穂高は自分の目を疑った。さっきまでそこにいたのは木の棒に布の顔がついた案山子だった。


 代わりに現れたは白いシャツに青いジーンズを履いて案山子と全く同じく髪型をしている。木の案山子が人間になったように見えて穂高は青褪めた。


 こんな事があるわけない。きっと何かのいたずらだと思っている間にも案山子は動き出してこちらへ向かっていた。すぐさま来た道を帰ろうとしたが足が恐怖で固まって動かない。県道まで歩けば心細いながら外灯はあるが、穂高がいる山側の畦道はそれこそ真っ暗で月明かり以外光がない。シカやイノシシが出るから気を付けなさいと言われたことはあったが、案山子のお化けが出るとは聞いてなかった。暗闇にこのまま引きずり込まれるのだろうか。恐ろしい妄想が走り、穂高はしゃがんで吸入器を取り出した。恐怖で気管が窄まり呼吸が苦しい。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 稲を叩いたりしたから土の神様が怒ったのかもしれない。案山子は土の神様の依代だと聞いたことがある。そんな話信じてなかったけど、案山子がこっちに向かっているのは事実だ。


 ホラー映画は好きじゃない。週末の夜に放映されているとチャンネルをすぐに変えるほど穂高はお化けの類が苦手だ。動けない穂高に案山子はわさわさと稲をかきわけてどんどん近づく。


 ついに畦道に出た案山子は草を踏んで迫っている。穂高は頭を抱えて震えた。


 傍で音が止まり、恐る恐る片目を開けて足元を見た。案山子は靴を履いていた。ブーメランの模様が書いてあるブランドの靴だ。泥で汚れているけど、もともと白だったことが見て取れる。


 足があるのならお化けじゃないし、神様でもない。人間だ。穂高は意を決して両目を開けゆっくりとを見上げた。


 やわらかそうな長髪を後ろで束ねた、体格のいい二十代前半くらいの男に見えた。


「ここでなにしとる」

「えっ……」


 案山子は穂高に話しかけた。普通に人間の声だ。それでも得体が知れなくて怖い。


「あの、僕は、あの……」

「あそこの家の子?」


 言葉が出てこない穂高に案山子は遠目に見える穂高の祖父母の家を指差した。


「はい、はい」

 

 こくこくと頷いた穂高は座り込んだまま頷いた。


 見上げた男の背は優に百八十センチは超えていそうだ。傍に立たれると威圧感がすごい。


「こんなとこで何しとう?」


「さ、散歩を……」 


「ここを?」


「は、はい」


 男はぐるっと辺りを見回した。


「ここら辺、夜になったら獣が出てくる。イノシシもたまに出るから、気ぃ付けんと襲われるよ。イノシシは見つけたら突進してきよるからね。突き飛ばされるだけで骨折ったり、最悪転んだりしたら内臓えぐられるけぇ」


「そ、そうなんですか」


 内臓を抉られる。不穏なワードに別の恐怖心が生まれた。まだしゃがんだままの穂高を見て男が訊く。


「どうした、立てん?」 


「は、はい……」


「足、ぐねった?」


「……いえ、ちょっとびっくりして」


「俺に?」


「はい」


「まぁ田んぼの真ん中からいきなり出てきたからなぁ」


「はい……」


 はははと軽く笑った男は穂高の脇にそっと手を添えると羽毛布団でも持ち上げるように軽々と穂高を立たせた。ふわりと体が宙に浮いて穂高は身を竦めた。


「……ぅぁ……」


「ごめんごめん、腰抜けとるんかと思って」


「い、いえ……」


 男はじっと穂高の顔を見ている。穂高は動けなかった。まだ怖い。このまま攫われるとかあり得るかもしれない。

 

「軽いな、ちゃんと食べとる?」


「……」


「ごめん、傷ついた?」


「いえ……別に」


 風が音を鳴らして吹き、怖さも相まって寒く感じる。穂高は震える自分の腕を掴んだ。


「冷えるか」


 男の言葉は馴れ馴れしかったが思えばこの土地の方言が混じっている。人に違いない。


「ちょっと待って、これ」


 男はどこからかスカーフを取り出して穂高に渡した。この時期に不似合いな女性が持っていそうなタータンチェックの柄だった。


「風吹いたら寒いろう、巻いとき」


「いいです、いいです」


 受け取ったら何か別の事が起こるかもしれない。怖くて受け取れない。


「遠慮せんと」


「いや、本当に」


「子供が遠慮しない」


「それほど子供じゃありません」


「大人でもないろう」


「そう、ですけど……」


「案外強情っぱり」


 男は目を細めて微笑んだ。言われた通り頑固な性格の穂高だが今意固地を貫き通すほど怖いもの知らずではない。


「こんな暗い所に一人でいるけぇ、心配した」


 男はそう言って勝手に穂高の肩にスカーフを掛けた。そのスカーフを触ってみる。普通のシルクのスカーフのようだった。どうしてこうなっているのかよく分からない。彼は人間だろうか。人間にしても夜に田んぼの中に入っているのはなぜだ。別の意味で怖い。穂高は少し勇気を出して訊いてみた。心配していると言われたのだから危害を加えるつもりはなさそうだ。


「あなたこそ、あそこで何を?」


「俺? 俺の事は別にええじゃ」


「僕の事を訊いたのに?」


「名前は?」


 男は強引に会話を切り替え、束ねそこねている前髪をかきわけた。風が吹いて香りが流れてくる。今いる場所に不似合いな甘い匂いがした。案山子が香水なんてつけるわけがない。いよいよお化けじゃない事を確信して穂高は安堵する。


