⑤
「俺、休学することにしたんだ」
デリケートな話をするので他の人に聞かれたくなくて二人でカラオケボックスに入った。大城が真っすぐに崇を見つめて言う。やっぱり噂は本当だった。胃が浮いて気持ち悪い。悪い予感がするときはいつもお腹周りがこうだ。母親が亡くなった時も、死亡宣告される直前までこんな感じだったのを思い出す。これ以上嫌な事は教えないで欲しい、そう思うのに大城は続けた。
「復学は一年以内って言われてるけど、分からない」
「どうして?」
「実はこういう名刺もらってて」
そう言いながら渡されたのは一般人でも知っている大手芸能プロダクションのスカウトマンの名刺だった。信憑性を高めるためか代表者の名刺も併せて渡されたともう一枚の名刺も見せてくれた。テレビを見ているなら誰もが知っている有名な社長の名前だ。
「モデルにならないかって言われてる」
「……」
全部が急で吞み込めない。恋人が先輩を殴って停学して休んでる間にスカウトされて、休学してモデルになってしまうのか。大城が一気に手の届かない所へ行ってしまうようで気分が悪い。
「ど、どうするの」
「今の俺は何の力もない」
「それは、大学生だし当たり前」
「でも、影響力のある人間になれば世界を変えれるかもしれないんだ」
「どうして急にそんな話に……」
何がどうなって世界を変える話になったのか崇はついていけない。後ろから抱きしめてずっと一緒に居ようと甘く囁いてくれた夜はそんなに遠い過去じゃない。どうやったらこんな事になるのだろう。自分たちが寮でいちゃついていなければ、先輩があそこに居なければ大城はいつまでも傍に居てくれたのだろうか。思考を巡らせるがショックすぎて頭が上手く働かない。
「モデルになって、世界を変える、の?」
「世界を変えられるかどうかは分からないけど、影響力を持ちたいんだ。法律を変えるための政治家も考えたけど、政治家は知名度がないならコネが必要らしくて難しい。手っ取り早く影響力を持つには知名度のある芸能人かモデルがいい」
ダメだ頭に入って来ない。本当は政治家になりたいのか。恋人はどこへ行こうとしているのだ。訳が分からないが、唯一大城がもう自分の隣にはいられないと言いに来たことは分かった。
「別れよう」
「……」
「モデルになるために海外で研修受けたり、もしかしたらあっちに暫く住む事になるかもしれないって。そうなったら遠距離恋愛になるし、いつ帰ってくるか分からない恋人のために波田野の人生を棒に振るわけにはいかない。準備整い次第すぐにデビューできるって話だから」
「待って、だまされてない?」
「社長に直接会ってきたからマジだと思う。ネットで調べた顔の人だったから本人」
「そりゃ大城恰好いいけど、そんな簡単にモデルや芸能人になれるの? 大丈夫?」
話が旨すぎて本当に心配だ。だが大城は本気のようだった。
「俺の事応援してほしい」
「そりゃ応援したいけど、話が急すぎて」
別れ際まで強引だと苦しい。まだ好きなのに一方的な気がする。けれど彼の未来を邪魔する事も違う気がする。苦しんでいる状況を甘んじて受け入れるのではなくそれを変えようと思い、思うだけでなくそれを実行しようとする人なんてめったにいない。いたかもしれないけど、それでも世界はすぐには変わってくれない。誰かがもっと訴えないと。だけど、よりによってどうして自分の恋人が。
「大城……俺……」
「波田野、俺、波田野の事すごく好きだった。いつも気遣ってくれて俺のわがまま聞いてくれて。強引なこともいいよって笑って許してくれて。お母さんがいない分、弟の面倒も見て家業もいっぱい手伝って、すごくいい奴だってこと知ってるから尚更愛しかった。でもやりたい事があるんだ。波田野を巻きこめない」
大城が違う世界にポンと異世界転生してしまったみたいに見えない壁ができた気がした。好きだったと過去形にされている事でもうこれ以上引き留められないのだと知る。思うところがいっぱいあるのに、それを話すことは大城にただ罪悪感を植えるための行為に思えた。ここで頷くことが彼のためなのだろうと崇はいつもの聞き分けのいい、わがままを受け止める優しい恋人を演じる事にした。
「わかった……」
「波田野、ありがとう」
大城は一度だけ崇をぎゅっと抱きしめ、崇は一人カラオケボックスに残った。
音の漏れない部屋で崇はのどがガラガラになるまで泣いた。
*
大城のいない寮生活はまるで空っぽの映画館に置き去りにされたような孤独感を連れてきた。大城の話はあちこちに拡散されていて皆自分の事を色眼鏡で見ている様な被害妄想に悩まされる日々。実家に帰っている間に悪い噂が独り歩きして孤独な状況が更に悪化するのが怖くて冬休みも春休みも帰れないと父親に謝った。
夏になる前に大城のモデルデビューの噂が流れ、テレビのニュースでモデルの卵として取り上げられるのを見ると崇の周囲には急に人が集まりだした。有名になっていくかもしれないモデルの元恋人と仲良くなっておきたい、そんな下心が見え隠れしたあからさまな変化だった。
大城が暴力沙汰で停学になった時は後ろ指を指していたのに、大城がモデルになるかもしれないというニュースが広まれば手のひらを返す。空しくなった崇は懇意にする友人を作る事なく過ごした。大学を出て生花店をオープンするのがここへ来た最大の目的で、仲良しごっこをするために大学へ入ったわけではない。大城がいなくなったのは悲しいけれど、彼はやりたい事のために前へ進んでいる。もし自分が進めずにずっと大城の背中ばかりを追いかけて夢をあきらめるような事をすれば、大城の事を恨んでしまうかもしれない。そうすれば大切だった思い出も恨みやつらみで歪んでしまうだろう。綺麗な思い出のままにしておきたい。いつか大城に逢った時に自分も夢を叶えたんだと胸を張って逢える人間でいたい。前に進まなければ。
SNSで時折大城の近況を確認し頑張っている姿を知るだけで崇は勇気をもらった。夏休みはちゃんと実家に帰ろう。自分のために作ってくれた生花用のビニールハウスも放ったらかしでいい加減だった。ちゃんと世話をして自分の道へ続く布石を自分の手で積み重ねて行かなければ。義務感にも似た感覚であっても今は前に進むことが大事だと思った。決めてしまうと案外心は軽い。崇はまだ大学生だ。初めての恋で初めての失恋。全部大城でよかったと思う。
大城からもらった白シャツはしまっておくことにした。プレゼントにもらったスカーフも入れ、彼が使っていた香水を振りかけて香りと一緒に段ボールに閉じ込めた。
『このスカーフさ、女物だけど波田野に似合うと思って買ってきた』
『可愛すぎ。似合わんよ』
『似合うよー。これからもコレクション増やしてあげる』
『何コレクション?』
『オオシロコレクション。略してオオコレ』
『なんか驚いとるみたいじゃ。この柄は趣味が違うし』
『ショック』
『俺は白シャツが好き』
『うん。知ってる』
『真っ白けになるけど』
『結局白か。それもいいかも。ピュアな波田野を象徴しているみたいで俺も好き』
―――俺も大好きだった。大城が大好きだったよ。
段ボールは実家へ送り返した。
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