第13話 初恋から1:「旦那さんといるのが苦痛なの」

 初恋の人というのは男女を問わず、一期一会のなかでは生涯もっとも忘れられない人のひとりになるのではないか。


 僕にもそういう人はいた。

 中学時代の同級生である。もちろん可愛かったけれど、けっして目立つような子ではなかった。控えめでおとなしい。飛び抜けて何かに秀でたところもない。常に物憂げな表情を浮かべていた。

 それは僕も似ていたから、身の丈に合っていそうな子というと失礼になってしまうが、要は、そういう人選だったかもしれない。僕のようなかなり内気なモノにも普通に接してくれた。

 その年代というのは、女の子の方がませていたりするものだから、告白なんてことは当然なかった。普通は遠くから見ているだけの淡い恋心で終わるのだろうけれど、僕の場合は一度だけ二人で出かけることができた。


 その子とは、偶然同じ学習塾に通っていた。僕の成績は上の下くらい。一応進学校を目指していた。

 そんな学習塾でのある日、これまた偶然だけれど、彼女が僕の前の席に座った。机は固定されていなかったら、宝くじよりは少し高い確率でそういう機会がめぐってきてもいい。でも、今回の偶然だけは、運命と言うしかない。おそらくこの日がなければ、二人での外出はなかったと思うし、それほど考え続けることもなかったし、いまも動揺の日々を過ごすこともなかった。


 この日塾講師が、隣町にある美術館について話しをしてくれた。僕の住んでいた埼玉県に「なぜ、そんな美術館が」と思うのだけれど、広島の原爆を描いた絵や写真が展示されているのだ。

 僕は、「そんな美術館が身近にあるんだ」というくらいの認識しか持たなかったのだが、彼女はちょっと違っていた。

 くるっと僕の方を振り返り、広げてあったテキストの端っこに、そっと、「一緒に行ってみない」と書いてきたのだ。

 一瞬何を言っているのか理解できなかったので、「どこに?」と返事を書いた。

「ま ・ る ・ き」*


 僕は、この日のためにアディダスのTシャツを買い、自転車をきれいに掃除した。きっと初夏の頃だったと思う。

 美術館の中身のことはほとんど覚えていない。原爆の絵や写真だから、こう言うと語弊があるかもしれないが、中学生の僕にとってはあまり気分のいいものではなかった。その日が晴れていなかったら、おそらく沈んだ気持ちになってしまったのではないか。

 帰りは少し遠回りをして、途中、河原の土手で自転車を止めた。芝生の上で、二人で寝そべって空を眺めた。僕は、雲のゆっくりとした流れをひたすら見ていた。

 会話の内容はほとんど覚えていないが、「気持ちいいね」と言うことが精一杯なほど緊張していたことは確かである。食事を一緒に摂ったかどうかはわからない。


 でも、それをきっかけに、彼女とは少しだけ親しく話しをするようになった。林間学校のバスのなかでは、わざわざ補助席を出して、僕の隣に座ってくれたこともあった


 そんな思い出を抱きながら、中学の卒業とともに、お互いは別の高校に進学していった。地元の駅で、通学中の彼女を、ごくごくたまに見かけることがあったが、それもただそれだけだった。声をかける勇気はなかった。

 その後、彼女は短大に進んだことを風の便りで聞いた。僕は予備校通いが決定した。一浪の末にやっと医学部に合格できたが、そのときから僕は埼玉を離れ、同時に彼女の足跡も消えた。


 それから20年の月日が流れていった。

 紆余曲折、僕は医者の末席を汚しながら福島県に居る。

 気持ち悪いと思われるかもしれないけれど、「いくつになっても少年のようなロマン」という、寛大なお気持ちでみて欲しいのだが、20年間、僕はときどき彼女を思い出すことがあった。初恋の記憶というのは、得てして美化されていくものだ。中学の卒業アルバムというものも保持している。


 そして2年前、偶然にも彼女のSNSを見つけた。

 写真が数点アップされていて、それは家族旅行とおぼしき写真だった。多少の動揺を覚えたけれど、それはごくごく当たり前のことだ。だから、そっくりそのまま20年分の変化だとしたら、僕は静かにタイムラインを閉じ、そのアカウントを封印したであろう。

 でも、彼女の表情はあの頃のままだった。笑顔のなかに少しだけうるんだ瞳と、不安げな面差し。


 その直後、僕はメッセージを送っていた。

「中学時代同級生だった木痣間です。覚えておいででしょうか? 突然のメッセージで申し訳ありません」

 返事は間もなくきた。

「もちろん覚えているよ! 懐かしいね~」

 それから数日間は、お互い、これまでの生い立ちや近況を伝えるようなやり取りが続いた。

 そして、あの日の出来事について触れてきたのである。

「そう言えば、一緒に美術館に行った覚えがあるような、ないような。あれは私の夢だったのかな?」

 もう少しのところで、彼女の記憶から、あの紛れもない僕にとっての一生の事実が消え失せるところだった。


 ついに、彼女から決定的な状況を聞かされることになったのである。

「旦那さんといるのが苦痛なの。優しそうだからこの人でいいかなと思って結婚したのだけれど、違っていたの・・・・・・」


 だからあの物憂げな表情のままだったのだ。


(つづく)



*『原爆の図 丸木美術』


画家の丸木位里・丸木俊夫妻が、共同制作原爆の図を、誰でもいつでもここにさえ来れば見ることができるようにという思いを込めて建てた美術館。

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