中距離恋愛

天竺釦

蛍の場合

蛍は何をしているのか分からなくなってきた。


デート前のバス停、蛍は乗らなければ行けないバスに乗ることが出来なかった。いや、正確に言えば「乗らなかった」のだ。即ち、乗ろうと思えば乗ることが出来た。

現にバスが来る10分ほど前には蛍はバス停に居たし、バスは時刻表通りの11時42分に来た。しかし、そのバスの乗り口の一段目に足を掛けた時、ふと「行きたくない。」と思ってしまったのだ。

そして蛍は

「やっぱりいいです。」と運転手に伝え、そそくさと帰ってきてしまった。そして今、天井を眺めてぼうっとしている。本当に何をしているのだろう。

スマホを取り出して、とりあえず今日会うはずだった彼氏、春磨にメッセージを送る。

「熱が出ちゃって行けなくなっちゃった。ごめんね。」

蛍のいる滋賀から春磨のいる奈良まで電車で約二時間。まだ春磨は着替えてもいないはずだ。

嘘をついてしまった罪悪感と行けば良かったかなと思う後悔が蝉の声に乗って部屋の中をぐるぐるしている。こんなはずではなかった。


蛍と春磨は中学のクラスメイトだった。お互いに別段目立つこともなかった二人だが、帰り道や委員会が同じだったこともあり、何かと接点は多かった。

蛍はなんとなく気になっていたものの、何もしなかったし、する必要も感じなかった。恋人とか友達とか、そんなカテゴライズされたものの中ではなく、ただの春磨と過ごす時間が心地よかったのだ。手を繋いだりキスをすることよりも、一緒に帰る道だったり、触ることも許されていないカッターシャツの向こう側を眺めているのが幸せだった。蛍の三年間はそんなものだった。

蛍の住む町では、同じ中学から八割がたの生徒が同じ高校へ進学する。だから春磨も当然同じ高校に行くだろう、そう蛍は安心していた。

しかし、夏休みまで一週間という時、その予想に反して春磨は引っ越してしまうという事態になった。両親の離婚で母親の実家のある奈良に行かなければならないらしい。滋賀から奈良まで。大人で車があればそう遠くはないが、まだ中学生の蛍には奈良はあまりにも遠すぎた。

悩んで悩んで悩み抜いた末、蛍は気持ちを春磨に打ち明けることにした。どうせ断られるだろう。それでいい。もう偶然出会ったりすることはないだろうし。蛍は半ばヤケを起こして、春磨の引っ越しの日に告白した。

だが、春磨は意外にも「僕も。」と答えた。そして、「付き合おう。」とも言った。

蛍は愕然とした。そりゃ告白したのは自分だし、正直に言って嬉しい。でも…。何故だか手放しで喜べない。

釈然としない気持ちのまま、蛍は春磨と付き合うことにした。そして春磨は晴れやかな顔で引っ越して行った。


そして今日、まさに今日が初デートのはずだった。夏休みに入ったし、部活も引退しているから会おうと春磨が言ってくれたのだ。今日までに電話は三回。春磨は好きだと言ってくれるし、なんの不満もない。だけど、それは恋愛と呼ぶにはあまりにもシンプルすぎるのだ。果たしてこれは恋人と呼べるのだろうか。蛍の年齢ならもっと、感情に流されるままに恋するのではないのか。

そんな思いが蛍の足枷になって、バスの一段目で引き止めた。

こんなことになるなら、告白なんてしなければ良かった。ただのクラスメイトと過ごした甘酸っぱい青春の一ページにしておけば良かった。そう思った。

結局その日は惰性でずるずると過ごし、春磨の「大丈夫?」のメッセージにも返信することはなかった。


あれからずっと春磨とのメッセージは続いている。他愛もない話しかしないし、蛍は返信するのがやっとだった。夏休みの課題も受験勉強もする気が起きなかった。

ダラダラ過ごして何曜日かわからなくなって何日かした日の夕方、おじいちゃんがやってきた。おじいちゃんは蛍の名前を付けた張本人で、たまにふらっとやって来る。今日は近所でホタルが飛び始めたから誘いに来たらしい。ニコニコと蛍を誘うおじいちゃんの気持ちを無下にも出来ず、蛍は行くことにした。


薄暗くなった川沿いをおじいちゃんと歩く。なんだか縮んだような気がするけれど、それは蛍の背が伸びたせいだろう。

五分ほど歩くと、チラチラと黄色い光が降り始めた。

「ほら、ほたる。」蛍を呼んだのか、ホタルを指さしたおじいちゃんの独り言なのか分からなかった。ふわふわ、チカチカ、鬱陶しいくらいにホタル達が飛び回っている。

蛍とおじいちゃんはぼうっと眺めた。そしておじいちゃんが口を開く。

「蛍の名前はな、おじいちゃんが付けた。ホタルも人も、いずれは死ぬ。でも死ぬまで、輝き続けることができるのは、ホタルと限られた人間だけ。だからおじいちゃんは蛍に思い切り輝いて、一生を生き抜いて欲しくて、その名前を付けた。」

蛍はそんな話聞いたこともなかった。夏生まれでもなかったし、疑問には思っていたけれど聞くことはなかった。虫という字が入るこの名前が嫌いだった。そんな風に思っていた自分が急に恥ずかしくなった。

するとおじいちゃんは蛍の顔を見て

「もうそろそろ、行こうか。」

そう言って蛍の三歩先を歩き始めた。遅れて蛍もついて行く。ホタル達が宙を舞う。


もうすぐ夏が終わる。ホタル達は死ぬ。蛍は何をしようか。とりあえず春磨に会いに行こう。ホタル達程早くはないけれど、蛍もいずれ死ぬのだ。だったらそれまで、春磨に向き合ってやってもいい。そう思えるなら、きっと私達はまだ大丈夫だ。何を着て行こうかな。

蛍は暗い夜道をホタルとおじいちゃんと歩いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

中距離恋愛 天竺釦 @aniuy_papico

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る