蓬莱の島
昌
第1話
太陽が東の海から顔を出し、西の星々は色を失う。深く海を覆っていた霧は薄まり、一つの大きな島が霧の中から姿を現した。その島の他に陸は無く、ただ見渡す限り紺碧の海原が広がっている。島は断崖に囲まれ、海鳥が群れを成して岩場と海とを飛び交っている。島の西、崖の下の海から、突然何かが顔を出した。男だ。一人の男が、海から顔だけを出してその島を見つめている。男はゆっくりと島に近付き、その右肩に巻いていた縄を外して手に持った。縄の先端には鉄の鉤が結ばれている。男は両手を上げ、右手を軸に縄を回し始めた。徐々に縄は勢いを増し、風を切る高い音が小さく谺する。そして回転の勢いに乗せて、男は縄を上空へ放った。鉤は空中を真っ直ぐに進み、遥か遠い崖の上の岩場に引っ掛かった。男は何度か縄を引き、鉤が外れないことを確かめると、その手で縄を握り締め、崖を上り始めた。崖の海面近くは波に削られ反り返り、男は半ば宙吊りの形となっているが、縄に一定の間隔でつけられた結び目に手足をかけて、軽々と異様な速さで上っていく。やがて崖に足がつくようになると、その速さは更に増した。ついに男は崖を上りきり、鉤縄を引き上げて再びその右肩に巻いた。
島は広く、崖の向こうはぽっかりと沈んだ窪地で、北から南へ下るなだらかな斜面となり、北東に山が、南に湖がある。湖から山の麓にかけての平地に、川に沿うように田畑が広がり、その周りに家々が集まっていた。山の中腹には、城のような大きな建物があり、その他は全て鬱蒼とした山林に覆われている。そして男が今立っている岩壁が、その全てを外界から包み隠すかのようにそびえていた。男は暫し崖の上からその景色を見つめていたが、やがて走り出し、坂を下り林を駆け抜け、瞬く間に西にある集落へと辿り着いた。村の者達は突然の来訪者にひどく驚いた様子だったが、ひとまずは儀礼に則り、村の老人が男を出迎えた。男は言った。
「私は西海の者、名をホサクという。貴公らの王への謁見を願う。それと髪を洗わせて欲しい。四度ほど鳥に汚物をかけられた」
「一体どのような方法で、あの壁を抜けたと言うのですか。島へ入る通路は岩で塞がれている筈ですが」
村の若い男の案内を受けながら、ホサクは南東の城へと向かう道を進んでいた。鉤縄は村の者に預け、鳥の汚物のついた着物の代わりに、白い着物を借りた。道沿いの村の者達が、海の外から来たというその男を一目見ようと列を成して並んでいる。彼らの顔を見るに、特に貧しいということはなく、寧ろ豊かな暮らしを送っているように見えた。しかし一方で、家々の間に時たま、何十年と放置されてきたような空き家があるのが目についた。柱は虫に食われて朽ちかけ、その周りには雑草が茫々と茂っている。完全に崩れ落ち、傷んだ木材の山となっているものも珍しくはなかった。家だけではない。数年は耕した跡のない畑や、川岸に打ち捨てられた古い舟、そして妙にくたびれた農具などが、農村の日常に似た風景の中で、異様な雰囲気を醸し出していた。
「島の外の人間を見るのは、我々がこの島に移り住んで以来、実に二十一年振りです。それもあのような岩壁を越えてこようとは誰も思いませんから、よほど興味があるのでしょう」
かく言う若者も、ホサクの噂を聞いて一早く畑を飛び出してきた者の一人だった。やがて二人は城門を囲む川の前までやって来た。若者は橋の前に備えている役人の一人に話しかけ、気さくに挨拶を交わした後、ホサクの事を話した。役人もまた他の者の例に漏れず驚きの声をあげたが、すぐに表情を整えた。そして、王に確認をとる故少し待つようにと言い、ホサクに小さく礼をして、橋の向こうの門をくぐっていった。城門は開け放たれており、城内から男達が絶えず何かを運び出している。明日祭りがあり、それの準備をしているのだと、若者は言った。橋も城門も、派手さは無く、かなり古いが頑丈かつ見事な造りで、開いた門から見える城も、荘厳で重々しい光を放っていた。やがて、先程とは別の役人が現れホサクを城内へ招き入れた。若者は、案内はここまでと、その役人とも軽く言葉を交わし、村へと帰る道を歩いていった。
王は玉座に座り、ホサクを待っていた。歳は三、四十程だろうか。豊かな顎髭を蓄え、その表情は柔らかくまた堂々として、その体は実際以上に大きく見えた。ホサクが恭しく頭を下げると、王は歓迎の言葉を述べ、右手に控えていた側近の者に人払いを命じた。城の者が王とホサクを残して広間を出ると共に、来訪者の話は瞬く間に城中に広がった。それは当然、城の一角にいる王妃の耳にも入った。王はキタケと名乗った。
「王よ、私は……」
「よい。言わずとも分かっている。海神の息子であろう。そなたがここへ来た目的も知っている」
「では」
「明日の祭りが終わるまで待って欲しい。その時には全て終わる」
「全て、か」
「ああ、そうだ。十五年…短いな。実に短い。だが、そなたらにとっては、随分と長かったろう。よくここまで知られずに隠し通したものよ。神はさぞかし怒っていような」
「ああ、私も、私の兄弟達もな」
人払いの令が解かれたのは、それから半刻ばかりが経った後だった。王は側近の者と小姓とを呼び寄せると、歓迎の為に夕食を共にする旨を伝え、側近の者にはその準備を、小姓にはそれまでの間ホサクをもてなすようにと命じた。ホサクが、小姓に連れられ部屋を出ていった後、ある男が王の部屋に入って来た。男は精神を張り積めたような顔で、王に問うた。
