サイボーグ化する身体。思考するゾンビ。

阿賀沢 隼尾

サイボーグ化する身体。思考するゾンビ。

 私たちの心と体は密接な関係にある。

 心に何も不調がないと思っていても、無理をしていては体に不調をきたす場合がある。それは心身症と呼ばれるものだ。


 また、自分の体を見つめることで自らの心の不調を調整するフォーカシングや、現代では西洋で仏教の座禅を応用したマインドフルネスというものが流行っているらしい。

 人の心(意識+無意識)は体と密接な関係にあるのだ。


 そうした心身一元論は私たち日本人にとっては馴染み深い考えだろう。


 それらの不調は肉体があるから起こるのではないだろうか。心身症は全身サイボーグになったら無くなるのだろうか。


 それは、体と心の分離を意味するのではないだろうか。


 サイボーグ化した体とそれ以前の体の感覚は全く同じなのだろうか(違っていても直ぐに適応するだろうが)。


 そこにどのような利点欠点があるのかは不明だが、新たな心の問題が現れるのではないかと私は危惧している。


 例えば、体の一部が破損していたとして、それにいつ気付くだろうか。私達は『痛み』があるから自分の体の負傷に気付く事が多い。しかし、サイボーグの体になれば、そのような感覚に鈍感になるのではないだろうか。


 痛みが分かりにくくなるということは、それだけ、人に対して共感もし辛くなる。私たちの肉体を通じて感覚は脳に伝わる。これは本を読んだ知識なのだが、リストカットをする人達は、リストカットをした際、「生きている感じがする」らしい。生と死の境界線。その危うい状況と鮮血が彼ら彼女らの一種の『生きがい』たらしめているのであろう。


 この問題を解決する手段としては、脳と繋がっている神経系を繋げたままサイボーグ化するというのが想像できるが、とても現実的とは言えないだろう。神経系を残したまま機械化するってどうするねん(人工的に作った神経系とサイボーグの部品を体に付けることは可能になるのかもしれないが)。


 また、サイボーグになった体は以前の体の質感とは異なるわけで、その質感が異なればもちろん本人が受け取る感覚も異なってくる。


 そうなれば、人の自我も多少変化していくだろう。


 さらに言えば、サイボーグを本人の体に合わせて調整するのいうのも費用がかかり過ぎるので、成長が止まってから。つまり、サイボーグ化するなら18、20歳くらいからが現実的なのではないだろうか。


 仮に18歳未満でサイボーグ化が行われる時代になったとしたら、それはそれで問題かもしれない。なぜなら、12歳~20歳までは体と心の成長にとても重要な時期だからだ。第二次性徴期然り、反抗期然り。彼らは心と体に向き合い、大人になるための準備をして行かなくてはならない。そんな時期に体の成長が実感出来ないとすれば、心にどのような不調を来す恐れがあるか分からない。体の成長を自らの肉体で感じるということ自体が重要なように私は思える。


 確かに、背の低い青年が背の高いずんずん成長する青年を見て劣等感を感じてしまうことだろう。しかし、その事実を受け止めることが大切なのではないだろうか。色んな人の体の中で、「自分の体」を受け止め、許すことが出来なければ、様々なコンプレックスに苛まれることになるだろう。体というのは、自我形成に必要な一つの構成要素なのだろう。


 20歳以上にした場合も一つ問題がある。

 それは、お酒やタバコを利用する時期と同時期になるということだ。


 そうなると、サイボーグ化が多数派となった世界で、サイボーグ化するという行為は『大人になるということ』の一つの指針となるかもしれない。そうなると、人より先にサイボーグ化して改造し、『大人の気分を味わう』いわば、『サイボーグ暴走族』のような輩も出てくる可能性はゼロではないだろう。


 だからといって、ここで「サイボーグ化して体の成長を感じにくくなった。それは心の成長を止めることにもなる」と結論づけるのは安直である。


 サイボーグ化による肉体と精神の分離。人は精神と肉体相互作用によって成り立っている。


 感覚や思考は私たちの肉体を通じている。

 五感というものがそうだろう。それらは私達の思考を形成する通過路となっている。


 特に触覚である。

 私達がスマホを弄ったり、寝る時に布団を座ったりする時の感覚はその人でしか分からない。


 視覚もそうだ。

 眼球を通じて見たものは本人でしか分からない。Aさんの言う『赤』とBさんの言う『赤』は違うかもしれない。が、それを確かめる術は何処にあるだろうか(こういうのをクオリアとか言うらしい……。詳しくは知らない)。


 脳は変わらないから、サイボーグになっても変わらないと言う人もいるかもしれないが、そもそも、サイボーグと生身の時の感覚が全く同じと言いきれるだろうか。


 どれだけ性質を人間に似せようとも、本人の肉体は本人のものでしかなく、本人でしかその感覚は味わうことは出来ないのではないだろうか。


 それをサイボーグ。つまり、汎用化するということは、人の肉体を通じた感覚を似通ったものにするということだ。それを受容する脳は異なるので、その感覚も異なるだろうと言うかもしれないが、サイボーグになった時点でその人は前の人間とは異なる。


