赤、透きとおる
蜜柑
はじめから終
放っておいたら死んでしまいそうな人だった。
それは初めて会った時から、最後までずっとそう。それでも、私がなんにも手を出さなくても彼女が生きていられたのは、本当は死んでしまいそうに見えるだけで、見せているだけで生きている人だったからだと思う。
本当に、私だけが一方的に嫌な気持ちを重ね積もらせるような関係だった。結局私は彼女にとって、赤の他人以上の何者にもなれなかったのだ。
◆
全ての始まりはひとつの言葉。市立図書館に赴いて、おすすめ本のポップを見ていた。どこぞの一般人の本好きたちが薦める本の中には面白そうなものもいくつかあって、本は面白くなさそうだけどポップは面白い、なんてのもいくつかあった。彼女のはその類だった。「12月の嘘」とどこかで聞いたようなタイトルで、作者は名前を聞いたこともなく、ライトノベルのように薄っぺらい表紙と中身の文庫本だと思った。それをポップの人物は、
「
と、筆で書いたような字で書いていた。私はその本を読まなかった。けれど、そのポップの裏に見つけたURLは、写真を撮って保存しておいた。
URLはある掲示板のものだった。彼女はそこの運営者で、社長室と呼ばれるルームでは彼女と1対1で話すことができるシステムだった。それ以外のところは、主に本について適当なことを語り合っているユーザーたちが数人いる程度だった。私はまず適当な相手に、本についての浅い知識をひけらかして、私が若い読書家であることを彼らに印象付けた。唯一誤算だったのは、その掲示板は口調や会話内容で予想していた以上に若い人たちが集まっていて、私はかろうじて最年少だったものの、片手でおさまる年齢差の人たちに私は敬語でへつらってばかりになってしまったことだった。一度選んでしまった印象は覆しづらくて、結局そのまま、「蜜柑」の名のままでその掲示板を数ヶ月彷徨いた。
そしてある日、社長室を訪れた。
彼女のルームは赤みがかったクリーム色の壁紙で、文字は明朝体、一般的なメッセージアプリとほぼ変わらない見た目の部屋となっていて、私は少し驚いた。社長室などと言うのだから、もっとずっと社長らしい、高貴で優雅な場所だろうと思っていたのだ。
社長室では社長、もとい「柘榴」が声をかけてきた。当たり前だ。
「はじめまして、蜜柑さん」
「はじめまして、柘榴さん」
私はさらりと挨拶をして、彼女の言葉を待った。彼女はまず、
「良い夜ですね」
と言った。なんてことはない、これはきっと彼女の試験だと思い、私は
「そうですね。今日は空も曇っていないようですし」
と返した。それから星が見えるだの、月はどうだの面白味のない話をして、自己紹介はその後だった。社会の常識のように手短に済まされた。どんな呼び方をすれば良いですか?なんでもいいですよ。タメで話しませんか?そうしよう。一通りの設定を終えてから、彼女は訊いた。
「どうして今夜はここに来たの?」
どうして。そういえば何も考えていなかったことに気づいたけれど、それを口にする必要はないかと思った。
「いつでもどうぞ、と書いてあったので。一度お話ししたいと思っていたんだ」
嘘ではない。この答えを彼女は喜んで、実は私もあなたのことが気になっていたんです、などと溢した。
「あなたが前に『似非地球儀を歩く』の感想を書いていたでしょ?あれが気になって、私、本も買ったんです」
「うれしい」
嬉しくないわけではなかった。けれどこの時、敬語はいらないとか、私のことはこう呼んでほしいとか言ったのに、どうして彼女は私に敬語を使うのだろう、距離を置こうとするのだろうと、自然と苛立ちがこみ上げた。精神的にまだまだ子供だった私も、この時はその苛立ちを一応抑え込んだけれど、彼女への不信感はこういう理由で、出会ってすぐの頃からずっと私の中にあり続けた。
それから2、3日に1回は彼女と言葉を交わすようになった。社長室以外で会うことも増えた。彼女がいつまで経っても私に対して敬語とタメ口を併用するので、私も彼女に敬語とタメ口が混在した口調を使うようにした。知ってか知らずか、彼女はそれについて何も言わなかった。
彼女は私が興味を持っただけあって、文学的表現が上手な人だった。それでいて儚い人だった。ほんの少し年上で、不遇な環境、内に秘めた寂しさ、男性への不信感。当時はこんな言葉では表現できなかったけれど、今彼女のことを話すなら、彼女は「文学的メンヘラ」だったと言える。普段は籐椅子に座っているのに、彼女は時々床に這いつくばり、嘆きを叫んだ。哲学的ですらある考察をして見せ、また自分の思う正義について説いた。そんな彼女に私は、気づけば傾倒していた。彼女の思想、口調、その全てを私のものにしたいと思った。彼女の文字を写真で保存し、時々読み返した。彼女の薦める本を読み、同じ感想を持てたことを喜んだ。徐々に私は彼女に似ていった。気づかないうちに、私はかつて使っていたガサツな言葉遣いの、使い方を忘れていた。今まで持たなかった種類の語彙を得て、今まで読まなかった本に興味を示し、じわじわと内側から変わっていった。彼女は私に、「あなたは私に似ている」と言った。その言葉は時に嬉しくもあった。けれど同時に、まるで私が彼女に傾倒する前、出会った頃の私を忘れられたようで、私は彼女にそう言われるのがすこし寂しかった。
彼女を愛し、彼女にはそれなりに愛されていると思いこむ。そうやって私と彼女2人だけの世界に住めた時間は、意外と短かった。井戸の中の蛙は、大海とは言わずとも、せめて貯水池くらいは見ておかねばならなかった。