「王よ、外から人が来たというのは本当なのですか。まさか海の神ではないでしょうな」
「ライカか。いいや、山の神の息子だ。覚えているか、西の大陸の高い山だ」
「山の神? なぜ山の神がこのような島に?」
「修行の為に世界を回っているのだそうだ。お前が考えることにはならん。安心しろ」
「偽りの言葉ということはないのですか」
「それならば私が分かる。そう焦るな。海から来たからといって、必ずそうという訳ではないのだ」
「だとしても、追い返すべきです。外の世界の者は、この島を瓦解させかねません」
「その必要はない。もう行け」
「しかし」
「ライカ様、城下の者が訪ねてきております。町で怪我人が出たと」
男は言葉を遮られ、どこか不満そうに、王の部屋を出て行った。
ホサクはミトモと名乗る小姓に案内されて、城のすぐ下にある池を見て歩いていた。細く小さな滝から糸のように水が落ち、広い池を流れて再び山のを駆け下りていく。池の中の小島を橋が繋ぎ、手入れの為された木々が周りを彩る。それはさながら小さな庭園であった。小姓による説明の言葉を聞き流しながら歩いていると、どこからか笛の音が聞こえてきた。水のように澄み、流れるような美しい音色である。辺りを見渡すと、池の向こうに建てられた東屋の椅子に腰掛け、若い娘が笛を吹いているのが見えた。小姓はそれを見ると、乙姫様、と小さく叫んで、娘の元へ走っていった。ホサクもやや早足でそれに続いた。
「あら、その声はミトモですか。それと、他にもいるのですか? えっと……」
物腰柔らかく、どこか儚げな佇まいの、美しい娘だった。艶やかな黒髪を垂らし、濃い翡翠色の着物を着ている。ところが突然、娘は目を細め眉間に皺を寄せ、顔を思い切り近付けて、その青い目を睨むようにホサクに向けた。慌てて小姓が言う。
「あ、ああ姫様、こちらは外の世界から来られたという、ホサク殿にございます。ホサク殿、こちらは姫君であらせられる乙姫様にございます」
「乙姫はやめてと言ったでしょう。キタケの娘、ミハタと申します。ところで、海の外から来たと? 本当なのですか?」
ミハタのホサクを見る目が更に鋭くなり、思わずホサクはたじろいだ。
「ああ、乙姫様、ミハタ様、そう睨め付けるようになされるのをおやめに! ホサク殿、姫は生まれつき両の目がお悪いのです。睨んでいるわけではなく、なんとか見ようとしておられるだけですので、どうかお気になさらずに。いや、それよりミハタ様、なぜお一人でこのような所におられるのです。侍女はどうされたのですか」
「さあ、城でかくれんぼの鬼でもやっているのではないですか。おかげで助かりました。あの人がいると川の音が聞こえないでしょう。私は水の近くにいたいというのに」
「なりません。足を滑らせでもしたらどうなさるおつもりですか。ただでさえ目がお悪いのですから」
「何回目ですか、このやり取りは。心配しすぎです。悪いといっても、全く見えないわけでもありませんし、杖もあります。ほら」
「それは笛でございます、姫様」
「……違いますよ?」
「何が違うのですか」
「一曲、もう一曲吹こうと思って出したのです。その、ホ、ホサク殿の為に!」
蚊帳の外にいたホサクがやっと口を開いた。
「それは姫様、実にありがたい事ですが、もう一人客がいらっしゃるようで」
二十歳程の女が、鬼気迫る表情でずんずんと音を立てて橋を渡ってきた。
「やはりここでしたかミハタ様! 突然かくれんぼなどと何を言い出すかと思えば、城中を探させておいてそこにいないとは、あなたは鬼ですか!」
侍女がミハタを叱りつけても、ミハタは澄ました顔で笛を吹き始める。小姓が呆れた顔でホサクを城下の町へ案内しようとすると、ミハタは笛を下ろした。
「町へ行くのですか? 私も行きます」
「私の話を聞いていたのですかミハタ様!」
「いいえ、全く」
「そうでしょうね、なりません!」
「ダメですか?」
「ダメです」
「あなたが私を見失ったこと、誰かに報告しましょうか?」
「それで怒られるのはあなたです、ミハタ様」
「もっと怒られるのは、あなたです」
「……」
町では祭りの準備が着々と進み、活気に満ち溢れていた。既に島中に噂が広まっているのか、ホサクはやはり好奇の目に晒され、町の者達はミハタに明るく声を掛け、ミハタもそれに応える。杖で辺りを探り、慣れた様子で人や者を避けてミハタは進んでいるが、時々躓きかけ、その度に侍女が不安の声を上げる。
「あら、何でしょう。泣き声かしら」
ミハタが突然立ち止まり、左に顔を向けた。目を向けるというより、耳で様子を伺っている。立ち並ぶ家の一つの玄関に、何やら大勢の人が詰めかけていた。ミハタがそれを聞きに行こうと言うと、小姓は仕方なしという表情で、集まっている者達に道を空けるよう伝えに行った。家の中には、布団に横たわる男と、その周りを取り囲む者達がいた。男の体には包帯が巻かれ、その息は荒い。ミハタは、枕元に座る医者と思しき男に声をかけた。
「あなたはライカですか? 何があったのですか」
「これはこれは、乙姫様。ギケイが、山の崖から落ちたといって運ばれて来たのです。全身を打って、息をしているのがやっとの状態です。先程まで随分と苦しんでおりましたが、今は眠っております」
「助けられぬのですか」
「こうなっては、残念ですが」
「また、死ぬのですか」
「姫、お気持ちは分かりますが、皆の前でそのような言い方はおやめに」
「そうですね、ごめんなさい」
