第118話 落ちて溺れていく・・・・・・とは

 恋人のいる女性を好きになることは、もちろん障壁がある。後ろめたいことかもしれない。

 が、しかし、「体の関係を持てばダメで、持たなければオーケー」という単純な話しでもないし、かと言って、「それは気持ちの問題だ」という正論を吐くつもりもない。


 そんな他の男の所有する女と、いわゆる旅行に行くとなったらどうするか。すでにアウトという可能性は高いが、欲望に従うなら行くことになる。声を大にして言うことではけっしてないが、そういう機会にめぐり合ったかつての僕がいて・・・・・・、そして・・・・・・、行った。


 気持ちを雄弁に語るほど、そういった場面に慣れているわけではないが、経験してみてわかったことは、こういうときの行動というの、ふたつの気持ちで揺れ動くというものだった。“光と影”のようなイメージである。

 僕目線で言わせていただけるなら、日の当たる場所に彼女を連れだし、恋人を気取って青空の下でのびのび振る舞いたいと願う一方で、そんなお天気にさらせる関係ではないという気持ちにもなる。


 そのときの写真が一枚残っている。いまでもはっきり覚えているが、横浜の、とある公園内で撮ったものだ。

 明るくはにかんだ彼女の微笑みの一方で、僕の表情は硬く、肩に回した手もこわばっていた。西日が眩しかった以上の要因が、そこには絶対あった。

 当時は自撮りなんてことはなかったから、インスタントカメラを渡して見知らぬ通行人に撮ってもらったのだ。自分が頼んでおいて言うのもなんだけれど、一秒でも早く撮って欲しかった。


 そんなだから、会話はたわいもないものに終始することになるし、開き直れない僕は、日陰を歩くことになった。横浜みなとみらい、山下、元町を地味に散策するという、そんな昼間のデートだった。


 一泊するとなると、自体はさらに深刻さを増す。「あわよくばという気持ちがない」と言ったら嘘になるが、体をむさぼる関係でないとしたら、いったいどういう態度をとるべきか。

 旅行に付いてきた時点で、「相手にもその覚悟がある」と考えるのが、おそらく自然な見方だろうけれど、男女の機微というのはそんな簡単ではない。好きだから触れないこともあるし、たいして好きでないからこそ平気なこともある。


 ホテルに入ると、これまで以上の緊張感が訪れた。不自然ななかで、より話しを途絶えさせないよう取り合い、感情の乱れにくい会話を繰り返した。職場のグチだったり、友だちからの新情報だったり、映画でのオチだったり、買い物中の驚きだったり、周囲で見かけた変わった人の行動だったり、それらはめったに聞ける話ではなかったから、実際、僕らは屈託なく笑い合った。


 穏やかな時間の流れだった。彼女の笑いどころや和(なご)みどころ、あるいはキレどころなんかを理解できたし、こだわりやクセといった部分も見えてきた。密室に二人きりだと、かなり深い部分まで認め合えることを知った。


 辺りが薄暗くなるなかで、僕らは食事を摂るためのルームサービスを頼んだ。

 シーザーサラダとオニオンスープに加えて、サーモンのポワレにテンダーロインのグリル、それからボロネーゼなんかを、それぞれ適当に1品ずつ注文し、すべてをシェアしながら食べた。でもそれは、お互いの皿に均等に取り分けるという上品な作法ではなく、半分食べたら相手に渡すというやり方だった。受け取った本人は、そのまま続きを食べる。

 高級と言えそうなそんなホテルの一室が、まるで自分の家のような空間に変わった。


 食事の後も話しは続いた。それは、この後の展開をはぐらかすかのような振る舞いだった。彼女の生い立ちや恋愛なんかの経験を尋ねてさえいれば、話題は尽きなかった。


 そろそろリラックスしたいという気持ちと部屋の温度の上昇から、トップスにおいて、自分はすでにシャツ1枚になっていた。彼女にもニットを一枚脱ぐよう促したところ、素直に従った。ここまでくれば、そうするのが自然な流れに思えた。

 間合いを詰めるタイミングを見計らいつつ、僕は寝ることへの準備を提案した。


「そろそろ休もうと思うのだけれど、どうする? お風呂とか入るよね」

 もちろん、彼女は「そうする」と言った。

「せっかくだからお湯をためようか」という勧めにも従い、彼女は浴室へと向かった。


 こういう場合における男の戦略としてよくある方法は、頃合いを見計らって入浴中の女性を突撃するというものだった。もちろん、それには相当の信頼(というか、愛情)と実績(というか、絆の深さ)と、そして愛嬌と度胸がなければ嫌がられる、というより恥ずかしがられるけれど、浴室を暗くすることで受け入れてもらえることが多い。

 ふたりでホテルにいるのだから、そこは承諾してもらえるものだし、それ相応の覚悟も持ち合わせてもらっている。なんなら、そうされることへの期待さえ抱いている。それはそういうものだし、そうでなければ困るし、そうしない手はない。


 浴槽に飛び込めば、そこは、月並みな表現になってしまうけれど、この世の楽園というか、何にも代えがたい理想郷だった。流線と起伏とによってかたどられた、なめらかですべやかな肌膚(きふ)をとことんまで堪能できる。浴室が狭ければ狭いほど密着度は増す。


 僕にとっては、それで十分だった。罪悪感や背徳感がないわけではないが、とにかく彼女はいまここにいて、紛れもなく僕との接触下にある。道徳や倫理、モラルやエシックを持ち出すような場面ではない。こうやって人は落ちて、溺れていくんだろう。


 今回の旅行を通じて気付いたことだけれど、そういう関係の相手に問いかける場合、僕は名前では呼ばなかった。すべて「あなた」で済ませていた。ずるいと思われるかもしれないけれど、気持ちのうえでは、これによってせめて一線を引いていたということだった。

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