都会という名の闇

紫 李鳥

第1話

 


 結香ゆかとの出会いはリュックサックがきっかけだった。派遣会社に登録して、倉庫内の作業をしている晶子あきこのリュックには、ユニフォームや軍手、カッターなどの七つ道具が入っていた。


 それは、埼京線の池袋で降りた時だった。ラッシュアワーも重なって、改札は混雑していた。なかなか進まない改札口で切符を手にしていると、背中のリュックを押された。同時にブツブツ文句を言っている若い女たちの声がしていた。


 ……チッ、ッタク。晶子は後ろを振り向くこともせず舌打ちをすると、それを我慢した。するとまた、押された。と同時に、「邪魔なんだよ」とか、「どけろよ」とか、同じ連中の不平が聞こえてきた。


 もうすぐ改札だ。我慢、我慢。そう思っていると、


「ちょっとオバサン、これ、ウザいんだけど」


 と、リュックを押しながら、晶子の耳元に言った。振り向くと、茶髪に厚化粧の、制服を着た高校生だった。


「ウザいんだったら近寄るんじゃねぇよっ!このクソガキがぁ!」


 晶子は物凄い形相と共にデカい声で怒鳴り返した。途端、周りが失笑した。仲間らしき三人連れは、一瞬言葉を失い、目を丸くしていた。


「……なんだよっ、このババーっ!」


 真後ろのリーダー格らしき少女が声を荒立てた。


「なんだよっ、このクソガキっ!オシメせぇつうのっ!近寄んじゃねぇよっ!このターコっ」


 晶子は吐き捨てると改札を抜けた。



 東武東上線に乗り換えると、隙間を見つけて透かさず腰を下ろした。リュックの肩ベルトに腕を通して腕組みをすると、瞑想めいそうでもするかのように目を閉じた。すると、先刻の不愉快なシーンを思い出して眉をひそめた。その瞬間、


「ババーっ!死ねっ!」


 という声と同時に、左の腕に痛みを感じた。見上げると、喧嘩を売ってきた先刻の高校生だった。晶子は素早く立ち上がると、抱えていたリュックでその少女を押し倒した。キャーッ!という悲鳴と同時に、周りからどよめきが起きた。


 倒れた少女の顔面をリュックで押さえつけると、ナイフを持った右手を左足で踏みつけた。腕を見ると、引き裂かれたジャンパーから血が滲んでいた。


「てめえ、覚悟はできてんだろな?あー?慰謝料はたっぷり貰うからな」


 晶子は少女に馬乗りになると、ジーパンから出したハンカチを傷口に押し当てた。それを見ていた中年の女が、自分のハンカチを重ねてくれた。


「あっ、すいません。ありがとうございます」


 晶子は女に礼を言うと、七つ道具の一つであるタオルをリュックから出すと、腕に巻きつけた。すると、その様子を見ていた先刻の女が、タオルを強く縛ってくれた。


「……ありがとうございます」


 晶子が再度、礼を言うと、女は首を横に振った。ついでに出した汚れた軍手でナイフを掴み、それをもう一方の軍手に包むと、リュックに仕舞った。


 少女の鞄から生徒手帳と携帯電話を取り出すと、名前や住所、電話番号を自分の携帯に登録した。それには、篠田結香とあった。


「あんたがいちゃもんつけた、このリュックで顔を隠してやってんのよ。リュックに感謝しなさい」


 結香は観念したのか、無抵抗だった。次の駅に着くと、結香の腕を掴み、手助けしてくれた女に、


「ありがとうございました」


 と頭を下げて降りた。降りた途端、


「ね、どっちがいい?」


 結香の耳元に囁いた。


「えっ?」


 意味の分からない問いに結香が顔を向けた。


「警察と示談」


「……」


 結香が俯いた。


「警察がいいなら駅事務室に行くし、示談がいいならお茶に行くし。結香ちゃんが決めて」


「……お茶」


「よーし、決まり。その前に、薬局で消毒液とか包帯買ってよ」


「……あ、はい」




 トイレに一緒に入ると、結香に手当てをさせた。


「……ごめんなさい」


 結香が小さな声で謝った。


「大した傷じゃないし、気にしない、気にしない。手加減した?」


 その質問に、結香はゆっくりと頷いた。


「サンキュー。お陰で入院しなくて済んだ。明日も仕事だし」


「えっ!ケガしてんのに仕事行くの?」


「予約入れてるから休めないもん」


「無理よ。やめて、治るまで」


「そんな悠長なこと言ってられないのよ。生活かかってんだから」


「……じゃ、私が代わりに行く」


「そんなのできないよ。めんバレてんだから。点呼であんたが手、挙げたら、『あら、武藤さん、随分若返ったわね。整形でもしたの?』なんて言われちゃうじゃなーい」


「うふっ」


 結香が笑った。


「予約してんのに休んだら、この先、仕事が来なくなる可能性もあるし」


「じゃ、会社に電話して、明日だけ、私が代わりにやってもいいか、問い合わせてみたら?」


「それより、学校はどうすんのよ」


「仮病使う」


「……けど」


「お願い、そうさせて。このケガじゃ無理よ」


「分かった。じゃ、支店に電話してみる」


 晶子は、結香が巻いた包帯の上から切り裂かれたジャンパーを着ると、リュックを背負い、そこを引っ張って肩ベルトで隠した。


 二人がトイレから出ると、順番待ちをしていた女たちが一斉に視線を向けた。


「あーら、レズってたもんで、ごめんあそばせ。おほほほほ」


 晶子はそう言いながら、手を洗った。


「おほほほ」


 結香も同じような笑い方をした。


「どう?よかった?」


 晶子は結香の肩を抱くと、そう訊きながら列の横を通りすぎた。


「うむ……、まあまあ」


 結香も調子を合わせた。


「アッハッハ……」


 二人は腹を抱えて笑った。

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