第93話 降臨

「ふはははは! 遂に、遂に至った! ははははは!」


 際限なく瘴気を噴き上げる魔方陣を前に、司教は哄笑を続けていた。


「さあ我が主よ、今こそ此処に現界し! 思う様にこの世を蹂躙されよ!」


 諸手もろてを広げ、天井を仰ぎ見んばかりに背を反らして叫ぶ。


「それが成った暁には、御心のままに世界を御創り給え! されば我ら、手足の如くに御身に永久とこしえに仕えましょうぞ!」


 彼等、名も無き教団の悲願。

 即ち、彼等が奉ずる神の降臨。世の破滅を望むと伝わる邪神の力を以って世界を滅ぼし、己が望む形に再誕せしめる事にあった。


 彼等の教団の聖典とも言える無名の魔導書。

 司教がローブの内に搔き抱く、長い年月を経て表紙の題名が擦り切れたその黒い書物には、神を招来する秘儀が様々な邪法と共に綴られていたのだ。

 それらの邪法の中には、異界の魔物を呼び出す術も含まれていた。それらの召喚が成功し、異界の存在を確信した彼等は、邪神招来の儀式も可能と判断した。

 その実証が、今まさにされようとしている。


「さあいざ! 滅びの化身よ来たれ! 黄昏の刻よ来たれ!」


 気の遠くなるような歳月を経て、解読に解読を重ねた。

 研究が進む内に、書に記された邪法により人間である事も捨て、唯々ただただ目的へと邁進するだけの幽鬼と化した。

 己の信仰のみを善しとし、他の全てを踏み躙り、道具として利用し、ここまで辿り着いたのだ。


 その願いが、祈りが、ようやくにしてこの場で叶う。


 司教は歓喜に震えながら、己が信仰を捧げる神を迎える。


「ははははは! ふははははは!!」


 噴き出す瘴気が徐々に薄れ、次第に何か大きな物の輪郭が浮かび上がってくる。

 司教が高らかに笑い声を響かせる中、黒々とした瘴気が散って行く。

 そして、燃え残っていた蝋燭の灯りが、巨大な何かを照らし出した。


「……はははは……は?」


 哄笑を途切れさせ、疑問符を浮かべたまま、司教はその物体を思わず凝視した。


 それは、魔方陣の遥か上に悠然と浮かんでいた。

 大きさは魔法陣の円周と同程度、直径にして10m程だろうか。金色の球形をした物体だった。


「……何だ、これは……?」


 困惑する司教を前にして、金色の球体の中心に、縦にびしりと一筋の線が入る。

 直後、


 パァン!!


 と、けたたましい破裂音と共に球体が二つにぱかりと割れ、中から大量の紙吹雪が色取り取りに乱れ舞った。


 呆気に取られる司教の目の前に、球体の中から垂れ幕がするすると降りてくる。

 その文面は、


『ハ ズ レ』


 とあった。


「……は? ……はああああああ!?」


 一瞬の停滞の後、訳が分からず取り乱す司教。最早叫ぶ事しか出来ない。


 どうやら巨大なくす玉だったらしい。

 役目を終えたらしく、球体はがらがらとその形を崩した。次いで粉微塵に砕け落ち、紙吹雪と共に舞い散りながら、やがて闇に溶けるように消え去って行った。


 ふと、くす玉のあった位置から、何か小さな物が落下してくる。

 カツン、と乾いた音を立てて魔方陣の上に転がったのは、依り代として使用された奇妙な形の小箱だった。

 それも見る間に形を失い、砂のようにさらさらとした粒子へと変じた。

 残ったのは、吹けば飛ぶような黒い粉の小山だけだ。


「何だと言うのだ……我が神は……我が宿願はどうなったのだ……?」


 パン、パン、パン……


 ふと、呆然と立ち尽くす司教の背後から、軽い拍手の音が響いてくる。


「いやいや、ご苦労様だったね。完全な形の見事な儀式だった。称賛に値するよ」


 振り向いた司教の目には、薄っすらとした笑みを湛えた黒衣の女の姿があった。


 連れの金髪の少女は気を失ったようだが、あの濃密な瘴気の中でも全く平静を保っていたというのか。

 心の内までも見透かすような瞳で、こちらを静かに見詰めている。


「……貴様に、貴様に何が解かる! 我等全てを賭けた悲願だったのだぞ! 術式は完璧だった! 何故このようなざまになった!?」


 頭を振り回して喚き散らす司教を、黒衣の女は穏やかに見守るだけだ。


「まさか……貴様が何か仕出かしたのか!?」


 憎悪の籠った声で叫ぶ司教の声から逃れるように、黒衣の女はいつの間にかに取り出した黒い羽扇で口元を覆い隠した。


「人聞きが悪いね。私は何もしていないとも。ただ、そうだね。間が悪かったと言うべきかな」

「間が……悪い……?」


 ひらりと追及を躱され、困惑を深める司教。


「その通り。君達が造り上げた魔方陣は完璧だった。ああ、まさに完璧だったとも。奉ずる者の住まう異界の部屋を探り当て、丁寧にノックをし、あまつさえ合鍵を作ってまで扉を開いて見せたのだ。まさに偉業と言って良い」


