平等な青空
篠岡遼佳
平等な青空
登校するのは、半分は義務感だ。制服はあまり着たくないが、ワイシャツにカーディガンでも着てしまえば、そんなに目立つわけでもない。
とりあえず2時間目の現国は出なくていいな、と判断して、俺は慣れた調子で屋上の鍵を開け(ピッキングとも言う)、いつもの軒下に足を伸ばして座った。
ソフトケースから煙草を取り出し、ちょっとよれたそれをそのまま銜える。
ライターは……あれ、ない? いや、そういえば他人に貸したんだった。ケツポケットにあった。
先端に火をつける。呼吸の仕方はここ半年でなんとなく身についた気がする。
息を吸い、代わりに大きくため息をつく。正直この一回が最高にうまい。
煙が立ち上り、空へと向かう。
それをなんとなく視線で追いかける。秋らしい高い青空だ。
俺はそういうわけで、真面目な生徒ではない。
ヤニの匂いが取れるまで、しばらく教室には行けそうにないな。
昼までぼんやりしよう。
そういつも通りのことを思うと、俺は目を閉じて秋風と煙草のにおいに包まれ……。
がちゃ。
おや。
2時間目はもう始まって20分ほど経つ。
鍵は開いているとはいえ、こんな中途半端な時間に来るってことは、サボりかな。
自分のことを棚に上げ、俺はそう考えてから、一体誰が来たのかわくわくした。
この学校には、いじめはないが非行に走るヤツもいないような、まあまともなヤツが多いんだ。一応偏差値もそこそこだし。
だから、俺一人が煙草を吸っていても、多分気づかれているんだろうが、放置されているんだろう。面倒なのだ、個人指導というやつは。
上履きのちいさな足音が近づいてきて、俺を見て止まった。
「あ」
「ども」
「どうも……」
肩を越すくらいの黒髪に、眼鏡をかけて、ちょっと化粧をしている、セーラー服。
やってきたのは女の子だった。
かわいい方だと思う。ナチュラルメイクが合っている。右手首には、俺でも知ってる高級ブランドのバングルをしている。
彼女は一瞬動きを止めたが、しかしすぐに、ふんふん、と空気の匂いを嗅いで、
「……この匂い好き。メントールじゃない方がいい」
と、独り言のように言った。
どうやらこの場にとどまるつもりらしい。まあ、変なことしそうなら俺が出て行くまでだが。
彼女は、一応、といった感じで、空に消えていく煙を指しながら、
「校則違反……っていうか、ハンザイじゃない?」
「酒も煙草もやらねーでハタチになったやつのほうが、絶対やばいと思う」
これは持論だ。彼女は俺の隣に腰を下ろしながら、
「すごい言い訳だね」
「そっちこそ、アクセは校則違反だろ」
「校則なんてあってないようなもんじゃん」
それはそうだ。制服改変してきてるヤツもたくさん居る。ピアスもふつうだ。
「それにこれは貴重品なんだよ」
右手首を、裏表、と見せて、
「遊んでくれてるパパさんにもらった、なんかすごいのなんだって」
お、パパさんと来たか。
俺は軽く言い返す。
「ハンザイだな」
「ま、お互いに? 秘密ですね」
薄くリップの塗られた唇に、内緒の人差し指が触れる。
俺は軽くうなずいて、小さな秘密に同意した。
「で、さ」
俺は続ける。右手首を指さし、
「その傷、なに?」
「え! すごいね、初対面なのにそれ聞いてきたの、君が初めてだよ」
なぜかすごくうれしそうに彼女は言った。
いや、手首の傷って、マジでやばいやつデショ。普通引くよ?
それに、その傷跡は。
「縦、って、珍しいね」
「あのね、ググりながらやってたんだけど、血管を開くようにするには、横じゃなくて縦なんだって。だから縦ばっかりなんだけど、途中でわけわかんなくなっちゃって」
えへ、と軽く微笑む。笑うとえくぼができて、かわいらしい。
彼女の右手首には、誰かが落書きしたかのような、めちゃくちゃな白い線が残っていた。
「パパさんはね、隠すならこれにしなさいって、こんなのくれたの。優しいよね」
「パパさんは、なんか言う?」
「うーん、別に? でも、こんな風になったときは、抱きしめてくれるし、頭もなでてくれるから、幸せかな」
「ちゃんと優しいんだな」
「うん。でも、パパさんまだ将来性がある若い人だから、そろそろ別れなきゃいけないんだけどね」
彼女はまた微笑んだ。
微笑むタイミングではないのに笑っている。
――どうやら、彼女は、ここに居たくない派の人間らしい。
俺は家に居たくない派の人間だ。
あそこにはなにもない。人間同士が住んでいるのに、なにもない。
家は恵まれている方ではあるが、それはそれだけで、それ以上にはなれない。
あの停滞した空気の中にいると、息を吸えなくなる気がする。魚が溺れるように。
だから煙草を吸う。そのときだけ肺が開いて、脳まで酸素が回る気がする。
彼女が右手首をどうにかしてしまうのも、たぶん、そういう八つ当たりだ。
誰かが言っていた。「煙草も酒も、緩慢な自殺だ」と。
彼女は酒と煙草の代わりに、ほかの手段を選んでいるんだろう。
そのうち死んでしまうかもしれないことを知っていながら。
「パパさんと別れるのは、ちょっとしんどくね?」
「ちょーしんどいよ」
彼女はふふっと笑った。
「でもね、私なんかに優しくしちゃうんじゃダメなんだな。もっと、彼には幸せになってほしいんだ」
穏やかな顔で、そう続けると、
「ほんとは、みんなに幸せになってほしい。私の体を全部すりつぶして、使えるものはみんな使って、そうやって……」
"いなくなれたらいい"。そこは、唇だけが動いた。
「俺も同意だな。君ほど勇気がないけど」
「勇気?」
彼女は一瞬で笑顔を消し、
「勇気なんかじゃないよ、ほんとに勇気があったら」
真顔で、俺を見ずに言った。
「あと一歩を踏み出せる」
まぬけなチャイムの音がする。
俺たちは動かない。
「いかないのか?」
とりあえず水を向ける。
「君と少し話をしてたいなあ」
また彼女は微笑む。
――俺は、携帯灰皿に煙草を押しつけてから、
「あのさ、パパさんの代わりにはなれないけど、俺も両手とか体とかあるんだ」
「?」
「こういうこと」
俺は彼女を包み込むように抱きしめた。
頭を、髪を、そっと撫でる。
「…………」
「いつでもどうぞ」
「…………ありがと」
高い秋の空。
一歩踏み出すには、ちょっと綺麗すぎないだろうか?
そうして俺は、許される限りの間、彼女をただただ、抱きしめていた――。
平等な青空 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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