幻想を狩る

押田桧凪

第1話

 人が恋に落ちるのは重力のせいではない、とアインシュタインが明言しているように、これは普遍的なものではなく、最も純情を必要としない最小限度の恋になる筈だった。


 無意識的に好きになって、意識的に恋に落ちる。そんな自然な流れが理想的なのだ、と空を掴むように、手を伸ばし天井を仰ぐ。

 いつの間に眠っていたのだろう──。

 雑多な思考を巡らせていると、インターホンが鳴った。



 △ ▼ △ ▼ △ ▼



 ──アサミから頼まれて怪しいバイト、としか思えない『被験者』募集に参加することになっていたのに。まさかのアサミから、その企画をドタキャンすると聞いたときは本当に参った。アサミとは大学以来の仲で、私のほかにもう一人参加するという旨を聞かされていた。


 現在。少子化が進み、そして追い打ちをかけるように先のウイルス蔓延によって景気不振でリストラを進める企業が出てきたご時世。バブル崩壊以来の就職氷河期にあたると世間では報道されている。


 そんな中だから……というのは言い訳にしかならないものの、リストラ後の採用試験には未だに引っかからないままの私はお小遣い稼ぎとは言っても仕事が欲しいのだ。折角のバイトの機会を逃してしまうなんて。


 ドタキャン。ほぼ死語に近い言葉だろう。これだから若々しさが足りない、なんていう理由で落とされてるのかなあ。ハッ。



 △ ▼ △ ▼ △ ▼



 都市ビルがちらほらと立ち並びながらも、近郊地として閑静な住宅地が区画された並木沿いを抜けて、携帯電話を頼りに目的地を目指す。

 うだるような暑さにまだ体が慣れていないせいか、じっとりと服に纏う汗とともに不快感が増していく。


 気づけば、野良猫が潜んでいるような薄暗い路地裏にさしかかり、ぽつんとした瀟洒な外観の家の前に辿り着いていた。


 おそるおそるインターホンを鳴らし、反応を待つ。早速出てきたのは無精髭を伸ばした、白衣を着たおじさんだった。


「えっと、テスターさんの方で?」

 あっはいとそれとなく返事をして、中に案内される。玄関口からほんのりと香るラベンダー、いやトイレの芳香剤のような、つくられた匂いがちくりと鼻腔を突いた。


 奥に広がる、病院の診察室のような間取りの部屋で、背凭れのない丸椅子へと向かい、私はそこに座らさせた。

 まさに医者と患者、の構図に近いポジションでおじさんは私から斜めの位置に腰掛ける。


「すいません、実はわつぁしもまだ初めたばっかりでして、こういう療法を使うのは、ハハッ」


「はぁ」


 どうやら今から行われる精神メンテ的な何かは、概要を聞く限りでは、初めての試みとなる『催眠術』によって心を浄化するものらしい。

 自己紹介を含めて話があり、小中学校の訪問カウンセラーをしていたこともあり、「精神療法には精通している」と豪語していた。


 深呼吸、それから瞑想の手順を聞かされ、部屋の電気を消しますね、と合図があった。


 ふと、ゼラニウムの香りが漂い始めた。もくもくと白い煙が立ち昇る。ディフューザーが起動しているのを確認する。


「すみませーんじゃあ、目を閉じて貰って。目を閉じてください、はぁいそのまま。開けないで、じぃっとお願いします」


 それから、おじさんはなにやら詠唱を始めた。異国語のようで、新興宗教かと疑ってしまうくらいの熱の入り方だ。


 気になって目を開けてみる。奥から声がしていること確認し、また閉じる。


 ひとり宇宙の片隅にいるかのように、つめたい静かな空間だった。

 またそれと同時に、分断された海氷に取り残された一匹のシロクマのような孤独感に包まれる。

 でも、それが逆に心地よかった。なぜかはわからない。この空間そのものに体を委ね、喰われてもいいように思えた。


