第85話 異動の季節から:言葉を濁したまま退職して

 4月といえば異動の季節である。

 新天地に赴くという希望の一方で、いままで勤めていた職場との別れがある。憤懣やる方ない苦境からの開放の一方で、これからの不安もある。社会における悲喜こもごもは、この時期特有の人の姿である。

 そんななかで、支援に来ていたひとりの看護師が、“家庭の事情”という理由で職場を辞めた。


 こんなとき世の多くの男が思う率直な気持ちは、(相当な自惚れかもしれないけれど)「オレがいるのに」ということである。相手が、できる人間であればあるほど、人当たりが好ければ好いほど、美人であればあるほど・・・・・・、大半がそう思う。


 数年前の話をするが、その娘と僕とは、同じ手話教室に通っていた。

 障害者支援の現場に立ち会うことのある僕は、学びというより単に興味のために、少しだけ手話を習得しようと思っていた。そこで、ボランティア団体の運営する“手話サークル”に通いはじめたのだ。

 ある日、そのことを彼女に話す機会に恵まれた。夜間救急の現場で、たまたま勤務が重なったからだ。


「木痣間先生は、仕事が終わったら何をしていることが多いのですか?」

 それは、診療の合間における何気ない会話だった。暇つぶしの軽い問いかけに過ぎなかった。


「そうね、最近は・・・、手話を習いはじめたんだ」と答えたところ、急に彼女の目の色が変わった。

「えっ、手話を・・・!?」

「うん、3ヵ月前からだけど、金曜日の夕方、サークルに顔を出しているんだ。まだ“あいうえお”だとか、あいさつだとか、本当に基本的な部分しかできないけどね」

「いや、ワタシも習いたかったんですよぉ。以前、ろうあ者の患者さんを受け持ったことがあって・・・・・・、手話ができたら、その人ともっともっとコミュニケーションを図れたし、真剣に向き合うことも可能だったと思うんですよねぇ」


 なんと、偶然にも、彼女も手話の学べる機会を得たかったのだ。しかも、僕よりよほど高い意識をもって。

 この日から、車で送り迎えを兼ねたサークル通いの日がはじまった。

 はっきり言うが、かなりの部分で、いやすべてと言ってもいい、それがあったから僕は習い続けることができた。


 子供のころの話をする。

 同じ方向に自宅があったからなのだが、地元小学校までの通学路において、登下校の途中、一人の女の子とよく顔を合わせていた。とてもかわいかったので、友だちになりたかった。あわよくば・・・・・・なんてことも考えて何度か試みようとしたのだが、いつも空振りに終わっていた。


 中学になって、二人とも地元の町立中学に通うようになったが、僕の憧れは続いていた。あいさつくらいはできるようになったものの、それ以上の進展は何もない、相変わらず僕はただのガキだった。


 そして、中学も残すところあと1年くらいのところで、ヤツが現れた。転校してきたその男は(と言っても、僕と同じ年だが)、背が高くて、やや長髪で、少しだけ悪ぶった学ランを着ていた。こともあろうか、いともあっさり彼女に近づいた。

 ある日、一緒に通学している姿を見つけたときは、ショックのあまりその場に立ち尽くしてしまった。僕が何年も何年も声すらまともにかけられず、ずっと眺めていただけだったのに。

「うちの中学には、こんなカッコいい男子いないよね」という彼女の言葉が聞こえてきた時点で、僕はすべてを悟った。


 このとき得た教訓は、「かわいい娘は、うかうかしている間にもっていかれる」ということだったが、それよりも何よりも、「現実というものを知らない方が、よほど救われる」ということだった。

「男子たるもの行動が大事だ」と反省する以上に、僕の数年間が一瞬で奪い取られたという、その現実を受け入れることの方がつらかった。


 元をたどって冷静に考えれば、中学時代、その子が指摘したように、単に自分に魅力がなかっただけだ。そんなことはわかっている。

 今回の彼女の、「どこへ行っても手話は続けますね」というぼんやりとした言葉だけが、僕を立ち直らせた。仕事終わりの“夕活”に付き合ってくれたうえに、僕を傷つけまいと、“寿(ことぶき)”という退職理由を明かしてくれなかったのも、何かの配慮だったのかもしれない。


「本当のことを言って」と詰め寄った結果、本当の事実をすべて聞いたとして、それで幸せになれたという人が果たしているだろうか。

 春のこの時期、退職するなら、男のためを思うなら言葉を濁したまま去ってもらえることを願っている。

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