アンチ・純愛至上主義

阿賀沢 隼尾

アンチ・純愛至上主義

 今回、私が考えたいのは純愛というものである。

 果たして、純愛とは何だろうか。


「セカイ系」でよくある「世界かヒロインか」。で、彼女を選ぶみたいな。そういうプラトニック・ラブでその人を好きでい続ける。というのが一般的な純愛なのだろう。

 浮気はもちろんいけない。まぁ、線引きは人によって個人差があるだろうが。


 肉体行為を伴わない完璧なプラトニック・ラブな関係。そして、その人のことを一生想い続ける。そのような恋や愛の形は、「世界の中心で愛を叫ぶ」や、「三角の距離は限りないゼロ」、「僕は明日、昨日の君に会いに行く」やらその他多くの青春恋愛小説で語られている。


 だが、本当にそうだろうか。

 肉体的関係を求める恋愛というのは「穢れ」のように我々は感じてしまう。


 その一方で、「性行為は子供を産むための、生命を誕生させるための神聖な行為」なのだと言う人もいる。


 これはつまり、性行為を性欲という一時的かつ本能的な欲求に頼って行っているからダメなのである。果たして、『子孫』という目的があれば性行為は神聖化させるのか。いや、させて良いのだろうか。


 では、その『子孫』を産むためならば何人とでもセックスをして良いのだろうか。資産が許す限り愛人を作っても良いのだろうか。


 この『子孫』は自分の遺伝子を残すことなわけで、肉体関係を築いている女性の遺伝子も残せて生物的にはwin-winな関係なのかもしれない。その後も、複数の異性とそれぞれの子供を育てていけば良いわけで。


 が、これは男女の関係性というものを考慮していない。男性女性どちらでも良いが、複数の異性と関係を持つ場合、他の女性と性行為をしていることを他の女性に知られてしまったら、中には嫉妬する女性もいるだろう。


 日本で「浮気ダメ絶対」と言うような風潮があるのは、浮気をすれば嫉妬する女性が出てきて人間関係が拗れてしまうからだろう。では、なぜ嫉妬する女性が出てくるのか……。


 要因は様々あるだろうが、その一つに「私のことを一番に愛して欲しい」というのがあるように思う。一人に全ての愛を捧げる。


 しかし、一人の女性を愛さなければならない道理などどこにあるだろうか。

 平等の愛もあって然るべきなのではないだろうか。


 平等に何人もの愛を捧げる。この平等に愛を捧げるというのは非常に難しい。


 人は欲深い生き物である。


 堂々巡りになってしまうが、何人もの女性と関係性を持っていると、「私が一番に……」と言う女性が出てくるだろう。全ての女性が「今のあなたが好きだから」、「他の女性とHをしても、私の事を愛してくれているのは充分分かっているから」と寛容ならば話は別なのだが……。これは肉体関係のみではなく、プラトニックな関係にも言えることだ(もちろん、文化差もあるだろう。一夫多妻制が当たり前のような社会ならば、嫉妬は起こらないのかもしれないが……)。


 物を全て平等に分け与えても、先述したように「私が一番でなければ……」という女性がいる限り無理である。まぁ、他の女性との関係を知られなければ問題は無いわけなのだが。


「私は貴方がいてくれるだけでいいよ。一番じゃなくても……」という考えの女性ならそのような争いは起こらないであろう。


 浮気が不潔だとか、不純と言う場合には以上に述べたような「一人の人だけを愛さなければいけない」という信念、又は道徳観念があるからだと私は思う。


 しかし、一人の人間だけを愛するというのは少々非効率的ではないか。何故なら、一人の人を好きになり、その人に振られたら精神的にキツイではないか。それなら、複数人を好きになって告白して付き合った方が、一人に振られたとしても、他の人がいるから精神的には前者に比べると軽いでだろう。


 もちろん、一人の人間に時間を費やした方がお互いの愛は深まるのかもしれないが。


 それぞれの人間に肉体関係を持ち、全員の女性に恋愛感情を抱いていたとしたら、それは果たして純愛と言えるだろうか。

 全員のことを同じくらい想っているとしたら、それは『純愛』と言えないだろうか。


 少し脱線はするが、ハーレム主人公も上に挙げたのと同じような状況ではあるが、あれは女性側から寄ってきているから(それも、いつ好きになったのかとかあまり無く……。一人くらいなら良いがヒロイン全員がそうだとあまりに不自然だし、何らかのきっかけとかあればユーザーも共感を持てて更に萌えると思うのだが……)今回とは少し異なるが、異性に囲まれているという点では似ている。