怪我人の妻らしき女に、ミハタは慰めの言葉をかけ、その隣で茫然としている二人の子供にも声をかけた。女は涙で濡れた顔を袖で拭い、ミハタに礼を言った。そして四人はその家を後にした。
「祭りの前にこんな目に遭うとは、お辛いでしょうね」
侍女の言葉にミハタが返す。
「ですが、その悲しみもいずれ消えます。すぐに忘れられてしまいます。ギケイという人がいたことは」
侍女と小姓は怪訝な顔をしたが、重い空気を払おうとするかのように、すぐに別の話題を切り出した。その時、ごく小さな声で、ミハタが呟き、ホサクだけがそれを聞き取った。
「お姉様でさえ、そうだったのだから」
日が沈む前に城に帰ると、そこには豪華な食事が並べられていた。山の幸や川魚が皿の上に盛られており、姫であっても普段は食べることがないのか、どの皿に何がいくつあるかと聞いては、嬉しそうに笑っている。聞くことと食べることだけが楽しみだと、恥ずかしそうに言った。やがて部屋に王が、王妃らしき女性と共に入ってきた。
「おや、後で会わせようと思っていたのだが、もう随分と親しくなられているようだな」
「お父様、お母様。下の池で笛を吹いていたら、偶然やって来たのです。ミトモとナカと一緒に、町へも行ったのですよ」
「そうか。祭りの前にすべきことがかなりあった筈だが、随分と早く終わらせたのだな」
「いえ、その、誤解です。お父様」
「全て終わらせたということがか?」
「誤解という言葉への誤解です」
「まあいい、説教は後だ。改めてホサク殿、海の外よりはるばる、ようこそお越しくださった。島王キタケである。こちらが我が妃のセイ、そして娘のミハタである」
互いに恭しく礼を済ませ、ようやく食事が始まった。いずれも中々に美味である。一方ミハタは、うまく食べれぬ事を気にしているのだろうか。その膳の前に仕切りが立てられ、皿が見えないようになっている。ミハタは時々皿の位置を聞きながら、慎重に楽しそうに食べている。王の頼みで、ホサクは三人に海の外の話をして聞かせた。西の大陸の王家や、海底と天上の国、神々の王の事など、ホサクの話す全てに、ミハタは熱心に聞き入っていた。やがて夜が更け、膳が下げられてしばらく経ち、ミハタがうつらうつらとしだすと、そこでようやく席はお開きとなった。ホサクは外に出て、酒で火照った体を冷ましつつ、島の景観を拝んでいた。岩壁に遮られ海は見えないが、遠く湖に星々が映し出され、輝いている。すると、背後からホサクを呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、そこには先刻町にて怪我人の元にいた、あの医者の姿があった。
「おや、先程の……」
「ライカと申します。医者とは、少し違いますな。本業はここの役人にございます。昔はスサという、しっかりとした医者がいたのですが、随分昔に死にました」
「それで、あなたが代わりをと」
「ええ。大きな事故でも無い限り、この島の者は医者要らずですからな。私の出番はほとんどありませぬ。この島に住む者達ほど幸せな者はおりますまい」
「ふむ。ところで、あのギケイとかいう怪我人はどうなりましたかな。姫の様子が妙でしたが」
「乙姫様が。そうですか。お優しい方ですが、諦めてしまっているのでしょうな。以前誰かが死んだ時は、泣いて泣いて大変だったと王が言っておりました。ああ、あの怪我人は、死なせました。永遠に苦しみ続けるよりはずっと良いでしょう」
「永遠?」
「そうです、永遠です。ホサク殿、あなたにはお話しせねばならぬことがあります。これを言うために、私はここへ来たのです」
夜明けの少し前に、ホサクは眠りから覚めた。城の者が昨晩置いていった着物に着替え、部屋の外に出る。廁へと続く廊下を歩いていると、先日の小姓、ミトモとすれ違った。軽く会釈をすると、小姓は驚いたような顔をして、二度ほど振り返った後、突然後ろからホサクの肩を掴み、険しい顔をして言った。
「誰だ?」
ホサクは面食らった。
「誰だ、はないだろう、ミトモ殿。昨日私を案内してくれただろう」
「何を言っている。城の者ではないな。町でも見たことがないし、新しい奉公人が来るという話も聞いていない。何者だ」
ホサクはそこでようやくああ、と納得した。
「ミトモ殿。王より何か仰せつかったことはないのか?」
「……客人がこの先の部屋にいる故、お連れするようにと」
「私がその客人だ。案内願おう。廁の後でな」
王と王妃、そしてミハタは先日と変わらぬ様子だったが、その後ろの侍女や給仕の者達は、ホサクをじろじろと見つめ、互いに耳元で言葉を交わしている。小姓は先程の非礼を詫び、別の用があると言って慌てて去って行った。ミハタは王と王妃に、夢の話をしていた。聞き耳を立てると、この二日、どこかから知らない女や男の声が自分を呼ぶ、妙な夢を続けて見るのだという。王妃はそれを聞いて不安げな顔を王に向けた。
昨晩のように朝食を食べ終えると、城の者が王に、儀式が始まる旨を伝えに来た。ホサクと王達は、廊下を抜け、島を見渡せる楼閣の舞台に出た。町から川に沿って、湖まで人の群れができている。王を見た途端に、町の群衆は歓声をあげた。王が手でそれを制す。
「皆の衆、本日は、皆が待ちに待った日である。我々が大陸を離れ、この岩壁に守られた孤島に移り住んでから、とうとう二十年目となった。この二十年、乗り越えた苦難は山ほどもあろう。陸海空の神々に感謝を捧げると共に、今日一日は全てを忘れ大いに楽しむがいい」