 そのような汎用化し、一律した感覚の中、人々の生活スタイルは変わらずとも、その内面、自我は大きく変化することだろう。


 言い方を変えれば、我々は死に近づいている。死人に近づいているとも言えるかもしれない。


 言ってみれば、思考するゾンビである。


 なるほど、確かにサイボーグ化すれば寿命や病気に悩まないで生きていられるのかもしれない。


 だが、それはあくまで身体的な面での話である。

 サイボーグ化した際の人間の自我は、サイボーグ化する前の自我と同じなのだろうか。違うのだろうか。


 恐らく、自我そのものは同一だが、肉体の時とサイボーグ化した後の自我の形成過程(発達過程)は異なるだろう。

 具体的にどのように異なるのかを詳しく言及することは今の私には出来ない(申し訳ない)。


 だが、私たちの生きる感覚は私たちでしか分からない。前述したように、人の感覚は全く同じでは無いはずだ。脳や人格が一人一人異なるように、皮膚などの感覚受容器も一人一人異なっているはずである。


 それをサイボーグのように汎用化をすれば、人の受動する感覚も全く同じになるのだろうか。もしくは、脳内処理される際に個人差が生まれるのだろうか。


 例えば、視覚で言えば、光(正しくは波長か)を受けた受動器官は、視神経、視交叉を通り、脳内に電気信号として送られる。次に、後頭葉の一次視覚野(V1)に送られ、二次視覚野(V2)へと続き、側頭葉と頭頂葉の二つのルートに分岐する。そう。ノベルゲーやギャルゲーみたいに。前者のルートは腹側視覚経路。後者は後側視覚経路と呼ばれている。


 前者の腹側視覚経路は、what経路と呼ばれ、視覚に映る形状を認識する。

 一方で、後者の後側視覚経路はwhere経路、あるいはhow経路と呼ばれ、物体の位置や物に手を伸ばすなどの役割を持つ。


 それらの脳神経や脳細胞の配列が全ての人が全く同じとは考えにくいし、多少の認識の誤差はあるはずである。


 とすれば、サイボーグのように感覚受動器官を汎用化し、仮に全く同一の物理情報処理が可能になったとしても、そもそも脳内処理が人によって異なるので


 しかし、サイボーグ化することによる人々の自我の変化が起こる可能性が無いとは決して言い切れない。

 そうすれば、新たな心理発達の研究がなされるだろう。


 私がゾンビ化する身体と述べたのは、サイボーグ化により、身体と精神の分離が起こるのではと危惧しているからである。


 前述したリストカットはサイボーグの精神と肉体の分離について考える上で重要なことを示唆してくれているのではないかと私は思う。


 腕を切ることによる「痛み」を彼等は感じないらしい。それよりも傷口から流れる「生きている」という一種の快感を感じるという。普通であれば、刃物で皮膚を傷つけると痛みを感じる。それは、肉体と精神が繋がっているからであろう。それを感じないということは、分離、または脳が麻痺しているということではないだろうか。


 そう言えば、戦争に出たアメリカ兵(ベトナム戦争か第二次大戦のどちらかの話だったように思えるが)がアメリカに帰ったときに腕が無いことに気が付いたと。

 これは戦闘という極度の緊張状態、興奮状態にあるからこその話だろう。

 戦闘中にいちいち死体に恐怖したり、腕に気を取られていては自分の命に関わってしまうので、そのような現象が起こるのであろう。


 以上のような身体と精神の分離は、極度の精神状態に脅かされている状態で生じている。が、サイボーグの場合は肉体と精神の感覚は隔絶されている。特に、痛みに関してはほとんど感じないのではないだろうか。


 ストレスや痛みと言うのは、自分の体調に赤信号や黄信号を知らせてくれる。サイボーグ化をすると、それが無いのだ。なので、精神が疲労してようとも、体は疲れを感じないので、限界を超えて破壊されて初めて気付くことになる。つまり、事が起こってから気付くということになる。


 それがサイボーグ化の最大の欠点なのではないだろうか。

 私が思考するゾンビと言うのもそれが所以である。


 ゾンビは自分の体の限界を知らない。

 肉体の限度を知らずに、自分の体が壊れてしまうまで動く。それは痛みを知らぬからだ。痛みはある意味では生命の命を守っているのだ。


 機械化が進む世界で、攻殻機動隊のような世界が待っていると思うと、筆者もとてもわくわくするが、以上に挙げたような限界と欠点があるように私は思えるのだ。


 最後になったが、これはあくまで筆者の個人的な意見である。読者の方々も本稿を読んで様々な考えや感情が芽生えているであろう。私の意見を肯定してくれるのも嬉しいが、批判するならしても良い。いや、寧ろそうであって欲しいと筆者は願う。なぜなら、批判することで議論と言う場が生まれ、学問や人の考えというものは発達するからだ。


 私とは異なる視点でこの『機械化する身体。思考するゾンビ』というテーマを考えてくれたなら、だれかと議論を交わしてくれたなら筆者冥利に尽きるというものだ。


 何か私の小論文に意見感想等々ある方は本小説投稿サイトでもツイッターでも構わないので、ご連絡を頂けたらとても嬉しい(誹謗中傷は固くお断りするが)


 一応、これがツイッターの私の創作アカウントを載せておきます(アカウント名が性癖ばりばりなのはゆるちて)

 @yuriloveaga














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