ただ溶け合う、蛹の時に

遊月奈喩多

第1話 そっと指でほどいて

「ねーねー、まだ遊ぼうよー!」

「だーめ、これ以上遅くなるとお母さん心配するでしょ?」

「むぅ~」


 はぁ、この顔だ。ちょっとむくれて拗ねたような、幼い頃から見かける佳澄かすみの1番可愛らしい顔。そんな顔されると、私もあんまり強く言えなくなってしまう。

 あかね色に染まる坂を歩く帰り道、ここが私たちのピークで、1番幸せを感じられる時間だ。帰りたくないのは、私も一緒なのだから。


「そしたら、明日もまたここに来よ? 明日もまた、夜になるまでふたりで遊ぼう、ね?」

「いいの?」

「もちろん」

「やったー! お姉ちゃん大好き♪」

 もう、いつもこれだ……。顔では呆れながらもついつい佳澄を甘やかしてしまう私も、いつも通り。そんな日々が続いていくと思うと、まぁ悪くない気分になってしまうから不思議だった。


「あっ、奈央なお? おかえりぃ」

 気だるげな声で居間から火照った顔を覗かせたのは、私たちの母。一応換気のために窓は開けてくれているみたいだけど、まだ帰ってくるのは早かったらしい。


「今日はいつもよりちょっと早め? ご飯までおやつでも作ろっか?」

「いいよ、まだお腹すいてないし」

「そう? 佳澄もいらない?」

「うん!」

 佳澄の元気な返事に少し微笑ましさを感じたけど、正直私は一刻も早くこの部屋を離れてしまいたかった。

「お母さん、お風呂ってもう大丈夫?」

「大丈夫だよ~」

 眠たげな返事に安心して佳澄を洗面所に行かせて、後を追いかけようとしたら母に呼び止められてしまった。なに、と振り返ろうとした頬をいきなり叩かれた!

「――?」

「奈央ってさ、けっこう露骨だよね」

「は、何のこと?」

 とぼけんなよ、と佳澄には見せないような顔をしながら胸ぐらを掴まれてしまう。息が苦しくなるけど、こんなの小さい頃から慣れているから、ただただ小さなその身体を憐れみながら見下ろすだけだ。

「ごめんねぇ、生臭くて? でも、あんたたちふたりを育てるストレスってどこで発散したらいいわけ? アイツは出すだけ出してさっさと逃げるし、周りはあたしばっかり責めるし? 第一あたしは何度も嫌だって言ってたのに、」

「やめて」

 これ以上、聞いている理由なんてない。

 顔も名前も知らない肉親のことなんて聞いても仕方ないし、何より、よりにもよって母の口から聞きたくない言葉がこの先に待っているのが、わかったから。

「ふっ……こっわ、アイツとおんなじ目」

 母は濁りきった目で嗤いながら私を離して、「あんたたちが帰ってくるのに痕跡なんて残すわけないでしょ、もう綺麗にしてあるから」とそっぽを向いたまま吐き捨てた。

 舌打ちを背中で聞き流しながら、私は佳澄の待つ浴室に向かった。呼吸を必死に整え、変な顔にならないように気を付ける。いつもと同じ顔をしていないと、佳澄に心配かけてしまう――それが、何よりも嫌だった。

 喉の奥で熱くなっていく何かを必死に飲み込んで、磨機嫌よさそうに鼻歌を歌っている佳澄のいる浴室のドアを開けた。


   * * * * * * *


 私と佳澄は、母が高校生のときに生まれた双子の姉妹だ。私たちを身籠った母がどういう風に相手の男から扱われたのかは、幼い頃からもう何度も、母の機嫌を損ねるたびに聞かされ続けてきた……思い出すのも嫌になる、酷い言い方で。

 せめて佳澄にはそんな思いをさせたくないから、佳澄の耳には入らないように、ずっと私が聞かされる役は引き受けていて。だから気付いてしまったのだ、私たちのいない間、母がよその男の人を家に招いて“ストレス発散”していることに。

 ビニール袋に入れることすらなく捨てられた生臭いものや、明らかに私たちとは違う長さの髪、いろんな痕跡があった。今日は平気だって言っていたけど、前に湯船に薄い膜みたいなものが浮かんでいるのに触って後悔したこともある。


 母が“あんなこと”をしているのは、私たちを育てるストレスのせいだから、仕方ない。

 それについては、否定なんてできない。


 高校生なんて、私たちだってあと2、3年すればなるものだ。そんな年齢でふたりの子どもを、しかもひとりきりで育てるなんてできるだろうか――と思うたびに震えてしまう。

 それに前に母のアルバムで見つけた、生まれたばかりの私たちと写っている母の写真は、青アザだらけだった。いったいどういうことがあったのか、考えたくなくても考えずにはいられない。

 そんな母が今おかしくなっているのは仕方ないことだ、仕方ないんだ……そう思っている。それは、間違いなく、本当のことだ。


 だから、今日も。

「佳澄、舌出して」

 シャワーの音に紛れさせながら、私は佳澄にそれを強いる。絡めた舌の温もりに急かされるままに動かす指が、彼女の温もりに包まれて、それだけで背筋からぞわぞわと何かが這い上がってくるような気がして、訳が分からなくなりながら。

「お姉ちゃん……っ、おね、ちゃ――――、」

「かすみ、ごめんね、佳澄……」


 佳澄の声でもっともっと、掻き立てられてくる感情の名前を、私はまだ知らない。涙が溢れて止まらないのに、こんなにも、私は昂ってしまっている。


 理由を尋ねても誰も答えてくれないこの気持ちは、私を――

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