王の一言一言に群衆が湧き立つ。王と役人が長々と祭りやら歴史やらの話を述べ、最後に王が言った。
「また、偶然にもこの記念すべき日に、なんと海の外より客人がきている。我々が大陸を出て、実に二十年振りに会う外の者である。ホサク殿、どうぞ」
ホサクが前に出ると、民衆がざわついた。ホサクは島の者への祝いの言葉や讃辞など、二言三言繕い、最後に礼をして舞台から下がった。
いよいよ祭りの始まりである。笛や太鼓の祭り囃子が鳴り響き、風と波の紋様、竜や虎の装飾に彩られた六隻の船が城門から顔を出し、町を通って川へ入っていった。それと同時に、黒い衣装を着た四十人程の男達が船に乗り込み、音楽に合わせて演舞を始めた。低く轟く音と共に、激しく剣を振りながら船の甲板を踏み鳴らす。それが終わるとその一団は船を降り、別の一団が乗り込んで違う躍りを披露する。ここから半日をかけて、出番に従って入れ替わり立ち替わり躍りながら船と人混みはゆっくりと湖へ進んでいく。外界の海から洞窟を通って湖に達した時のことを表しているのだという。躍りにはどういう意味があるのかと問えば、祭りとはこういうものなのだという。ミハタは、夜まで自分の出番はない筈だと侍女を連れて城下へ下りようとし、王もそれを許した。ホサクもそれに付いていった。町では川に沿い店が並び、菓子や料理が売られ、またそれらを肩から下げた商品を売り歩く者もいる。ミハタを見ると、人々はやはり笑顔で話しかけてきた。そして皆、昨日と変わらずホサクに好奇の目を向ける。外の者を見るなど二十年振りだと誰かが言った。ふと、人混みの中に、昨日死んだというあの男の、かつての妻子の姿が見えた。三人で屋台の料理を食べながら、躍りを見て笑っている。ホサクはふと思い立ったことがあり、女に話しかけ、死んだ男への哀悼の意を示した。それに対し女は首を傾げた。
「はて、何の事でしょう。失礼ですが客人殿、人違いをしておられるのではないですか」
「いえいえご婦人、ギケイ殿ですよ。崖から落ちて死んだという」
「ギケイ? そのような者はこの辺りにはおりませんし、私に夫もいません。やはり人違いではないでしょうか」
「ふむ、やはりそうですか。これは失礼を」
「いいえ。どうかこの島を楽しんでいってくださいな」
数刻の後、太陽が西の岩壁に差し掛かったとき、船は湖のすぐそこまで来ていた。最後尾の船の後方、湖岸から皆が見守る先で、流れるような笛の音に合わせ、ミハタが舞を舞っていた。屋台を回る目の悪いお転婆姫の姿はどこにもなく、淑やかで儚げな、天女のような娘がそこにいた。やがて日が沈むと共に姫の舞も終わり、いよいよ祭りは最後の盛り上がりを見せる。ミハタが船を下りた後、男達の手によって船の帆に張られた縄に、火の点いた提灯がかけられる。煌々とした光が、宵闇の中に輝き、水面を照らしながら六方に分かれて湖面をゆっくりと回る。人々はそれを見て感嘆の息を漏らした。ミハタは湖岸の岩に腰かけて、笛を吹いていた。皆と同じ景色が見れぬことは残念だが、早くも歳は十五歳。もうそれには慣れていた。ミハタは、色の違いや輪郭をはっきりと見てとることができない。昔から普通のことなので言葉で表すことができないが、皆の話によればそれは「ぼやけている」というらしい。ぼやけながらも眩しいことには変わりない光を見つめ、ミハタは小さく笑った。
やがて夜は更け祭りも終わり、多くの者が家へ帰って眠りに就いた。ただ、ミハタがいるのは城ではなく、湖の畔の小さな庵である。湖の近くで過ごしたいというミハタの普段からの願いは、たまの特別な日にだけそれが許され、その日が今日であった。普段は他の者より早く眠るミハタだが、祭りの為に随分と早起きした筈だというのにまだ目は冴えていた。祭りの熱が未だ収まらず、瞼を閉じただけでは眠れない。その上、湖の近くは心が落ち着くが、同時にぞくぞくと胸が騒ぐような気分になる。布団の中でもぞもぞと動いているうちに、ふと、幼い頃の事を思い出した。小さなミハタが母に問う。ぼやけて母の姿は見えないが、その声は静かで柔らかい。
「ねえ、お母様。皆は何故、私の事を乙姫と呼ぶのですか。私はミハタだと何度言っても、皆はそう呼ばないのです」
「それはね、ミハタ。あなたには姉がいたのだと、あなたに教えたでしょう。あなたが生まれる前に死んでしまって、もう誰もあの子を覚えていないけれど。乙は、次女の事を言うの。あなたはあの子の妹だから、乙姫と呼ばれるの」
「何故、お母様はお姉様の事を覚えているのですか」
「私達が、王家だからよ。あなたの背が伸びるのと同じこと。私達は、特別なの」
ぼやけた視界がだんだんと暗くなっていく。ミハタは枕に頭を沈め、意識を手放した。かと思うと、突然ミハタの意識が暗闇の中から急浮上してきた。ああ、またこの夢か、と思った次の瞬間には、それがこの二日間とは全く違うということに気付いた。視界が明るく開けてきたが、今まで見てきたものとは全く違う。記憶にある限り一度として感じたことのない感覚を、頭の中の言葉では言い表すことができない。普段見ている昼の景色より更に明るく、色の違いと輪郭が、異様にくっきりとしていた。誰か人の顔が、ミハタの顔を覗き込んでいた。普段は着物の上に肌色の点が乗っているようにしか見えぬそれが、その目鼻立ちから髪の艶まではっきりと見てとれる。誰だろうか。少なくとも母や父ではない。二人の顔は真近くから何年も見てきたが、恐らくこのような顔ではない。そう思っていると、その顔が口を開いた。声色からそれが女であることが分かった。
