第98話 20代で本当にやっておいてよかったこと

 前回、『20代で本気で後悔していること』を投稿した。

 前半部分に記載した“時代背景”に、なんの意味があったのかわからないが、前置きというのが必要だと思った。“落差の時代”と形容したように、世の中がどんどんこじんまりしていく時代を過ごした。


 経営統合や吸収合併という形を経て企業の名称が変わり、ファッションや音楽や外食に派手さがなくなった。堅実という言葉がしっくりくるような時代に突入し、公務員が人気の職業となった。

 そんななかにおいても自分自身は、物欲によってストレスを満たしていたような気がする。こんな仕事をしているせいで、忙しく、お金の使い道がなかったのだろう。


 インターネットなるものが登場し、携帯電話が普及するにつれて、ようやく時代の変換が図れたような気がした。が、しかし、僕にとってのそうしたIT技術は、“個”での暮らしをますます意義深いものにさせてしまったようにも思う。


 今回は、20代でやっておいてよかったことを考えてみたい。


 医学論文を書きまくった経験値は高かった。

 大学病院での研究生活において、実験自体に面白みはなく、医学の発展はさらに遠く感じていたが、自分の得た研究データに基づき、ものごとを理詰めで捉え、過去の文献と照らし合わせて、論文を書くことは愉しかった。

 本末転倒と罵られようが、自分の書いた学説が活字化されて、段が組まれ、雑誌の中できれいに印刷されて、関連の学者たちの間で読まれている(はずだ)と妄想することに、無類の喜びを得ていた。自己満足であろうと、報酬や名誉、権威といった俗な精神によるものであろうと、とにかく自尊心を刺激する美酒に酔いたい。そのモチベーションによって推進していくのが、僕にとっての研究だった。


 そういう意味では、読書も習慣化させておいてよかった。

 前回の『20代で本気で後悔していること』では、「読書はもっと体系だって読めばよかった」と述べたが、読みを切望する気持ちをキープできている効用は大きいと感じる。

 活字を読むという作業が、コミュニケーションや付き合いや仕事や趣味のはじまりであるケースが格段に増えたからだ。ネット情報や雑誌、SNSやブログ、企画書や報告書、それから実用書や文献など、活字情報の取得なしには、この世の動きには付いていけなくなった。


 アパレル業界の人と付き合うことの価値は大きかった。

 “バーバリー”の店員さんと十数年に亘って個人的な付き合いをさせていただき、ファッションについてのノウハウを教えてもらったことが、センスを磨くということよりも、自分の体型、ひいては健康を維持するための原動力になった。

 ファッションを、“おしゃれ”や“格好”のためと思っているようでは、まだまだ十分とは言えない。結局のところ、外見に見合う中身の伴った人物に成熟するということが大切で、もちろんそれはファッションに限った要素ではないが、そういうことに気付かせてもらったアパレル店員さんには感謝している。

「着こなしと内面がちぐはぐであってはいけない」というのが、その人の口癖だった。


 インターネットのない時代に生まれたメリットはあった。

 1995年が“インターネット元年”と言われている。その前後を体感した僕(ら)がいま思うことは、「文明やテクノロジーの発達は、必ずしも人を幸せにはしない」ということだった。

「新幹線が敷かれて、移動がスムーズになったおかげで日帰り出張が可能となり、さらに忙しくなった」という年上世代の言っていた愚痴を、自らも体感することになった。

「夜中だろうが、休日だろうが、仕事の指示が飛ぶ」というのと、「姿の見えないコミュニケーションが世の中を窮屈にしている」というのが、いまの現代人の最大の悩みなのではないか。ネットのない時代を想起すれば、そうしたストレスは、いくらか軽減できるような気がする。


 恋人や友人との付き合いのなかで学んだことのすべては、「全部を互いにわかり合えることはない、ということを、互いにわかり合えた」ということだった。だから、その隙間を埋めるものとして、優しさや感謝や尊敬や、場合によっては努力や忍耐が必要だった。

「恋は“理屈”じゃない」と言うけれど、理屈どころか、いま述べた“優しさや感謝や尊敬”が必要だということ。

 好き嫌いのこんなに激しい僕のために、あれでもないこれでもないと迷いに迷い、悩み尽くし、それでもなお諦めないで、たったひとつのものを選んでくれた相手の度胸と勇気と努力とをおもんばかれば、その人に感謝しないわけにはいかない。


 独りでいる時間の多かったことが、このコロナ禍で活きている。

 独りでいることを好む傾向にあった自分にとっての20代からの趣味は、登山、読書、アニメ(映画)、音楽、その後のエッセイ執筆、ジョギング、乗馬、日曜大工であるが、いずれも単独で行うことが可能だ。

 申し訳ないが、このコロナ禍のなかにおいて、僕個人的に困っていることは、まったくと言っていいほどない。趣味や余暇活動においての影響もまるでない。これは、日頃から独りでの行動が多かったからに他ならない。そもそも”private distance(独り距離)”を取っていた自分からしてみれば、social distance(社会的距離)なんてものは、どうということはない。


 そして最後に、「過去の記憶を頼りに暮らせる」、あるいは、「想い出を拠り所に生きていける」という教訓を築けてよかった。

 これからもこれまでのように、いやますます、いくつかの理不尽と、繰り返す不条理と、最終的には己の力のおよばない部分で紆余曲折を繰り返すだろう。そんなときの考えとしては、“やむなし”という受け入れが大切だ。

 これまでに関わらせてもらった人や物を“よすが”に生きられることが、これからの自分にとってはなにより大切だと思う。

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