第3話 プロローグ 3

 海面からそびえ立つ海魔は、甲板を陰で覆ってしまう程の大きさだった。


 高さ30mのフロンティア号より更に上なのだ。50mはあるのだろうか。


 本体が姿を現すと同時に、撃退したと思っていた触手が先程の倍以上の数になって海面から浮上してきていた。今にも船体に取り付こうと迫っている。


「本体が出たぞ! 今だ!」


 冒険者が叫ぶと、小さな影が魔物の前へ進み出た。


 フードを被った小柄なその冒険者が、両手に持った筒状の物を魔物へ向けると、ガンガンッと乾いた音と共に光の筋が幾つも魔物へと放たれた。

 魔銃という、魔力を直接弾丸として発射する魔導兵器である。


 狙いは過たず全弾命中し、魔物の本体らしき胴体を何本もの光が刺し貫いていった。


 キュウオオオオオオオオオオ!!


 悲鳴か恫喝か判断し難い雄叫びが上がる。その声だけで物理的な圧迫となって聴く者の脚を竦ませた。


「効いてない……!?」


 更に魔弾を撃ち込むが巨体は揺らぎもしない。

 それどころか無数の触手が動きを再開し、手あたり次第に船体と人々へ襲い来る。


 フードの冒険者を庇い、先程の大男が前に出て触手を牽制する。


 ソルドニアも立ち上がり、兵士達を下がらせて剣を振るう。


 しかし誰もがすでに体力の限界を感じていた。

 武器を振るう腕は鉛のように重く、思うように動かない。


 しかも海魔の巨体が荒波を起こし、船が大きく揺さぶられる。立っているのも困難だ。


 次第に触手の勢いに押され、手足を拘束されて行く。

 そして間断なく響く咆哮によって士気が削られる。


 もう駄目か……その場の誰もが思った時。


「──騒々しいね。一体何事かな」


 涼やかな声が響き渡った。


 混乱したこの場には全くそぐわない、落ち着き払った美しい声だ。


 それほど大声を発した訳でもない。それでもその場の全員が完全に聴き取っていた。


 それを聴き、その場にいた全ての者が──化け物ですら動きを止めた。


 船室の入り口に声の主が立っていた。


 濡れたように艶やかに光る黒髪を高く結い上げた女だ。


 光も吸い込むような漆黒のドレスは、凹凸のはっきりした見事な肢体を誇示するように、ぴたりと肌に密着している。まるで闇そのものを纏っているようにも見える。

 同じく黒い羽扇を片手に持ち、口元を覆っていた。


 女は甲板をざっと見回し、海魔を確認すると、近くにいた船員へと問いかけた。


「これは何かの催しかね?」


 船員は僅かの間女に見惚れていたが、すぐに我に戻り返答する。


「い、いえ、魔物の襲撃です! 危険ですので船室へお戻りを……!」

「成程。可愛らしいお客さんかと思ったが、沈没の危機と言う訳だね」


 ぱしん、と羽扇を畳み、女は歩き出した。船の揺れなど全く無いような自然さだ。


 黒いドレスの深いスリットから、陶磁器のように白い脚が見え隠れする。


 美しい──


 ソルドニアは思わず目を奪われた。

 羽扇の下には傾国の美女もかくやと思われる程の美貌があったのだ。


 黒真珠のような深い色合いの瞳。柔らかな弧を描く目元。すっきりとした鼻筋。穏やかな笑みを湛えた朱を差したような唇。


 全てが完璧な絵画のようであった。


 しかし目の前を女が通り過ぎた時にハッと我に返る。


「いけません、ご婦人! お下がりください!」


 と叫ぶも、傷の痛みに足が出遅れ、たたらを踏んでしまう。


「君も船の関係者かね? それなら無事な者を避難させてくれないか。それと皆に注意を。今から少しばかり揺れるので、何かに掴まっているようにとね」


 穏やかだが、有無を言わせぬ毅然とした言葉だった。


 女は騎士団長を横目にそう言うと、再び動き始めた海魔の前へ悠然と立った。


 海魔はそれを見定めると、船に絡めていた触手を解き、それぞれを束ね合わせ始めた。まるでその女がこの場の最優先目標であるかのように。


 そして巨大な丸太のようになった触手の束、当たれば確実に甲板を真っ二つにするであろうそれを大きく持ち上げ、一気に女へと振り下ろした。


 次の瞬間、何かを叩き潰したかのような轟音が甲板に響く。


 一部を除いたその場にいた者達は、女ごと船を叩き割られたのだと感じて身を伏せた。続くであろう沈没の衝撃に備えてだ。


 しかし暫くしても何事も起きない。


 冒険者数人と騎士団長はその瞬間を目撃していた。


 触手が触れる寸前、女が何をしたのか。


 片手の親指で中指を押さえ、接触の瞬間に中指を弾いたのだ。所謂「デコピン」である。


 女の打撃を受け、海魔は大きく仰け反っていた。触手の束は半ばから消し飛んでいる。


 そこへ、


「痛くしてすまなかったね。それでは御機嫌よう」


 女はふっと微笑むと、羽扇を軽く扇いで見せた。


 すると、豪とした凄まじい突風が吹き荒れ、海面を抉り取る程の勢いで海魔ごと吹き飛ばしたのだ。


 キュオオオオオオオオン……


 海魔の姿と、悲鳴らしき声が遠ざかると同時に、船も推進力を得て見る見るうちに距離が広がっていく。


「「うおおおおおおお!」」


 急激な発進を受けて、甲板に残っていた人々が必死に手近な荷物に掴まるが、間に合わなかった者が宙に巻き上げられた。


 その中に騎士団長も有り、海へ落ちる覚悟をして目をつぶるも、次の瞬間には何か柔らかい物に包まれる感触が伝わってきた。


 恐る恐る目を開くと、光の網のようなものが自身を受け止めているのがわかった。


「大事無いかね?」


 気付けば女が前に立ち、手を差し伸べている。


 慈愛に満ちたその姿は日差しが後光の如くに差し、まるで女神のように見えたのだった。

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