「あなた、見てくださいな。ミハタが笑っていますよ。ええ、私を見て笑ったんです。この子はきっとあなたに似ますよ。笑顔も、青い目も、そっくりですもの」
ミハタは布団から飛び起きた。息は荒く、心臓が早鐘を打ち、寝汗で背中がぐっしょりと濡れている。息を三、四度大きく吸っても胸の動悸は収まらない。視界はいつものように暗く、ぼやけていた。ミハタは枕元にある紐を手探りで引き寄せ、その先にある鈴を思い切り鳴らした。するとすぐに隣の部屋とを繋ぐ襖が開き、侍女が部屋に入ってきた。髪は乱れ、服も寝巻きのままである。
「ミハタ様! どうしました。息が苦しいのですか」
「湖、湖へ」
「え?」
「湖へ、連れて行って! 早く!」
「湖? なぜですか。まだ夜も明けておりません。危のうございます」
「いいから、お願い。湖に行きたいの。連れて行って。早く!」
ミハタのただならぬ様子に侍女はたじろぎ、急いで簡単な身支度だけをして、庵の裏すぐの所にある、湖岸の一本松までミハタの手を引いていった。ミハタは松にもたれかかって座り、湖の冷たい空気の中でようやく息を落ち着かせた。日は出ていないが夜は明け始め、空が深い藍色に染まっている。侍女の顔を見てもどこを見ても、あの夢のように見えることはない。自分の想像の中ですらあれほどはっきりと見えたことはないし、あれがいわゆる「普通の見え方」であるかどうかも疑わしい。不安げにミハタを見守っていた侍女だったが、落ち着いたのを見て安心し、何があったのかと優しく聞いた。ミハタは怖い夢を見たのだと答えた。嘘ではない。どこか懐かしく、胸騒ぎのする夢であった。夢について思索していると、どこからかミハタを呼ぶ声があった。ホサクが庵の裏から顔を出した。その声を聞いて、胸騒ぎが再び大きくなる。それを悟られぬようにしながらミハタは聞いた。
「あら、ホサク殿、どうされたのですか、このような所で」
「いや何、これで最後なのでな。今の内に島を見ておこうかと」
「もう島を出られるのですか」
「ああ。妹を連れて、帰る。もう二度と来ることはない」
聞いてはならないと、胸の中の何かが言っている。しかし聞かずにはいられなかった。
「妹? この島に妹様がおられるのですか」
「ああ。今私の目の前にいて、私と話をしている」
心臓が跳ね上がるように鼓動を早め、息が苦しくなる。
「私は海の神の息子。ここへ来たのは、修行の為などではない、妹を連れ戻しに来た。ミハタ、お前はこの島の者ではない。お前は、海の娘だ」
「ホサク殿、あなたにはお話しせねばならぬことがあります。これを言うために、私はここへ来たのです。明日の夜明けまでに、この島を出て頂きたい」
話は遡り祭りの前夜、ホサクと仮の医者ライカの対話に至る。ホサクが問う。
「ほう、それはまたどうしてですかな」
「明日あなたが皆の前に現れれば、残ってしまうのです。皆の記憶に」
「記憶?」
「今言っても分かりますまい。この島が外の者からこう呼ばれていることは、ご存知ですかな。即ち、蓬莱の島、と」
「ああ、知っているとも。千年生きる島。不老不死の神仙の住む、永遠の楽園」
「その通り。神仙と呼ぶかどうかは人の勝手。この島の者達は、老いることも死ぬこともない。それこそ、永遠に」
ライカの話はこうであった。この島の者達はかつて、西の大陸の奥深くで修行に励んでいた。彼らが目指したのはただ一つ、真の幸福、永遠の課題、即ち、死の克服。彼らは千年前この島に移り住んで不老不死の薬を研究し、ついにはそれを完成させた。
「我々は、死という最大の脅威にして不可避であった不幸を、とうとう打ち負かすに至ったのです。皆がその力を享受し、島は幸せに満ち溢れていました。しかし、それが三百年程続いた頃、問題が起こりました。三百年という時の中で、生の喜びというものを見失い、発狂する者が現れたのです。彼らはあろうことか自らの死を望むほどにおかしくなってしまいました。幸せのための研究を続けてきたというのに、これが幸せなどと、誰が言えるでしょうか。皆が思い悩んでいたとき、かつての医者にして不死の薬の製作者であるスサという男が、ある妙案を出したのです。即ち、彼らはあまりにも長く生きたために、気が狂ってしまった。ならば、その記憶を消してしまえば、彼らは永遠に若々しく生きるだろう、と。そしてスサは不死の薬を作り変え、飲んだ者の記憶をも操る薬を作り出し、王やライカを含む一部の者以外の全員にそれを飲ませました。スサの目論みは功を奏し、鬱屈とした島の雰囲気を取り払うことに成功したのです。それから七百年もの間、島の者達は自らが不死であることも忘れ、一年に一度、祭りの日に前の一年の記憶を全て失い、全く同じ二十年目を繰り返すようになったのです。しかしまたも問題が起こりました。ある時医者は不死の薬の力を消し、人を死に至らしめる薬というものを作りました。私はそんなものは使わないと言ったのですが、奴はなんと自分の家に火を放ち、薬を飲んで死んだのです。それまではスサが怪我人を癒す薬などを作っていたのですが、スサが死に、薬も、薬の作り方を記した書物も燃えてしまっては、何か事故があったとき、怪我人は治ることも死ぬこともできず、永遠に苦しみ続けることになります。それではとても幸せなどとは呼べませぬ。あの藪医者が残したのは、あの毒薬の作り方のみです。王はある怪我人の姿を見て、死なせることを選びました。私は反対しましたが、王は死ぬ筈の怪我人が死なずにいることで、民が現状を疑うことを危険視しました。残る問題は遺族です。彼らは悲しみに暮れる上、気付けば人が消えたことになります。そこで私は考えました。そのような者など始めからいなかったことにすればいいのだと」
