胸を桐花は持ち合わせていない桐花は、黙って彼女に続いた。

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