 ──どれくらい経っただろうか、遠くから聞こえる秒針が絶え間なく刻まれるのに耳を澄ませていると、スタスタとスリッパの足音が近づいてきた。急にどきどきし始める。


 アンダンテ。歩くような速さで、だけど強く脈打つ鼓動が服の上から肌を通して感じる。


 そして足音が止まった。


 ──どうしようか。催眠状態に全く入ることができていない私は、このままどうすればいいか分からなかった。

 もう、すでに、誰かが目の前にいるように感じる。


「え、あ……やった。ちょっと成功してるよおねぇ。いやあコレってばウソ、ほんとぉ…。」


 感嘆ともとれるおじさんの調子の外れた声が、狭い部屋に響く。いとあはれに思えて、どこか申し訳なさを感じてしまう。



 △ ▼ △ ▼ △ ▼



 パチン、と指を鳴らした音が聞こえた。ああこれが起きていいタイミングなのだろうか、と察する。


 ゆっくりと目を開ける。眩しく、はなかった。おじさんが目の前に立っている。


「どうです、心境の変化は?」


 何事も無かったかのように尋ねてきたので、困惑してしまう。やはり私が催眠状態に入っていることを信じているようだ。


「スッキリしました、多分」

 取り敢えず何か返しておこうと、拙い感想を伝える。


「へ……。あっ。その、親しくなれているように思えませんか」


 一瞬、とぼけたような間が空き、そしてそれを打ち消すように、おじさんは、実はですね、と話し始める。


「これは或るシミュレーションをしていたんですが。要するに“恋”を作用させようというものでして。人の心理効果に訴えかける実験を催眠術を通して、おこなっていたのです。どうです。私のことが気になってきませんか、ふふ」


「つまり心理操作、をしようと……?」


「完全じゃないですけどね、ハハッ。」とおじさんは付け足したが、それは言い訳にしか聞こえなかった。あまつさえ催眠術とやらが失敗している時点で、自分の無能さを晒しているようにしか思えないが。不覚にも笑いがこみ上げてくる。


「まず最初に入ってきた時に気付いてもらいたいのが、スティンザー効果です。簡単にいうと、人は正面に座ると敵対しやすいことから斜めや横に座って親近感を覚えてもらおうという──」


 そんなんで、印象操作しているつもりだったのか。手のひらの上で踊らされるパペットのように。


「そして暗闇効果。簡単にいうと、暗闇にいると、精神的に安定して男女間で親密になりやすいというもので。まぁそれとは別に、吊り橋効果というものもあって。これは恐怖や不安による心拍上昇の原因が胸キュンによるものだと、錯覚させる、という。よく見かけません? カップルでお化け屋敷やジェットコースターを一緒に体験する、みたいな。それの仲間かな」


 矢継ぎ早に種明かしを始めるおじさん。楽しそうに、不揃いな歯並びを覗かせながら笑いかける。引き攣ったような、その笑い方が不審者感を際立たせているのだが。


「えぇ」


「えぇ、でしょでしょ。あっ、これもミラーリングって言ってですねぇ。相手の動き、仕草を真似することから──」


 いや、私の『えぇ』は胸キュンなんて似合わない言葉を口にするあなたに対しての幻滅だが。


「カリギュラ効果。人の『禁止されると余計にやってみたくなる』という特性を生かしまして…。わつぁしは『目を閉じてください』と2回静かに繰り返しました。いとも自然に。

例えば、鶴の恩返しでも『覗かないでください』なんて言われると、どうもムズムズしません?」


「つまり……、卑しい好奇心に勝てないってことですか?」

 ノンノンノン、とおどけたように首を振りながら私を見つめてこう言った。


「いいですか、『卑しい好奇心』というのは普段怒った姿を見たことのない人を怒らせて、その反応を見てみたい、といった感じの些細なことです──それとは違って、……もっとこう内なる扉を開くといいますかなんというか」


