扉を開けると
浅間デネル
そこには
なんてことだ。私としたことが、このような失態を冒してしまうとは。本当に情けない。下校前も確認したはずだ。まだ大丈夫だ、と。いや、「大丈夫」という不確定で実に無精な思考が今回のような惨事を招き入れてしまったのだろう。
そう、何を隠そう、私は。
猛烈に、早急に、トイレに行きたい。
午後五時三十二分、私は今、中央特快八王子行に乗車している。車内はそれなりに密集はしている。ちょうど中野を出発したところだった。一つ前の駅、つまり新宿までは何事もなく、惰性で液晶画面と顔を合わせていた。一瞬だ。一瞬にして、私の下腹部に強烈なまでの便意が迫ってきたのだ。何故だ。思い当たる節が全くと言っていいほどない。今日はすでに排泄を二回、排尿を三回済ましている。食事に関しても、原因となり得る食材はなかったはずだ。では一体何故?そう考えているうちにも便意はお構いなしに私を蝕んでいく。次の三鷹までは、十分弱。長すぎる。十分も便達をステイホームさせなければならないのか。途方もない耐久に対するほんの小さなあきらめを悟ったのか、便達は歩みをさらに進めとようと試みていた。まだGOTOトラベルには早すぎる!迫り来る焦燥を抑えるため、私は液晶から目を離し、普段は見向きもしない車内から一望できる家々を眺めることにした。平穏を無理にでも呼び起こさなければならないのだ。誰かこの窮地から救い上げてくれるものはいないのだろうか。
なんてことだ。本当に、なんということだ。
ふと、車内を見渡した時、私は見つけてしまった。私以外にも声にならないSOSを発している者がいるではないか。容姿端麗、有智高才、温柔敦厚なあの立ち振る舞い。あれは同じクラスの綾沢さんに違いない。なんとその後ろの中年男性が綾沢さんの(我々の)夢と希望が詰まった「お尻」を、さわさわしていたのだ。もう一度言う。さわさわしていたのだ。
痴漢じゃないか。
何故今、人生初の痴漢の現場を目撃しなければならないのか。しかもあの綾沢さんが被害に遭っているときた。あんな顔の綾沢さんを見るのも初めてだ。今日の私の運命力は計り知れないものだろう。宝くじを買えば逆に億当たってしまうかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。今はあの中年をつまみ上げるのが最優先だ。痴漢には私と綾沢さん以外誰も気付いていない。ここは私が勇気を振り絞り、歩みを寄せるしかないだろう。私は綾沢さんの方へ少しずつ距離を詰めようとした。しかしここで、驚嘆の影に隠れていた毒牙が、再び牙を向ける。第二の波が来た。冷や汗が滝のように流れ落ちる。私に行くなと言うのか我が子達よ。そこまでして私を抑え込む理由はなかろう。私は行かなければならないのだ。私をこの呪縛から今すぐ解き放ちたまえ。一人虚しく便に語りかけていると次第に、私は正常な判断が出来なくなりつつあった。中年男性の表情に目が入った。その顔は悲しみに溢れていた。一言で表すには失礼なほどの表情。綾沢さんと同じ顔をしていた。いや、なぜたった今罪を犯している者がそのような顔をしなければならないのか。ふざけるのも大概にして欲しい。あの綾沢さんの、夢と希望とその他もろもろがたくさん詰まった「お尻」をさわさわしているのだ。何故堂々と出来ない。貴方は今、人生を棒に振ってまで、一生かけても出会えないような綾沢さんの「お尻」をさわさわしているのだぞ!私が同じ立場であれば、背筋を伸ばし、威風堂々と、「私は今何一つ間違ったことはしていない」と言わんばかりの表情で痴漢に挑むであろう。…いや、何があってもそのようなことは絶対にしてはいけない。我に返り、再び便達との格闘を再開することにした。
どうしたものか。三鷹まで残り五分あまり。普通に痴漢を摘み出すのであれば五分などあっという間に過ぎて行くだろうが、今回は訳が違う。捕まえたところで、三鷹に到着するまでの間、関所前の便達を死に物狂いで堰き止めなければならないのだ。私は残念ながらこれを耐え忍べる程の技量を持ち合わせていない。このまま綾沢さんを見過ごすしかないのかもしれない。否、見過ごしてはならない。私は綾沢さんのなにというわけではないが、それでもあんな顔をしている綾沢さんを放っておくことはできない。そうだ。私には希望がある。痴漢を撃退することが出来た暁に、綾沢さんとお近づきになれるかもしれない。いやなれる。この正念場を乗り越えた先に、明るい未来が待っている。きっと素晴らしい景色であろう。便意など歯牙にもかける必要はない。私なら出来る。
ついに私は、中年へと歩みを寄せる。一歩一歩、着実に。我が子よ。もう止めても無駄なのだ。強くなれる理由を知ってしまったのだから。
距離およそ五十センチ。私はゆっくりと手を伸ばし、中年のさわさわおててを強く掴んだ。
「おじさん。」
車内のおおよそ全ての人間がこちらに視線を寄せる。もちろん綾沢さんも。言ってやるのだ。堂々と。私と一緒に警察に行きましょう、と。
「私と一緒に、…」
いけない。便意がピークに達してしまった。ダメかもしれない。
「私と、一緒に、…」
も、もうダメだ。
「トイレにいきましょう!」
なんてことだ。台詞が上書きされてしまうなんて。恐るべし、便意。暫くの間沈黙が破られることはなかった。状況を把握出来ていない大半の顔は青ざめていた。とてもとても美しいブルーオーシャンであった。私の希望が水平線の彼方に流されていくのが見える。嗚呼、悲しきかな。
関所の番は仕事を放棄した。燃え尽きたのだ。そしておめでとう、我が子達。今日は祝杯を上げよう。
ぷりっ。
扉を開けると 浅間デネル @aratamei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます