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◇
翔吾を亡くして七日目。
私は手探りで壁を伝い病室を抜け出し、見知らぬ女性に介助してもらいエレベーターで屋上へ上がった。
見えない目で手摺りだけを頼りに、一歩ずつ前に進む。
開かれた屋上のドア。
ふあっとそよぐ外の空気が頬に触れ、翔吾に『こっちにおいで』と、呼ばれた気がした。
――きっとこの先には澄んだ青空があり、その先には翔吾が両手を広げて待っていてくれる。
私は見えない目で、柵を掴みよじ登ろうとした。
――その時……私の手を優しく包む大きな手に触れた。
『駄目だよ、君が死んでも彼は喜ばない。むしろ哀しむだろう。彼の為にも君は生きるべきだ』
その声の主は、私の担当医師だった。
たまたま屋上で休憩していた医師は、私の様子がおかしいと女性から告げられ、私の傍に歩み寄っていたのだ。
当時二十八歳だった彼はその病院の後継者でもあり、若いながらも優秀な眼科医だった。
『死なせて下さい! お願い! 死なせて!』
『僕の患者を死なせるわけにはいかない。君は彼に生かされたんだよ』
――私が翔吾に……生かされた……?
私は死ぬことも出来ないの……?
ただ……
ただ……
涙が溢れ……頬を伝った。
私は彼の腕の中で崩れ落ちた。
生きる気力を失った私に献身的に尽くしてくれたのは、担当医の
彼は精神的に不安定な私を、日に二〜三度様子を見に病室を訪れた。
『君の目は、角膜移植で見えるようになる』
彼は私をそう励ましてくれたけど、私は移植手術を受けることを頑なに拒んだ。
彼はそんな私を屋上に連れて行き、外の風に触れさせた。
『今日の空は茜色だ。夕焼けが綺麗だよ』
『あの雲、まるで兎みたいな形をしてる。あっちは鳥かな』
私の気持ちが和むようにと、優しく声を掛けてくれた。
それでも、私の気持ちが塞ぎ涙を流す日は、私の傍で黙って私の手を握っていてくれた。
私は翔吾を亡くした絶望から、抜け殻のようになっていた。
一人で生きることが怖くて、誰かに縋っていたかった。
『彼を愛していたのか?』と、問われたら、その時の自分の気持ちは愛とはほど遠いものだっただろう。
彼は、自殺しかねない私を、医師として放っておけず同情を愛情だと勘違いしていたのかもしれない。
そうだとしても、死の淵で私を救ってくれた彼のことが、いつしか心の支えになっていた。
彼は私の運命をも、絶望をも、そして消すことの出来ない私の翔吾への想いをも全て受け入れ、『一緒に生きていこう』と言ってくれた。
しかし彼の両親は、目の見えない私との結婚には猛反対し、彼は中間総合病院を退職し、両親と絶縁して個人病院を開院し、私と結婚してくれた。
結婚後も彼は常に私に角膜移植を受けるように説得した。
娘を出産したあと、希の顔を見たいと思ったけれど、私は光を取り戻す事が怖かった。
光をなくし色のない世界で生きてきた私は、現実世界を見ることが怖かったんだ。
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