「そして遺族は死者の全てを忘れると」
「その通りでございます。全てはより多くの者の幸せの為。ただ、始めは事故などほんの僅かな数しかありませんでした。しかし、子が新たに生まれることはないので、数百年で徐々に人の数が減り続け、日々の営みがうまく機能しなくなると、死者の数が急激に増え始めました。千二百あった人口が、いまや七百ほどにまで減ってしまいました。そこへあなたがやってきたのです。外部の人間の存在は、島の均衡を崩しかねません。幸いにも、明日は祭り。あなたが今島を出れば、彼らの記憶には残りませぬ。島の中を瓦解させるわけにはいかぬのです。どうか、島を出てはもらえませぬか」
「その必要はない」
「! 島王様……」
どこから現れたのか、王が後ろからライカの肩を叩いた。
「私に考えがある。お前が心配しているようなことにはならん。せっかくの祭り、客人にお見せせずしてどうする。ところでライカ、客人と話したい。少し外してくれぬか」
ライカが去った後、王は言った。
「娘には二日後に伝えるつもりだ。その前にあなた自身の口から話して頂いても構わぬが、祭りが終わってからにしてもらいたい」
「あなたの娘ではない」
「ああ、その通りだな。私を恨んでいるか?」
「今すぐにもお前の首をへし折って、潮の神の元へ送ってやりたい気分だ。私自身なぜこうも冷静でいられるのか理解できない。十五年だぞ。それも死んだ娘の代わりだと。ふざけているのか」
「あなた達には申し訳ないと思っている。だが、私は今幸せだ。千年。長く生きすぎておかしくなってしまった。だがもう、そうだな。あの娘は帰らねば」
東の空が白み始める。岩壁に阻まれ日の出が見えることはないが、藍から黄赤色へと移り変わる空の色と、東の岩壁より僅かに漏れる光とが、夜明けの再来を示していた。
「なぜこの島でお前だけが大人になっていく。なぜお前は、死んだ者の事を覚えている」
「それは、私が王家の人間だから。私が、特別だから」
「違う。お前が特別なんじゃない。この島の普通は普通ではない。いいか、普通の人間は死んだ人間の事を全く忘れたりはしない。千年も同じ姿で同じ事を繰り返しもしない。お前だけが普通なんだ。お前だけが、島の外から来た者だから」
「違う! 私は、この島の王の娘。私達が王だから、全て忘れる皆に代わって、私達だけが、覚えてるの。私だけが成長することができるのも、私が、特別だから」
ホサクが冗談を言っているのだと、ミハタは自分に言い聞かせた。しかし、唐突に言われた冗談を、なぜ自分はこうも必死で否定しているのかという疑念が、先ほど見た夢の記憶と共に、頭の奥底に現れては消えていった。
その時だった。ホサクの後ろの柱の陰から、突然何かが現れ、ホサクに向かって進んで来た。侍女が悲鳴を上げた。ライカが太刀を持って、ホサクに斬りかかったのだ。ホサクは振り下ろされた刀を間一髪で躱し、後ろへ飛び退いた。ライカはミハタとホサクの間に割って入り、刀をホサクに向けたまま叫ぶ。
「乙姫様! このような男の戯れ言に惑わされてはなりませぬ! この男はあなた様を拐かそうとしているのです! ナカ、姫を守れ!」
そしてライカは再びホサクに斬りかかる。丸腰のホサクは舌打ちを一つして、刀を躱しつつ湖側へと後退するが、やがて湖岸に追い詰められる。ライカの一閃を、ホサクは後ろへ跳んで躱し、そのまま湖へと落ちていった。湖は深く、すぐにホサクの姿は見えなくなった。ライカが舌打ちをすると、ミハタの声が聞こえた。
「ライカ! 待ちなさい!」
ライカは刀を腰の鞘に収め、ミハタの元へ歩いて行き、城へ戻るようにと言った。しかしミハタは首を横に振る。ライカが強い口調で再び命じると、ミハタは小さく言った。
「ライカ、私はお母様の子ではないのですか」
「乙姫様、あれはあなたを連れ去るための嘘にございます。惑わされてはなりませぬ」
「ならばなぜ、私だけが」
「あなたが王であるからです! 人は老いぬのが普通なのです! 分かりましたか! 早く、王の元へ!」
「今日、夢を見たのです。すごく明るく、はっきりと……」
「後で聞きます。 早く!」
「昔、同じようなことがあったのです。朝起きて顔を洗ったとき、気になって目を……」
「姫様!」
「目を開けたら、一瞬、すごく眩しくなって、びっくりして……目が痛くて、怖くて、あれからずっと、顔を洗うときは目を閉じていたけれど、あれは……」
「何を言っているのですか!」
突然、ミハタが走り出した。ライカの静止を振り切り、朧げな視界を頼りに、湖へ走る。何度も躓き転びそうになりながらも走り、目を閉じて、湖に飛び込んだ。水は冷たいが、不思議と寒くはない。ミハタは、目を開けた。
見える。全てが、鮮明に。湖底を覆い尽くす緑の藻、白い着物の間から漏れる白い泡、そして、澄みきった水の中に差し込む、朝日の青い光。あの夢よりも、更にはっきりとして、眩しく美しい。ミハタは目頭が熱くなった。湖の中を見渡していると、どこからか、ホサクが泳いでやって来た。湖面のような青い目が、薄暗い水の中で光っている。
「息は止めなくていい。話もできる」
「見える。水に入ったら、見える。どうして」