「穂高って言います。稲穂の穂に、高い低いの高い」


「ほー、ええ名前。ようけ米採れそうじゃ」


 ふふふと揶揄い半分にそう言った男はまた目を細めて笑った。穂高も愛想笑いを返した。悪い人じゃなさそうだ。


「散歩して何考えとったが」


 男はついてこいとは言わないが畦道を県道に向かってゆっくり歩きだした。質問しながら男が歩くので答えながら男に続く。このまま案山子だか人間だか分からないものが出た場所に留まる気はない。


「学校の事とか」


「嫌なことがあるんか」


「嫌というか。人と上手く付き合えないというか」


「そうか」


 なぜ知らない人に質問をされて答えてしまうのか穂高にもよくわからなかった。そうかと言ったまま男が喋らないので今度は穂高が訊いた。


「あの、僕の事を知ってるんですか? 何をしてたんですか」


「気になるか」


 ポケットに手を突っ込んだまま歩いていた男は止まって振り返った。穂高と目が合ったのを確認すると男はまた前を向いて歩きだす。


「田んぼの見張り」


 それは案山子として? でもあの香りはどこかで嗅いだことがあるし、靴も履いているのだから、人間に違いない。


「見張りをしてて僕に気づいたんですか」


「ほうよ。あんなところ一人で歩いとったら誰でも心配するが。悩んどんなら話聞いちゃるから出ておいで。夜しか無理やけんど」


「あそこは危ないんじゃないですか?」


「俺がおったら大丈夫」


 大きな背中だった。言葉尻からなんとなくいい人なのだと感じる。外灯が道を挟んだ奥にあり、男の顔が畦道の時よりはっきり見えた。村の人間ならどこかで見たことがあるはずだと思っていたが、一度も見たことがない顔だった。目尻にほくろがあり、体つきは逞しいのに柔和な雰囲気。田んぼの中から出てきたのに田舎の人らしくない所作。


 男は穂高に道を譲り、県道へと上がらせた。知らない顔なのだが、どこか親近感が湧く。不思議ともっと話してみたいと思ったが男は田んぼの方へと踵を返していた。


「あの! どこ行くんですか?」


 男は振り返らずに手を振って応えた。


「仕事ー。おやすみー」


 穂高は少しの間男の背中を見ていたがすぐに暗闇に消えて見えなくなった。これからあそこへ戻って何をするのだろう。まさか案山子に戻るなんてないよな。そう思った途端怖くなりまた吸入器をポケットから出して吸い込んだ。


 きつねに摘ままれた、というのはさっきみたいなことを言うんじゃないだろうか。穂高は呼吸を整えた後、肩に羽織ったスカーフを見て思った。




 次の日、穂高は少し早起きして田んぼの脇を通って学校へ向かった。景色が物珍しくて新鮮で、引っ越ししたての頃はわざわざ畦道を歩いて通学していた。慣れるとやはり普通の道の方が歩きやすく、県道を歩くようになっていたが、今日は畦道を歩きたい気分だった。


 昨日不思議な男と出会った場所を眺めるとあの案山子が再び立っていた。白いシャツにジーンズ。そして白いスニーカーが見える。


「やっぱりお化けかな……」


 足早に学校へ向かった。


————


「泉川ぁ、おはよ。今月号もう買った?」


「おはよ。ごめん、まだ」


 漫画の貸し借りをしている波田野が訊いた。波田野と穂高は毎月交代で月刊の漫画を買いあって回し読みしている。そのため家には一か月飛びの号しかないが、場所をとるものだしお金も半分で済むので助かっていた。


 波田野は母親を病気で早くに亡くしており家の仕事を沢山手伝わないといけないらしく、放課後の遊びにはほとんど参加しない。最近父親が足を怪我したとかでさらに家の仕事が忙しいと聞いた。

 喘息の話は波田野には話したことがある。誰にも言ってほしくないと穂高に頼まれて波田野は本当に誰にも話していない。家の手伝いと言っても力仕事が殆どで体つきも随分がっしりしており、日に焼けた顔は穂高と同い年とは思えない。体格だけでなく中身もしっかりした律儀な男だ。


「俺今月号もっとるから、買わんでええよ」


「えっ、買ったの?」


 波田野まで距離を取り出したのだろうかと穂高の心臓は嫌な音を立てた。


「ううん、兄ちゃんが持ってたから。友達と回し読みしてええか訊いたらええ言うたから、読み終わったら持ってくる」


「わかった。ありがとう」


 穂高はほっと胸を撫でおろした。波田野までよそよそしくなったらつらくて学校を休んでしまいそうだ。片親という共通の苦労も分かりあえるし、もともと放課後などには一緒に遊ばない友人なので、関係が変わらないのは今では波田野ぐらいだから。


 先生が入ってきて名前書けよーとプリントを配る。自分の名前を書きながら昨日の夜を思い出した。


『ようけ米採れそうじゃ』


 案山子の男はそう言って笑っていた。笑わないと目尻のほくろのせいで泣いているように見えた。ファンタジー好きの波田野に話したら面白がってくれるかもしれない。


「あのさ、昨日不思議なことがあったんだ。夜、田んぼの中で案山子が人間に……」


 そう言いかけて教師の話が始まった。波田野は片眉を上げて訝し気に穂高を見返しプリントに向き合った。

 

 今はいいか。もしかしてただの人かもしれないし。波田野が話に乗ってくれたら他のクラスメイト達も寄ってきて、以前のように話してくれるかもしれない。オチが分かってから話そうと思った。





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