彼女は、私が愛したように、多くの人に愛された。私は彼女を取り巻くあらゆる人々に、片っ端から嫉妬していった。羨ましくて妬ましかった。彼女は私には使わない口調を使い、私には使わない言葉を使い、時に自分の弱さをさらけ出し、時に相手に強く拒絶を示して────────────まるで男性の首筋に触れるように、彼女は他のユーザーたちと戯れた。私はこの醜い嫉妬が、自分の身を滅ぼすことを知っていた。知っていたけれど、とても、やめられるわけがなかった。
「あなたは私に似ている」
彼女はそう言ったけれど、実際のところ、根本のところ、私は彼女に微塵も似ていなかった。私の周りに人が寄り付かないのがその証拠だった。私はその頃読んでいた小説の登場人物に自分を重ねて、彼女のことをあるあだ名で呼ぶようになった。愛と恋と生玉葱みたいなのがミキサーでかき回されて辛かった。私のすべての上位互換の彼女が羨ましく妬ましく、彼女の存在が憎く思えるようになった。私はこの小さな神に嫉妬した。そして彼女の目につかないところで、自分一人しかいないところで、こっそり彼女を悪く言った。
「大嫌い」
「気持ち悪い」
本人にも親しい人にも言えない言葉を、衝動のままに書き殴った。ちょうど私は子供だった。
それでも、私が柘榴を愛さなかったことはなかった。海水が太平洋を常に満たしているように、私は常に彼女を愛していたし、彼女を憎く思う気持ちは愛に満ち満ちた私のところへやってきて、私の心に風を吹かせた。柘榴をただ愛する時期、柘榴を憎む時期は、不規則かつ交互に訪れた。そして、波が偶然おとなしかったある夕暮れに、私はある人物と仲良くなった。救いだった。その人は救助船だった。その人の心は明るく、眩しく、一直線であるように、その時の私は思った。
やがて私の柘榴への愛は、いつもゆるやかで穏やかになり、私の多くの時間は柘榴ではなく彼と関わるようになった。私は心の安寧を見つけた。劣等感の塊で柘榴の下位互換で、こんな紛い物の私を見てくれる人を見つけられた。
「そういう時は運動してうまいもん食って寝る!これで目覚めもバッチリよ」
「葡萄さんの場合、寝る前に『酒』も入っているんじゃないですか?」
ちょっと揶揄うと、それに対する驚きだとか、狼狽だとか、強がりだとか、そういう返答が楽しくて私はよくクスクスと笑った。彼は楽しくて可愛らしい人だった。柘榴の言葉が粉砂糖だとすれば、彼の言葉は金平糖だった。そうやって言葉を重ねて知って知られて、柘榴への興味関心が薄くなっていく平穏な日常の中で、私は今まで知らなかった様々なことを経験できた。彼は初めに思ったように強くはなくて、狡い人だったけれど、けして私から離れない人だと思った。実際彼は私に対して、そのような意味の言葉を何度か吐いた。
しかし、この心の夕凪も、夜になれば終わってしまうのだ。星が出る頃、副社長と呼ばれる人物が彗星の如く現れた。柘榴は彼女を快く受け入れ、今まで誰にも見せたことがないくらい親しげな態度で女性と言葉を交わした。苺という名のその女性は、本当に、本当に柘榴と仲が良かった。どうやら彼女たちはネットワークの壁をとっくに越えた関係にあるらしかった。また苺は柘榴に性質が近く、儚い人でもあった。柘榴は彼女に、
「あなたは私に似ているから」
と自然に口にした。その時私は、柘榴の紛い物と書かれた札すら失い、柘榴には遠く及ばないけれど、遠目から見れば似ているかもしれない、程度の存在になり下がった。
もちろん、彼女の目を引くためのあらゆる手段はやり尽くした。それでも彼女が、あの脆くて儚い友人以上に、私を見てくれた瞬間は一度もなかった。
最後は彼の逃亡だった。私の大波を時に小波に変えてくれた彼は、掲示板に書き置きをして存在を消した。もう二度と会うことはない。そんなことすら書かれていた。私は寂しくて寒かった。苺もまた何かの拍子にどこかへ隠れてしまった。表に見えなくなっただけで、彼女と密に連絡を取り合っていることは知っていた。時々現実で会っていることも、それが自然なことであることも、彼女の言葉の節々からにじみ出ていた。
私は、もう、無理だと思った。私の憧れた柘榴は、私のもとには降りてきてくれないと。私が求めた愛をくれることはないし、私が向ける愛を受け入れてくれることもない。本当は彼女は私が吐く彼女についての悪口を、全て知っていた。それでも全く、私には何も言わなかった。それを知った私がごめんなさいと謝っても、彼女は何も。
私は、心の中で彼女にさよならを告げた。もう二度と会うことはありませんように、私の心に風を吹かせることがありませんように、私に紛い物だなんて
◆
それ以降も、あの掲示板を何度も覗いている。あの掲示板にはかつてほどの数の人はいなくなってしまったが、いまだに彼女を中心にして、彼女を取り囲む人々とで社会が構成され、今も変わりなく動いている。
私は彼女に、最後の悪足掻きとして、誕生日は祝わせてほしい、とだけ言葉を残した。1年後にもし私が彼女を忘れられなかったら、きっとせめて一言だけでも伝えたいと思うのではないかと、名前を消す前に思ったからだ。そしてその時が来るまで、あと半年ほど。できることならば、と黒いチューリップに祈りを捧げた。
赤、透きとおる 蜜柑 @babubeby
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