「十六年前、大陸の王は国の更なる繁栄を願い、自分の娘を海の神に捧げた。娘は故郷に未練を抱かぬようにと、自らを盲目に変えた。海の神の力がある所では娘の目は治るが、そうでなければ暗闇だ。やがて娘と神の間には子が生まれた。それがお前だ」
「では、私は本当に、海の神の娘なのですか。でも、お母さまは」
「お前が生まれて、半年が経った頃のことだ。赤ん坊だったお前が、突然どこかへ消えた。父も、私達も、必死でお前を探したが、見つからなかった。お前は、盗まれたんだ。海の神は敵が多い。潮の神がお前を盗んだ。この島の王と王妃は、娘を事故で亡くし、嘆いていた。潮の神はそれを見て、お前を王に与えたんだお前を王に与えたんだ。海はお前を待っている。お前が帰ってくる日を、十五年もの間待ち続けている」
「でも、私にはお父様とお母様が」
「すぐには決められないだろう。王や王妃と話し、それから決めるといい」
「……はい」
二人が岸に上がると、ライカは刀を持ったまま、そこに立っていた。山も湖面も村も、全てが鮮明に見える。ミハタは辺りを見渡して、感動で泣きそうになりながらも、毅然とした態度で言った。
「ライカ、それが刀ですか。しまいなさい」
「乙姫様。海へ帰られるおつもりですか」
「それは、これから決めます」
「……だから言ったのだ。この男を入れるべきではなかったと」
「お父様とお母様の元へ行きます。通しなさい」
「帰らせるわけには、いかない。あなたは、大姫の身代わり。王と妃と、民の幸せ」
「大姫? お姉様の事ですか」
「あなたは海の娘である前に、皆の幸せ。皆の為、あなたを帰らせるわけにはいかない」
「何を言っているのですか。私の事は私が決めます」
「ああ、あの侍女め。姫に自由など許すからこうなる。何かあってからでは遅いと、あれほど言ったというのに。不死の薬が効かぬなら、記憶を消すこともできぬだろう」
「ライカ?」
「全ては皆の為。私は皆の幸せを守る。それが私の幸せ。ああそうだ。その男を殺し、あなたの手足を切り落とせば、あなたは永遠にこの島に。ああ、なんという幸せ。皆の幸せを、私は守ることができる」
ライカは再び刀を構える。その鬼気迫る様にミハタはたじろいだが、ホサクの方は冷静に言う。
「ミハタ、我が異母妹よ。お前が海の娘たる証拠を見せてやろう。水に念じろ。そうすれば、お前の思うままに」
ミハタは言われた通りに、水に意識を集中させた。水が波立ち音を立てる。ライカがホサクの方へ歩み、ミハタはライカに向けて手を翳した。するとその瞬間、波が腰ほどの高さまで起き上がり、ライカの足を攫った。ライカは思い切り転び、そのまま波に体を揺さぶられるが、ほとんど怯まず立ち上がり、波に逆らってずんずんと二人に迫る。
「優しいな。私はこうするつもりだった」
ホサクはそう言い、静かにライカを指差した。すると、ライカの足下の水が弾け、ライカに襲いかかる。ライカは叫び声を上げながら波に攫われ、湖岸を山の方へと転がっていった。ホサクは得意気にミハタに笑いかけた。
大量の水に好き勝手押し転がされた後、ライカは村の入り口で吐き出されるように解放された。目が回り揺れる頭を抱えながら起き上がると、ライカの目の前に王が立ち、その周りに村の男達が集まっていた。
「島王! 大変です。乙姫様が攫われます。あの男を捕らえねば!」
しかし、王も、村の者達も動かない。暫くして、ホサクとミハタ、そして半ば忘れられていた侍女が村の入り口に着いた時、ライカは縄で縛られ、男達に取り囲まれていた。一人の村人が、ホサクの元に走ってきて、ホサクが来るときに持っていた鉤縄を渡した。ホサクはそれを受け取り、右肩に巻いた。
「お父様は、私が海の娘だと知っていたのですか。なら、なぜ黙っていたのですか」
「言えば、お前は海に帰ってしまうのではないかと思っていた。私達は、また娘を失うことになるのが恐ろしかった。十五年前、私達の娘が、不慮の事故で死んだ。私達は、娘を失った悲しみに耐えられなかった。お前を失い嘆く海の神から、お前を隠したんだ。だが、それももう終わる」
「嫌です。私は帰りません。私はこの島で暮らします」
「ならん。私はお前の父ではない。お前には帰る場所がある。今、その時が来たのだ。そしてそれは私達の為でもある。私達の、最後の幸せの為に」
するとそれまで悪態をつき続けていたライカが、王に向かって叫んだ。
「何を言っている、王よ。幸せだと。娘を手放すのが幸せか。何を考えている!」
「ライカよ。お前は幸せか?」
「私か?ああ、幸せだとも。この島の皆を幸せにできるのだ。これ以上の幸せはない」
「そうか。我々にも、これ以上ない幸せというものがある。お前は驚くだろうな。それは、死だ」
「馬鹿な、死こそが幸せなどと、王よ、気が狂ったか!」
「狂っているのは誰だ! 死なずして何が人間。増してや人生も、大切な者の事も全て忘れ去って生きるのが幸せだと言うのか」
「何だと。いや、そんな事より、なぜ他の者もここにいる。王よ、自分だけでなく、民をも唆し道連れにしようというのか!」
すると、村の老人が前に出て言った。
「唆されたのではありませぬ。全て、私達の意思でございます。全て知っておりました。不死の者でさえ死ぬのですぞ。全てを忘れさせるなどという所業が、千年もの間、一切の綻びも無いということがありましょうか。それでも、人間らしさというものを取り戻すまで随分とかかってしまいましたが」