 話を戻して、今度は少し異なる視点から見てみようと思う。

 今度は、先生や生徒、家庭教師や生徒などの立場上の問題から「純愛」というものを考えてみようと思う。


 時々、ニュースなどでも問題となったり、創作物で描かれる「生徒と先生」の恋愛。創作上では『禁断の愛』の形の一つとして良く描かれている。


 よくよく考えれば、これは果たして禁断の愛なのだろうか。


 この『禁断の愛』というのは『社会的・道徳通念的』に考えれば『禁断』というだけの事ではないだろうか。

 二人が本気ならそれでいいのではと個人的には思ったりもする。


 ※下のカッコは別に読まなくてよし。

(百合や薔薇も禁断の愛の扱いをしばしば受けたりするが、それはあくまで『少数派』なのであって、別に『禁断』な訳では無いと私は考えている。社会が彼等彼女等を受け入れる。つまり、色んな『性』のあり方があるということを社会が認識し、受容することが重要なのではないかと思っている。『男』と『女』だけが性では無いし、『男女の恋愛』だけが正しい恋愛の形では無い。様々な恋愛の形、性の形がある。それを人々が受け入れることが重要なのである。ていうか、道徳や保険の授業ですべきなのはそういう所ではないのか。多様性を認め、受容することが平和への一歩なのではないのか。理解することが出来なくとも、苦しんでいる人の気持ちを受け止めることは出来るはずである。もちろん、それが支援者の思い込みから始まる『エセ支援』になることは避けなくてはならないが……。『道徳』なんてものそめそも、我々の作った勝手な通念に過ぎないわけで。それを疑い、自分の頭で一人一人が考え、一歩先に進む事が大切なのではないのか。おおっと、めちゃくちゃ話が逸れてしまった)


 職業柄、勤務中・仕事中に知り合った相手と恋愛をしたら権利剥奪や罰金などの罰が生じるというのは勿論ある。

 そういう場合は仕事に支障が出て仕事に関係ある人たちに迷惑が及ぶので禁止されていたりする。


 しかし、それ以外なら『禁断の愛・恋愛』というのは二人の愛を燃え上がらせる。二人の間に障害があれば、二人の愛は一層情熱的になる。これを恋愛心理学では「ロミオとジュリエット効果」と言う。


 それは、血縁的なものだったり、遠距離だったり、社会的に格差があったり。

 そんな情熱的な愛が。そのような格差に負けない二人の愛が人々を惹きつける。だからこそ、「ロミオとジュリエット」や、「ロリータ」のような作品は人々の心を掴むのだろう。


 今までは人を対象に扱ってきたが、今度は『物』を対象にしてみよう。

 特に、フェチズムと呼ばれるものを扱っていこうと思う。


 一言にフェチズムーーーー異常性癖ーーーーと呼ばれるものはそれこそ無限にある。

 足や指に興奮したり、マゾヒスト、サディスト、ロリータコンプレックス(ペドフィリア)等々。快楽殺人というのもその一種に入るであろう。他にも2チャンネルで人の液体に興奮する友人というのもあった(あまり興味本位で詮索するのは勧めない)。


 では、普通の性癖と異常な性癖とはどのような違いがあるのか。

 これらに明確な境界線は存在せず、社会的・文化的に受け入れらるか否かにあるのではないだろうか。


 また、行動を起こさなかったら、つまり脳内での妄想のみなら幾らでも想像してもいいとも思う。問題なのは、それが現実で人に害を及ぼしたり、社会生活に支障をきたす場合である。

 ペドフィリアの人だって、好きでロリコンになったわけではないのかもしれない(こればかりは私の勉強不足なので色々言うことは出来ないが)。


 誰だって好みはあるものだし、他の人がそれをとやかく言うのは違うのではないか。それに、彼ら彼女らの『異常性癖』を強制的に『普通の性癖』に修正しようとするのは間違っているように私は思える。重要なのは、その『異常性癖』を持ちながら通常の社会生活を行うことである。人に危害を加えないように、彼らが彼女ら自身の『異常性癖』と向き合い、折り合いをつけていくことが重要なのではあるまいか(具体的な方法は知らないので後日調べます。申し訳ない)。


 ここで『異常性癖』という用語を使用してしまったが、私は決して彼等を否定、批判しているわけではない。彼等を『異常』と思ってしまうのは私たちの『常識』から見て『異常』ということなので、前述したように文化・社会集団が異なればその基準も違ってくる。なので、あまり積極的に使いたくないのだが、他に言葉が思い浮かばなかったので……。申し訳ないです。


 愛する対象は『人』であるとは限らない。

 恋愛対象が人間であるとは限らないのである。それが人形だったり、二次元の女の子だったり。それが世間の言う『恋・恋愛』と全く同じ感情なのかは分からないが……。


 それでも、恋愛対象になることはあると思う。


 一緒にお風呂に入ったり、撫で回したり。その人の幸せはその人本人でしか分からない。だから、人の幸せを他人がどうこう言うことは出来ないと私は思う。


 彼らの性癖を『歪』だと言うのは、私たちの文化、感覚からかけ離れているためである。歪だからと言って批判、中傷するのは、自らの世界に立てこもるだけだ。


『理解』は難しいかもしれないが、『受容』することは出来るはずである。『批判』しようとするのなら、批判するなりの社会規範や道徳規範が自分を邪魔しているのだろう。

 相手を『受容』したいと考える場合、その邪魔をしている思想とは何かを考える必要がある。それは自分を知ること、また、相手を知ることへの第一歩になるのではないだろうか。


 さて、純愛とは何かをもう一度考えてみよう。

 それは、一つの執念であり、重い想いであり、依存的な愛情でもある。


 たとえ、それがどんな形であれ、何かを大切にしようと思うのなら、それは純愛なのではないだろうか。


 誰かを大切にするというのも、利益を追求するのも、誰かを傷つけたいというのも。それは一種の正義とも言えるのかもしれない。


 人は常識で物事を語ろうとしている時点で考えることを止めているのだ。常識とは、自分、または所属集団内の固定化された思想、知識と言える。常識に囚われず、自分の頭で疑い続け考え続けること。それが他人や他文化を許容する第一歩になるのではないだろうか。我思う我を疑うことが常識という壁を突破する力となるであろう。

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