10 静穏
「いや、だから、なんもないんだよ」
確然とした報告をいっこうに信用しないシノブに、トビタがあきれたように言う。
シノブはトビタに連絡をとり、戦闘後の公園を調査してもらった。だが、そこには死体どころか、争った形跡さえもないという。
「区域の交番の巡査にも応援をたのんで、くまなく見回ってもらったんだ。でもやっぱりなにもないって。明日あかるくなってから、また調べてもらうようにお願いはしてきたけどさ」
まったく、コーヒーぐらいはおごらなくっちゃいけないんだから、とトビタはブツブツ不平不満をならべたてる。
「じゃ、じゃあ、あたしがウソを言ってるっていうのか?」
シノブはいつもどおり、パンツ一枚にシャツを着ているだけで、ベッドに腰かけ憤慨する。
「そうは言ってないが、暗がりだったんだろ?なんか見間違えたんじゃないか?木のコブを人の頭に見えたとかさ。だいたい、女の子が投げたナイフが男のおでこに突き刺さるって、ありえないだろ。いくら腕っぷししか能のないお前でも無理だ、ぜったい無理。変態男は生きていて、とっくに逃げたんだよ、きっと」
「いや、刺さったんだって、ほんとうに刺さったんだって」
シノブはあの瞬間の記憶を思い返す。男の不気味な顔にナイフが突き刺さった光景は、いくらぬぐってもぬぐいされないほど、鮮明な残像としてまぶたの裏に焼きついてしまっている。
シノブは喋りながら、押し倒された時のものであろう、制服のスカートに大量についた、俗にひっつき虫と呼ばれる雑草の、小さい豆状の種子をアルコールティッシュでこすりとりはじめた。
自分でも妙なことをしているとは思うのだが、何かしていないと、人を殺してしまった罪悪感が体をつつみ、精神が破綻してまいそうになる。
それを、冷ややかな目でみながら、トビタが、
「まったく、周章狼狽のていだな」
つぶやく。
シノブは首だけ動かして、トビタをにらむ。
わずかでも動くたびに体のどこかに激痛が走る。
「シャツ脱げ」
「あん?」
「いいから、脱げ。背中も痛そうにしてんじゃないか。見てやるよ」
しぶしぶ、シノブはシャツをめくりあげ、背中をトビタに向ける。
「あ、ああ、打ち身、切り傷、すり傷だらけ。女の子なんだから、もっとおしとやかにしなさい」
「しらねえよ。変質者に言えよ」
「女の子がひとりで、夜の公園をふらふら歩くなって言ってんの」
トビタは、赤くはれた部分をつつきながら、
「ここか、ここが痛いか」
「痛いっ、なにやってんだよ、とっととシップ貼れよ」
トビタは打撲したところにシップを貼り、傷に消毒薬を塗って絆創膏をあてがう。
「ほれ、終わり」
言って、シップを貼ったところをぴしりと叩く。
「あ、いてっ、もっと優しくしろよ」
「もし痛みが強まったり、なかなか引かないようなら、ちゃんと病院に行くんだぞ。本当は、今すぐ行かせたいところなんだけどな」
「保険も入っていないのにか?」
「保険?……健康保険証、ずっと前にわたしただろう」
「あんなもん、偽造だろう?」
「は?違うよ、あれは正真正銘ホンモノ。お前は俺の、扶養家族にしてあるんだからな」
「え、そうなのか?」
「あれ?言ってなかったっけかな」
トビタは続けて、シノブの体や手足をあちこちを握ったり、押したりしながら、ここは痛むかとか、骨は大丈夫そうだ、とか言いながら検査する。
シノブは神妙な面持ちで、トビタのやるにまかせている。
「な、なんか、こんな時だけは、優しいんだな」
シノブが気恥ずかしそうに、つぶやく。
「保護者ってのは、こういうもんなの。俺の母親もガミガミくちうるさい人だったけど、俺が病気したりケガしたりした時だけは優しかったな」
「そんなもんかね」
「ああ、お前のなくした記憶のどこかにも、そういう思い出が、きっと残っているさ」
じゃあ、と言ってトビタは立ちあがる。
「今日は、おにいちゃんが添い寝してあげようか?ひとりじゃ怖くて眠れないだろ?」
「なわけあるか、とっとと帰れ」
「へいへい」
くるり振り向き部屋を出ていくトビタの背中にむけて、シノブが、
「あ……、ありがとうな」
ぶっきらぼうに言うと、トビタは向こうをむいたまま照れくさそうに手を振り、鍵をちゃんとかけとけよ、と言いながら扉の向こうに消えていった。
静寂がおとずれた部屋。
シノブは、ベッドに身を横たえる。
体の重みで、打撲傷が痛む。
やっぱり今日は眠れなさそうだ。
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