第37話 三役を持つ女性から:昼間と夜と週末の顔

 10年以上前になるが、「たまに記憶が遠のいてぼーっとする」という訴えで来院した30歳の女性がいた。

 一過性の意識消失を考えると、“てんかん”という病気を想起する。そうなると、危険行動がないかを把握しておきたいので、社会的な背景を問診することになる。


「お仕事は何をされていますか?」

「はい、昼間は販売員をしています」

 販売員という職の範囲は広い。もう少し具体的な説明が欲しかったが、それよりも、「昼間は」という言葉に引っかかった。

「『昼間は・・・・・・』ということは、夜も仕事をしているのですか?」

 ストレートにそう尋ねた。

「はい、夜はクラブで働いています」

「えーっと、クラブのホステスさんということですか?」

 “ママ”という年齢にしてはまだ若いだろうから、当然、そのような質問になる

「はい、平日はそういうことになります」

 なるほど、マツエクをほどこしたアイメイクの隙のなさを考えると、そうした方面のプロでもあるということだ。ただ、それよりも「平日は」という言葉に、再度引っかかった。

「『平日は・・・・・・』ということは、休日も何かしているのですか?」

「はい、週末は、まあ、いわゆる“歌手”として活動しています」


 んっ、「歌手だ」と。


 正体不明だが、女性、妻、母とはまったく異なる新次元の三役を持つ女性だった。

 結局彼女は、昼間は個人経営のアンティークショップの店員を勤め、夜はクラブのホステスに転じ、週末はジャズシンガーとしての夢を追っている、とのことであった。

 さらに話しを詰めていくと、いずれもかなりレベルの高い仕事をしているようだった。


 まず、ショップの方は、地元ではかなり有名で、女子のほとんどが知っている評判の店だった。僕も名前だけは聞いたことがあった。

 バイヤーは他にいるのだろうけれど、でも彼女の目利きによってイギリスやフランス、ベルギーなど、ヨーロッパのアンティークマーケットから買い付けた本格的な雑貨や家具が並んでいる。


 クラブに関しても、僕は知らなかったけれど、これも地元では1、2を争う高級クラブであると、友人から教えてもらった。

「美人揃いなうえに、上品で落ち着いた店ですよ。ただ、ちょっと値が張りますけどね」と。


 そして、ジャズボーカリストとしての側面もある。アマチュアではあるけれど、バックバンドを有するきちんと研鑽を積んだシンガーだった。クラブに勤めているけれど、喉をやられるから大声は出さないし、お酒も極力飲まないようだ。

「ジャズが歌えるようになるには、歌い方の個性や特徴を真似するのではなく、歌い方の“型”を真似するのよ」というような、僕にとってよくわからない説明をされた覚えがある。


 不思議で魅力のある女性だと思ったけれど、そういう事実を聞かされるとさらに興味が湧く。

 医師と患者という節度があるから、「それだけがんばっていれば、ストレスも溜まるでしょう。ちょっと動きすぎなのではないですか?」ということを言うに留めるしかなかった。

 彼女からは、「どれも大切な仕事ですから辞められませんし、それによって自分はバランスを取っています」ということであった。


 クラブの詳細を教えてくれた友人に連れられて、僕は彼女の勤める店を案内してもらった。

「ご指名は?」という黒服の言葉に、友人は、「たぶん、ヒロさんでお願いします」

 そこには、紛れもない夜の彼女がいた。

 が、しかし、昼間と変わらない、ちょっと舌っ足らずだけれど、でもきちんとした信念を持っていそうな彼女がいた。高級クラブだからといって特別上品になるわけでもなく、お高くとまるわけでもなく、フランクで人懐っこいそのままの彼女がいた。


「そうだ、先生にあげたかったものがあるの。いまちょうどあるから、こんなところで何だけれど渡してもいい」

 なんだろうと思ったけれど、それは自分で製作した一枚のCDだった。

「ライブを録音したものよ、『聞いてみたい』って言っていましたよね」

 確かに言った。自分もバンド活動をしていたことがあるから、シンガーであるなら興味はある。ちゃんと覚えていてくれたのだ。

 ジャケットには、チャカ・カーン、キャロル・キング、マリーナ・ショウ、エタ・ジェイムズなどの名前と楽曲が並んでいた。おそらくこれらをコピーしたのだろう。


「それから、これは次回のライブチケットとチラシね。店に来てくれたから、今回は特別に、あげる。それと、ワタシの勤めているショップの広告、たまにセールもやるから見に来てみて」

 しっかり営業された。


 僕が大学病院を辞めると同時に会えなくなってしまったけれど、SNSの通知で今日が誕生日であることを知った。

 もらったCDがあるはず。10年以上ぶりに彼女の歌声を聞きながら、当時を思い出しながらこの原稿を書いている。


 ふとひらめいた。気が遠くなるのは、この力強い歌声を出すための発声練習の過密さにあったのではないか・・・・・・。いまになって気付いたけれど、もう伝えられないな。

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