毒姫の狗

萩原なお

第1話


 吐息が静寂に溶けてゆく。白濁した空気がすぐさま霧散する様子をキリルは床に這いつくばった体勢でただ静かに見つめていた。あれだけかじかんだ身体も体力が衰えつつある今、震えることはない。まぶたすら下ろすのが億劫で、閉じずにいれば微かに覗いた眼球が冷気に晒され、乾燥していくのが分かった。


(なんで、こうなったんだろう)


 体は力なく横たわっているのに、思考は鮮明だ。

 それがやけに新鮮で、キリルは自分が置かれた状況を俯瞰ふかんした。


(母様達は無事なのかな……)


 自分がいるのは冷たい石の牢獄のはずなのにキリルの目には今も燃え盛る炎が映っていた。

 一月前にキリルが住むむらを焼いた炎だ。

 それはキリルがる中でもっとも過激で、残酷で情熱的な色をしていた。紅薔薇のような艶もあり、夕陽のような暖かみもある。それと同時に血が吹き出したような躍動感もあった。

 記憶に刻まれた炎は過去のものなのに今も消える事なく、こうして荒れ狂っている。


(どうして、僕達だったんだろう)


 今も鮮明に思い出す。前兆など無く、急に火の手が上がった。敵国の仕業か、自然がもたらしたものかは分からない。その日が乾燥し、強風だったのが災いして小さな火はたちまち業火と化した。

 風に煽られ勢いを増した炎は天幕てんまくを喰らいながら大地を舐める。勢いは止まらず、それどころかより一層と激しさを増しつつある熱火はキリルの足元まで広がっている。呼吸する度に肺が焼かれ、苦痛から涙が浮かぶのにキリルは魅入られたようにその場から動けなかった。

 呆然と突っ立っている息子に気付いた母が駆け寄ってきた。火が灯るキリルの衣服を剥がすと自分の上衣うわぎを肩にかけて、抱きしめる。いつもは穏やかなのに、まるで地獄をみたかのように青褪めた表情を見て、キリルはやっと正気に戻った。


「……母様?」


 そして、キリルは自らの身体を苛む激痛に気がついた。右半身が焼けるように痛い。視線を落とすと母の上衣は血なのか分からない赤茶色に汚れていた。上衣から微かに覗く自分の足は赤く焼けただれている。

 痛みの原因を理解したキリルは泣き叫んだ。そうすれば痛みは薄れると信じて。


「キリル、泣いちゃ駄目」


 痛みで涙を流す息子を叱咤すると、母はキリルを力強く抱きしめた。


「ごめんね。ごめんなさい。泣かないで、お願い……」


 首元を濡らすのは母の涙だとキリルは察した。なぜ泣くのか、なぜ謝るのか分からず、キリルは嗚咽おえつをこぼしながら母の背に腕を回す。

 抱擁はほんの数秒。母はキリルの腕を解くと火傷をいたわるように抱き上げ、駆け寄ってきた同胞へと受け渡した。

 頭上で交わされる会話は聞き取れないほど早口で、キリルは不安にかられながらも黙って同胞の腕で大人しくしていた。


「愛してるわ。キリル」


 会話が終わると同時に母はキリルの頬を撫でて、艶然えんぜんむ。


「生きて。あなたは生き延びるのよ」


 同胞が走り出したことで頬に触れる熱が離れた。

 その熱にすがるようにキリルが両手を伸ばし、一心不乱に宙を掻きむしる。どんなに暴れようが自分を離さない同胞へ罵声を浴びせながら、視線は小さくなる母の背中へ。

 右肩から腰までにかけて大きく裂けた傷口が見えた。柘榴ざくろのような赤々しいその色からは濁った赤い血がとめどなく流れている。

 あの傷ではもう助からないのは幼いキリルも分かっていた。キリルは涙でぼやける視界の中、一秒でも長く母の姿を記憶に刻もうとした。熱風が眼球を撫で上げ、乾き痛みが走ろうが、これが母との別れになると理解していたから——。


(グワンは無事?)


 次にキリルは自分を逃した同胞の身を案じた。最後に見たのはどこかの国兵士に捕らえられた姿だ。長きに渡る逃亡生活の末、一回り小さくなった肉体を組み敷かれたグワンは懸命に助けを乞い叫んだ。

 しかし、言語が違うため瑞兵には伝わらず、グワンは連れ去られてしまった。

 キリルは兵士によってを踏みにじられた後、牢獄ここへ閉じ込められた。


(生きなきゃ。母様と約束したんだもの)


 そう考えるが身体はなまりのようだ。

 この身体でもどうにか逃走するすべはないのか、キリルが思考していると重低音が牢の中に響き渡った。


『……お前が新しいいぬか?』


 頭上から降ってきた聞いたことのない言語にキリルは心のなかで首を傾げた。祖国や周辺の国々の言葉ではない。

 キリルは眼球を微かに動かして、声のする方向を見た。

 この部屋で唯一外と繋がる扉の前で一人の子供が立っていた。はぶけるまつ毛に縁取られた瞳、小さな鼻筋に桃色の唇。銀河の輝きを秘めた髪はゆるりと波打ち、まろやかな輪郭を覆っている。

 子供——おそらく少女——の花顔かがんより、その肢体したいを覆い隠す衣裳いしょうが目に入り、キリルは驚いた。薄桃色の布の上を飛ぶ緑色の鳥は、死を招く象徴だ。

 この象徴を見たらすぐ逃げるように言い聞かせられて育ったキリルは逃げようともがく。


『わたしはとう寿莉じゅり。毒鳥を統べる一族の血を引く者よ』


 ずるずると体をくねらせ、少女から距離をとる。

 その姿を少女は冷めた目で睥睨へいげいした。


『可哀想に。お前の仲間はお前を身代わりに見逃せと言ったらしいわ』


 逃げることに集中するキリルは、その目に宿る憐憫の情に気付かない。


『そして、我が君がお前をわたしに差し出した。毒を持つわたしの下僕しもべとして』


 何を言っているのだろう。憐れむ声音が不思議でキリルは動きを止めると少女のおもてを見つめた。


『……お前もわたしと同じ』


 そっと少女はまつ毛を伏せる。


『駒にもなれぬ者同士、仲良くしましょう』


 甘やかな蜂蜜の声は、その声音からは予想もできないほど冷めきっていた。

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毒姫の狗 萩原なお @iroha07

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