 慈しみさえ感じるような優しい声で、女の言葉が紡がれる。

 そこには掛け値なしの称賛が込められているように感じられた。


「その功績を称えて、ネタばらしをしてあげよう。術式は完全な物だった。魔力の量も申し分無い。しかし、だ。君達が開いた部屋の主は、残念な事にちょうど外出中だったのだよ。解かるかね?」


 羽扇から覗く女の目が、徐々に弧を描き始める。


「君達が神と崇める存在。其の者は、遥か昔に『こちら』へと現界を果たしている。君達は、誰もいない留守の部屋を延々とノックし続けていたと言う訳だ」

「な……なんだと……!?」


 女の言葉を受けて、司教の足元がぐらつく。


「我々のやってきた事は、全て……全て無駄だったと……?」


 司教の膝が地に墜ちた。

 途方もない虚無感が全身を覆い尽くし、べたりと両手を床に着ける。


「ふふふ、とても良い見世物だった。最近はハッピーエンドが好みだったが、やはり良いものだね。他人を散々踏み台にしてまで登り詰め、願いが成就する絶頂の瞬間に、一転して叩き落される者の無様を見るのも」


 嗤っている。

 羽扇の裏で、にんまりと口を三日月のように歪め、満足気に嗤っている様が透けて見えるようだ。

 そこには英雄と呼ばれる者の面影などは微塵も無い。他人の失墜を嘲笑う、悪魔じみた歪んだ笑みが有るばかりだった。


「完璧な仕事をこなして見せた後で、肩透かしを食らった気分はどうだね?」


 女の言葉が、追い打ちのように司教の心を抉る。


 だが、しかし。

 司教の胸に引っかかる物がある。


 この女は、何故そんな事を知っている。

 彼等が奉ずる神は、彼等ですら名も解からぬいにしえの存在だ。それについて、何故そうまで断言出来るのだ。


「……もしや……」


 黒衣の女の有様を見て、司教の内心に閃きが宿った。


「もしや! 貴様……いや、貴女様が! 我等が主なのではありませんか!?」


 縋りつかんばかりに手を伸ばし、黒衣の女へ問い質す司教。

 女は応えないが、構わず続ける。


「現界されているならば! 何故この世を滅ぼして下さらないのですか! 貴女様はそう在るべき者なのでしょう!?」


 必死の形相で叫ぶ司教へ、ふっと微笑んで見せる黒衣の女。


「君は幼い頃、蟻の巣に水を流し込んで遊んだ事は有るかね?」

「は……?」


 質問へ質問で返され、司教の思考が止まる。


「子供は無邪気で純粋なものだ。目に付いた蟻を片端から踏み潰すような残酷な事でも楽しむ事が出来る」


 返事を待たずに続ける黒衣の女。


「しかし大人になった後も、わざわざそんな事をする者がどれだけ居るかね? まして、蟻自身にやってくれと頼まれたとして、そんな面倒事を引き受けるかね?」

「……我々が、蟻だと……」


 声を引きつらせる司教に、黒衣の女は我が意を得たりと笑みを大きくする。


「放っておいても、たかだか数千年程度で勝手に滅びて行く世界だ。わざわざ手を下すまでも無いだろう?」


 羽扇の陰で口を弧に歪めながら、黒衣の女は言い放つ。

 司教の身体が硬直し、そののちに激しい震えが襲い来る。

 自らを含め、この世界の全てが塵芥に等しいと断じられたのだ。その衝撃たるや。


「──いや、蟻にも蟻の生がある。少々例えが悪かったね。言い換えようか」


 驚愕のあまり声も出ない司教を前に、黒衣の女の貌に慈しみが戻る。聞き分けの無い子供を、諭すような優しい口調で語りかける。


「君達の世界は、美しく火花を散らす線香花火だ。それは、少し揺らしただけでも落ちて消えてしまう程に儚い物さ。確かに以前の私ならば、それをわざと吹き消して楽しんだりした事もあったかも知れないね」


