第33話 “その日”、第一王子は裏切られた

「何だ、これは……」


 アルシアの前には、目を疑いたくなるような光景が広がっていた。

 壊れた街並みに、その道の真ん中を歩く魔物の姿。魔物を取り押さえようとした数名の騎士は、たった一人の魔物によって、一瞬で倒されて宙を舞った。


「ンだよ。王都の騎士って言っても、この程度か。魔法が使えりゃ、足止めにもなンねェな」


 銀色の髪の魔物……ギナンが、呆れたように呟いて。次の瞬間、隣にあった建物の壁を蹴りつけた。

 放たれた蹴りは、建物の壁にヒビを入れて。ギナンが離れた瞬間に建物は崩壊し、瓦礫の山へと変わってしまった。


「なんて事を……」


 アルシアは、ギリと奥歯を噛みしめ、それからギナンの前に出た。


「アルシア・アルセルトが命じる。魔物よ、一切の抵抗を止めて降伏せよ!!!!」


 目の前の立つギナンに。それから、町中に居る魔物に聞こえるようにと、アルシアは大声で叫んだ。

 王族であるアルシアの命令は、何よりも優先される筈で。魔物の動きは、例えそれが、誰かに命令されたものであったとしても、確実に停止する……


「馬ァ鹿。誰が姫さん以外の命令なんて聞くかよ」


 ……筈だった。


 だが、アルシアの前に立つ銀髪の魔物は、「ベ」と舌を出すと、立ち止まることもなくアルシアへと向かってきた。

 その足が、地面を蹴りつける。アルシアがギナンの姿を目で追えたのは、そこまでだった。


「殿下!!」


 気が付いた時には、ラルムの姿がアルシアの前にあった。

 アルシアが気付くことも出来なかった速度で向かって来ていたギナンを、咄嗟にアルシアの前に躍り出たラルムは、鞘から抜く余裕も無かった剣で迎え撃つ。

 ギナンはラルムの防衛にも構わず、蹴りを放って。「ゴッ!!」と、蹴りによって生じたとは思えない程、重い音が響いた。

 衝撃を殺しきれなかったラルムが、アルシアの横へと倒れこむ。


「チッ。後ろの奴も一緒に蹴り殺すつもりだったンだけどなァ。……ま、今は姫さんから、無理をするなって言われてるし、しゃあねェか」


 ギナンはつまらなそうな顔をして、アルシアの隣を通り過ぎる。

 このまま魔物を逃してしまえば、被害が広がるだけと分かっていて。なのに、アルシアの体は動かなかった。


 ギナンの灰色がかった瞳が、すれ違う瞬間にアルシアへと向けられた。

 その視線には、嫌悪や憎悪といった感情が込められているように感じて、アルシアはただただ恐ろしかった。


 直ぐ近くにいる魔物が、アルシアを殺そうとした瞬間に、アルシアの命は簡単に消えてしまう。

 完全な支配下にあった魔物に、殺されるかもしれないなんて考えたこともなくて。

 ギナンの姿がアルシアの前から消えるまで、アルシアは体の震えが止まらなかった。


「……何故、どうして命令が効かない」


 ギナンの姿がなくなって、ようやくアルシアは呟いた。


「殿下、どうしますか。魔物が止まりません。西区では火災も起こっているようです。このままでは、王都は壊滅します」


 倒れこんでいたラルムも立ち上がって、町の様子を見て顔を顰めた。

 言われて辺りを見渡せば、確かに後方の空には黒煙が上がっていて。

 ……ただでさえ、父親の病という事態に揺れていたアルシアの心は、大きく動揺した。


 平素なら、国王へ指示を仰いで対応を確認する。だが、今は国王と話すことが出来ない。


 ―――僕が、僕がどうにかしないと……!


 一瞬揺らいだアルシアの瞳は、強い輝きを取り戻して前を向いた。


「…………一度、王城へ戻る。確認しなければいけない事が出来た」

「承知しました」


 ラルムを連れて、来た道を戻るアルシアの姿を、物陰から見つめる瞳があった。








「直ぐに戻る。部屋の前に居てくれ。誰が来ても中に通すな」

「承知しました」


 王城に戻ったアルシアは、真っ直ぐに国王の執務室へ足を踏み入れた。

 連れてきたラルムを扉の外に置いて、アルシアは一人で部屋の中に入る。


 入り口から、右へ八歩。そこから左へ五歩。

 椅子を退かして。カーペットを捲り、床板の一枚にだけある、小さなくぼみへ指を掛ける。

 「ギ……」と極々小さな音がして、床板がズレていく。

 人一人がギリギリ通る事が出来る隙間の下には、暗闇の中、地下へ続く階段がある。

 執務室の中にあった蝋燭を手に、アルシアはその階段を、躊躇うことなく降りて行った。


 この隠し部屋に、アルシアが入るのは二度目だった。

 一度目は父に、部屋の存在を教えられた時。


『この存在は、歴代の国王と王妃にしか伝えられる事はない。……私がお前を、この場所に連れてきた意味は分かるな?』


 そう言って、父はアルシアに、地下に隠されたものを見せた。

 は、古びた紙だった。

 元は白かったのかもしれないが、古びて茶色のようになっている羊皮紙には、何やら文字が書かれていて。


『魔物の祖先と、王族の祖先が交わした契約書だ。これがある限り、魔物は命令に服従する。もしも城に何かが起こったとしても、この契約書だけは無くしてはいけない』


 少しだけ、指先で触らせてもらった契約書は、思っていたよりも硬かった。


「…………契約書に、何かがあったのだろうか」


 アルシアはかつて触った契約書の感触を思い出しながら、暗い階段を慎重に、けれど早足に降りて行った。

 カツン、カツンと足音が響いて……。


「……なんだ、普通にあるじゃないか」


 ……蝋燭の炎で照らした暗闇の中。階段の終わった先の小部屋に、以前に見た時と何も変わらない契約書が置かれたテーブルがあった。

 安心して呟いたアルシアは、契約書の前で座り込む。


 ―――契約書は無事だった。なら、どうして魔物は命令を聞かなかったのか……。


 暗闇の中で考えていたアルシアは、突如聞こえた「カツン」という音に顔を上げた。

 それは、アルシアが階段を下ってきた時と同じような音で。カツン、カツンと音は響く。


 音の正体は何なのかと、顔を上げたアルシアの瞳に映ったのは、一つの灯だった。

 アルシアが持つ蝋燭と同じように、小さな炎が階段を照らしていた。

 明かりの中には、茶色の髪を持つ、穏やかな笑顔の少女が居て。


「……セル、ディナ?」

「お久しぶりです、シア様」


 アルシアは、この場に居る筈の無い存在、自身の名前を呼ぶセルディナの事を、呆然と見つめることしか出来なかった。

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