 到底私には理解の及ばない領域に、おじさんは達しているのかもしれない。なんだかやっぱり宗教じみている。


、と私は呆れたくなる。



 △ ▼ △ ▼ △ ▼



 気になったことがあったので、私はおじさんに訊いてみる。


「すみません、質問があるのですが。 さん」


「なんでしょう?」


「私とは別に参加される方がいると、以前聞いていたので、そちらはどうなったのかと思いまして」


 一度の沈黙の後おじさんは、はっと思い出したように顔を上げた。


「ああ! なるほど。そちらの件はあいにく都合が悪かった、というか少し支障があって、わつぁしの方から直前にお断りしてたのですよぉ、ハハッ」と陽気に答えた。


 そろそろ私の腹の底が、煮え立ち始めた。

 パチン、と今度は私が指を鳴らす。


 その瞬間におじさんはよろめき、蹲るようにして床に倒れた。鈍く、強く。マラソンのゴール手前で力尽きた選手のように。重低音とその反響は、床に静かに閉じ込められる。



 △ ▼ △ ▼ △ ▼



 やっとか――と「効き目」が出たことに少し安堵する。


 先程、玄関近くの電話台の側にアロマ用ディフューザーがあることを確認して、カートリッジを挿し替えてセットしておいたのだ。おじさんが案内している隙に。


 ちなみに、ゼラニウムのカートリッジは催眠効果用に特殊に作られており、以前の職場の研究室で調達してきたものだ。まあ重層フィルターつきのマスクをしている私にとっては無害なのだが。時代柄、私が夏でもマスクをしていることには、おじさんは違和感を覚えなかっただろう。


 アサミから断られた時、エセ心理学者の胡散臭い企画によって、『被害者が出ないように』と私は『先約の被験者』として偽ることを計画した。そして、結果として成功した。


もう一人の参加者──断られた私とは別の方は、きっとおじさんがSNSでの募集で知り合った人であり、面識はない筈だと推測していた。あとは予定の日程を先回りしておけばいいだろうと。


 おじさん──アサミとは大学時代の同級会で最後に会ったきり、ここ数年は顔を合わせてなかった。私の顔は忘れていてもいいぐらいだと高をくくってはいたが、念のために変装はしておいた。


 今日に際して、伊達眼鏡にハイヒール。『若さ』を出そうと心がけて、初夏にしては露出の多い服を選んできたつもりだ。

そして薄めの化粧。普段はロングの髪型は、崩して後ろで束ねてみた。


 最後にマスク。人の脳は、マスクを着けて隠された部分を見ると、都合よく美人に見える方へと補正してしまう、という。マスク効果。これはかなりの戦力だろう。


 そんなこんなで私は用心を重ねたが、すべて杞憂に終わった。


 そんな必要もなかったかのように、おじさんは鈍感で、わかりやすい程に単純で、あっけない程に空虚だった。でも私はおじさんの──アサミの、そんな所に惹かれては、遠くへ離れたくなるほどにきらいな時もある。


 空回りで、従順で、盲目的な、情だった。



 △ ▼ △ ▼ △ ▼



 私は、ほんの少し咎めようとしただけだった。もう懲り懲りだ、と鬼を退散させる桃太郎のような存在として。


 用の済んだ私は颯爽と洋館を出る。


 おじさんの体躯は男性としてそれほど大きい訳ではなかったので、部屋の隅にあったベッドまで運んで寝かせておいてあげた。今頃は“催眠”が醒めて、本来の予約のテスターさんがやって来る頃だろう。これに懲りて、胡散臭いセラピーをやめてくれることを祈るばかりだ。



 △ ▼ △ ▼ △ ▼



 『同業者』として言わせてもらうが、他人をコントロールしようとする自己中心的な人間に心理学は向いていないことは明白だ。

 それに、指を鳴らすのは暗示にかける「スイッチ」として用いるものだ。それが本当の使い方だというのに。


 おじさんはサナギみたいに幼くて、愛しくて、甘い。甘すぎる。ショートケーキのクリームの層に突っ込んだ指を舐めている時のように、爪が甘くて、詰めが甘い。


 おじさんに恋は百年早いのだ。けれど、百年の恋もいつかは冷める。冷めたらそれは恋だということ。


 けれど私のこの感情は、恋ではない。

 見返りを求めない情。


 この想いは冷めないだろう、と私は思った。決して。そして、運命に誓って。

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