そして老人は、茫然としているミハタの方を見て言った。
「ただ、殆どの事は忘れてしまっている上に、どれも同じ『二十年前』の事ですので、色々と混ざっているのですが。乙姫様、あなたには伝えたい事が山ほどあるのですが、私よりも先に言うべき者がいるでしょう」
そう言うと老人は、乙姫の隣にいる侍女の方を見た。侍女はああ、と小さく呟いて、老人達の方に小走りで移り、ミハタに礼をした。その目にはうっすらと涙を浮かべている。
「ナカ? さっぱり意味が分かりません」
「ミハタ様、私はかつて、あなたのお姉様の侍女を務めておりました。それが、いつの間にか仕える御方を失い、いつの間にか、今度はあなた様の侍女となっておりました。殆どない記憶の中のあなたは、いつの間にかどんどん大きくなって……いつもいつも、あなたには振り回されてばかりで、私はまるで本当の妹のように……。本当に、あなた様のお世話をすることは、私の幸せでした。どうか、いつまでも、健やかで」
鼻を啜り、途切れ途切れながらもしっかりと言い終わると、侍女は顔を着物の袖で押さえ、黙ってしまった。
「ミハタ様、どうか」
ミハタが顔を上げると、城へと続く道を、隣の村、そのまた隣の村の者達が、列を成して下りてくるのが見えた。村の者達は次々と、ミハタに思い出話や別れの言葉を告げていく。ミハタは茫然とそれを聞いていた。 列が進み、城下の町の民がミハタと話す頃には、日が随分と高く上っていた。列の最後には、あの小姓がいた。
「乙姫様。昔、あなたが七つばかりの頃、あなたは大きくなったら私と結婚すると、言ってくださいましたね。私はあの時取り合いませんでしたが、未だに忘れていないほど、嬉しゅうございました。それが、いつの間にか私と同じか、それ以上の歳になってしまいましたね」
小姓は話を終えると、ミハタに一礼し、皆の元へ行こうとした。しかし、ミハタに右の袖を掴まれ、立ち止まり振り返った。ミハタは目に涙を湛えていた。
「姫様」
「嫌です」
「姫様、お手をお離しください」
「行ってはいけません。駄目です。駄目です」
「姫様、いいえ、ミハタ様。お願いです。私を自由にしてください」
小姓は寂しげな笑顔で、ミハタの瞳を見つめた。ミハタは、手を放した。小姓は皆の元へ行き、懐から、小さな包みを取り出した。
同じように、周りの者達も包みを取り出し、王は王妃にその一つを渡した。それを見て、縛られたままのライカが叫んだ。
「まさか、よせ!」
「ミハタよ、お前といられて、幸せだった。どうか私達を許してくれ」
「王よ! 目を覚ませ! 飲むな!」
「ホサク殿、娘を頼みましたぞ。ライカ、今までご苦労だった。ただ、私達の幸せは、もう別の所にあるのだ」
「やめろ! あなたは間違っている!」
「さあ、行こうか」
包みを開くと、そこには小さな赤色の丸薬が入っていた。王と王妃がそれを飲むと、皆がそれに続いた。ライカが何かを叫んだ。すると、薬を飲んだ皆の体が細く、骨と皮ばかりの骸骨のように変わり、崩れ始めた。髪は抜け落ち、指先から皮と骨が灰のように剥がれ、着物の腹から下が黒く染まる。老人、次いで子供の骸が膝から倒れた。王が崩れかけた指でライカを差すと、ライカの側にいた男が、震える手でライカの縄を切った。ライカは悲痛な叫び声を上げ、男の骸を押し倒した。
「吐け! 吐き出せ!」
しかし骸は、笑うように口を開けると、そのまま首を大地に転がした。ライカは隣の骸に掴みかかったが、その骸もまた、ライカを優しく見つめ、崩れていった。やがて崩れた人の粉が、灰のように風に巻き上げられ、大地には黒く染まった着物だけが残った。ライカは先程まで人の海であった場所を狂ったように駆けずり回り、そこに落ちている着物の胸を何度も叩き、崩れた人の灰をその手でかき集めようとした。灰と異臭の嵐が収まったとき、そこで動いているのは、ライカとミハタ、ホサクの三人だけだった。ミハタは灰の山に膝をつき涙を落としたが、すぐに目をごしごしと擦って立ち上がった。そして、灰に埋もれ蹲っているライカに声をかけた。しかし、ライカは動かない。もう一度強く呼んでも、全く反応がない。ミハタは灰の山の上を歩いてライカに近寄った。すると、ライカが突然立ち上がり、笑顔で叫んだ。
「声が聞こえた」
「え?」
「子供の、子供の声だ! まだ生きている! 死んでいない! よかった! どこだ、どこにいる! そこか! 今助けに行くぞ! ああ、かわいそうに! 皆死んでしまった! お前だけは助かったのだな! いや、もう二人いるのか! 泣くな、私がいる! 私がお前達を幸せにしてみせる!」
突然、ホサクがライカの後ろに回り、笑い狂うその口に、丸薬を押し込んだ。ライカは皆と同じ骸のようになりながら、ゆっくりと灰の上を歩き、屈み込んで、崩れた腕で何もない虚空を優しく静かに抱き寄せた。そしてそのまま、灰の山となった。そこにいるのは、とうとう二人だけになった。ミハタは悲しげに、潰れたライカの服を引き上げ、丁寧に、やや不器用に広げて、灰の山に置いた。
「さあ、行くか」
「ええ、お兄様」
ホサクが湖に向け手を翳すと、水が波立ち岩を動かして、洞窟が現れた。洞窟から大量の水が押し寄せ、湖の水と混ざり合った。ミハタは名残惜しそうに島を見渡し、静かに波の中に入り、そして消えた。
蓬莱の島 昌 @yamarei
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