第20話 ジョギングから:結局なんのために走っているかわからないから走っている“得体の知れないモノ力”

 たいしていばれることではないが、できるだけ毎日ジョギングをしている。


 目標距離は10キロ、時間にすればジョグペースで約1時間。僕にとって“10キロ1時間”のペースはけっこうきつい。途中で脚や横っ腹が痛くなったり、呼吸が上がったりすることもある。下半身を中心に、どこかしらの痛みを日常的に抱えることになるので、けっして大袈裟ではなく日々のメンテナンスを求められる。


 夕方のランのためには、昼食の時間調整と摂食量の配分が必要だ。おやつ時間に間食をし過ぎたり、コーヒーを飲み過ぎたりしないような配慮も大切となる。そうしたうえで、おおむね夕方6時くらいに、トレーニングウェアとジョギングシューズとに履き替え(冬はヘッドライトを装着して、ときにサポーターを重点的に撒いて)、自分のなかで「仕方がない」という気持ちで走り出す。


 ジョギングのきっかけは、離婚や進退の問題を抱えていたとき、まずは山登りに目覚め、そのための基礎体力作りではじめたのが一応の表向きである――実際は、明確な理由はない。

 最初は週に1~2回程度、距離も時間もたいしたことなくチンタラ走っていた。その後、東日本大震災が発生し、医療支援を目的に2012年に福島に来た。意外なことに、「被災地なのだから悠長に走っている場合ではない、ジョギングは当分止めよう」という気にならず、マイペースな走り自体に変化はないものの、むしろ積極的に走るようになった。

 こともあろうか、被災市民とマラソンチームを作ってしまい、それからは息抜きという感じではなくなってしまった。ランは週に3~4回に増え、コロナの自粛ムードのなか、どういうわけだか、できるだけ毎日走るように、もう一段(というか、数段)ハードルを上げてしまった。


 毎夕10キロ走るという、ひと昔前の怠惰な自分からは想像すらできなかった大きな目標を掲げ、日夜励むようになった。

 その都度、「いままでそんなに走っていなかったのだから、いまさら何やってんだ。今日くらい走らなくてもいいではないか」という理由を、10個程度は簡単に思い付くが、帰宅時間の前になると、「いつものように今日も走るのか?」という、なんともイヤな気分になってくる。

 さらに数十分という短い時間のなかで葛藤をくり返す。「走れないという理由はないではないか」という考えを芽生えさせ、帰宅直後までに「走るって決めたんだから、今日も走らねば」というテンションまで持っていくのである。かなりしんどい所業だ。


 ジョギングをはじめて、体がどのような変化をきたしたかというと、まずおとずれたのは膝の痛みだった。走りはじめて5回目くらいから出現した。歩くたびに膝の内側に激痛が走り、それこそ走るどころではなくなった。「ド素人がいきなり走りはじめるからだ」と、運動している友人から言われたが、そのとおりだと思った。こういうときは、しばらく安静にしているしかない。出鼻をくじかれ、山登りも当面行けなくなった。

 3週間ほどで痛みが引いたので、同じ轍を踏まないように、今度は、準備運動とペース配分と走行後のマッサージとを取り入れることによって、痛みの再発を回避できた。少しずつ距離とペースとを上げることに成功したが、体重はまったく減らなかった。


 やがて、動きが軽くなったような気がして、それに伴い、少しだけ筋肉が引き締まった感覚を覚えるようになった。「そういえば、今年は風邪をひかないな」と思うまでには3年の年月が経っていた。それでも体重は変わらず、70キロ越えがキープされていた。

 4~5年目くらいになって、ようやく変動するようになった。走り終わった時点で68キロ、翌日には71キロに復すというような振り幅が生まれた。安定した5キロの体重減に至るまでには、実に10年以上の年月が必要だった。

 

 ジョギングによる体重というのは、繰り返しになるが、まずは痛みとの格闘、そのうち動きが軽くなる、筋肉が引き締まる等を経て、風邪をひかなくなる、そうこうしていう間に、走った直後にカロリーが消費されるようになり、しかしまたすぐ戻るという代謝の回転がおとずれ、やっとやっと最後に減るのだということに改めて気付いた。

 ジョギングの目的として多いのは、ダイエットやストレス解消なのだろうけれど、体重減少を指標にしていたら、ただただ徒労でしかない。


 であるからして、「どうして走るのか?」という疑問に何度も立ち返ることになる。マラソンチームのメンバーに尋ねると、「年齢をひとつ取るけれど、自分の体力だけはひとつ若返りたい」とか、「健康増進」だとか言うのだが、僕に関しては、「見えない何かと向き合う必要性を感じているから」としか言いようがない。

 それは、このままでは終わらせたくないという抗いなのか、自分にはまだまだ挑戦の火種が残っているということへの発憤剤なのか、社会的不安な状況で何ができるかの試みなのか、それはよくはわからないが、いずれにせよ心が、魂が、それを望んでいるということである。

 走らなくても生活はできる。たいして楽しいわけでもなく、それをやったからどうなるわけでもない。それどころか、かなりきつい毎日になっているにも関わらず、あえて言うなら「決めたことだから」という理由だけで、それをしないではいられない。


 一見、無意味と思えるようなことでも、泥臭くしたたかに遂行できる術を養っておくこともきっと大切なのだ。それは、言ってみれば、“得体の知れないモノ力”のようなものだ。

 ときに迷い、ときに後悔し、ときに引き返すこともある。しかし、そういう駆り立てられるようなものに素直に従っていくことが、おそらく自分というもので、何かをなしていくとはきっとそういうことなのだ。

 そう考えると、僕にとっては、「自分で決めたことだから」以上の行動原理は他にないのかもしれない。

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