 女は目を細めて続ける。


「君達は、私にとっては瞬き程度の刹那で滅びゆく、とてもとても矮小な存在だ。しかしいつの頃からか、その短き時を懸命に生きる有様に、まばゆい輝きを見出せるようになったのだよ」


 片手を挙げ、虚空を仰ぎ見る黒衣の女。その瞳に慈愛の光が宿る。


「だからこそ、今の私はその輝きが愛しくて仕方がない。敢えて揺らして散らしてしまうなんて勿体ない。できるだけ長く、静かに眺めているのも悪くないと思えるのだよ」


 その言葉を受けて、司教はわなわなと震えながら問いかける。


「で、では……こちらへ現界された目的は……」

「勿論、観光さ。出来るだけ近くで、世界に溢れる君達の物語をつぶさに見て回る為に此処にる。滅ぼすなんてとんでもない」


 黒衣の女の視線が、完全に気力の萎えた司教へと戻された。


「さて、こうしてお喋りしているのも楽しいものだが。一つ残念なお知らせだ」

「は……?」


 思わず間抜けな声を漏らす司教へ、黒衣の女は告げる。


「開いた『門』が、そろそろ閉じる時間だ。部屋の扉が開きっぱなしというのも体裁が悪い。責任を持って、君自身が鍵となって閉めてきてくれ給え」


 女の声と共に、司教の背後で沈黙を守っていた魔方陣が激しく明滅を始めた。

 同時に、先刻とは逆に周囲に漂う瘴気を凄まじい勢いで吸い込み始める。


「おおおお!?」


 司教自身も例外ではなく、魔方陣へと吸い寄せられていく。必死に床へと噛り付き、抵抗を試みる。


「ああ、そうそう。君には届け物があったのを思い出したよ」


 その言葉に視線だけを向けると、笑みを浮かべる女の背後の壁に、大きな影が映っている。その影に、二つの燃え盛る紅い瞳が宿っているのが見えた。


「迷い犬を保護していたのでね。飼い主に返そうじゃないか。ああいや、『元』飼い主だったかな?」


 女が言うなり、壁の影から巨大な黒い狼が飛び出して、司教の身体にかぶり付いた。


「うおおお!? 貴様は、黒狼!?」


 眼と口から漏れ出る炎に焼かれながら、司教が黒狼に咥えられて、魔方陣へと運ばれる。


「『こちら』へ呼んでこき使ってくれたお礼に、『あちら』を案内してあげたいそうだ。楽しんできてくれ給え」


 女が話す間にも、司教は黒狼に噛み千切られながら、魔方陣の中へずぶずぶと沈み込んで行く。


「ぐああああ!! うおあああ!!」


 抵抗しようにも、巨大な顎は揺るぎもしない。爪で引き裂かれ、灼熱の炎に巻かれる内に、身に纏ったローブが無残なぼろ切れへと変わっていく。


 衣装が剥がれ落ち、司教の姿があらわになる。


 そこにあったのは、人の肉体ではなかった。

 目も鼻も口も無い。肌も爪も髪も無い。人の輪郭だけを残した妄執の残滓。漆黒の闇の塊。それが司教の正体だった。


「そうそう、言い忘れていたが。君達がこの魔方陣に溜め込んだ魔力は、『門』を開く事にしか使われていない。召喚された者が受肉する為に使うはずだった分は、丸ごと残っている」


 黒狼に抗いながらも魔方陣へと没し行く司教に向けて、黒衣の女が声を投げる。


「そしてその魔力は今、鍵たる君の中にある。おめでとう。君は今、真実不老不死となっているのだよ。数多の人間が求めた物を、君は手にしているのだ」


 その言葉を裏付けるように、司教の身体は黒狼がどれだけ激しく傷付けようと瞬時に元に戻っていく。

 しかしそれは、地獄の責め苦が終わらない事を意味していた。


「まあ、魔力が消え去るまでの限定的な物ではあるけどね。『あちら』の私の友人達は、私程優しくない者も多いかも知れないが、まあ何万回死んだ所で簡単に滅びはしないさ。それでは行ってらっしゃい。良い旅になる事を祈るよ」


 周囲へ噴き出した瘴気が渦を巻き、司教と共に魔方陣へと吸い込まれていく。

 司教が最後に見た光景は、自分を食い散らかし、燃やし続ける巨大な黒狼と、満面の笑みを浮かべてこちらに手を振る黒衣の女の姿だった。

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