スケアクローと白いシャツ

小鷹リク

穂高

 季節の変わり目、風が少しだけ冷たくなって気温が変化する折、穂高ほだかは喘息で使っている吸入器をたまたま家に忘れた。


 転校以来毎朝欠かさずチェックしていたのに、今日だけは入っているものだと思い込んで確認しなかった。


 三連休開けの火曜日、掃除中クラスメイトが箒を振り回して遊んでいて週末に溜まった埃が宙に舞い、屈んで床の拭き掃除をしていた穂高は咳き込み始めた。吸入器を使えばすぐに治まるものが使えず、咳が止まらずに苦しみだした穂高を見て誰かが教師を呼んだ。駆けつけた教師に悪気は無かった。


「お前ら何やっとう! 泉川は喘息なんやけ激しい運動させたらいけんやろ! お前らには大丈夫でも泉川には負担な事が多いんぞ。折角治療の為に田舎にやってきたのに何かあったら離れて暮らすお母さんに申し訳が立たん。気を付けないかんじゃろ!」


 転校の手続きの際くれぐれもよろしくと母親から直接挨拶を受けていた教師は穂高の様子を見て焦り、口外してほしくないと伝えていた情報を零した。


———喘息である事。実はその治療の為にここへ来た事。


 クラスメイトに嘘をついていたわけではない。教師たちには喘息であることを伝えていたが生徒たちには内緒にしておいてくれと頼んでいた。


 穂高が強く望んだからだ。それが不意に露呈した。


 一緒に遊んでいたクラスメイト達は申し訳なさそうな顔をした。知らなくてごめんと口々に呟いて距離を作る。


「みんな、大丈夫、僕……大丈っ……ヒューッ、ゲホッ……」


 喘息の事を話していなかったのだから知らないのは当たり前なのに、咳が止まらなくなったのはまるで自分たちのせいかのようにクラスメイトたちは後ずさった。


 大丈夫、すぐに治るから、そう言いたいのに空気を苦しそうに吸い込む音は止まらず、倒れ込むように膝をついた穂高は保健室まで運ばれ、預けていた予備の吸入器を保健医に出してもらい症状を落ち着かせた。初めての状況に心配した教師は穂高を家まで送った。


「病院行かなくていいかねぇ」


 連絡を受けて家に帰ってきた祖母が訊いたが穂高は青白い顔のまま大丈夫だとベッドから出ることはなかった。早退してしまったから授業を二つ受けられなかった。明日ノートを借りよう。いつもは迷う事もないのに、誰に借りればいいのか分からなくなった。穂高は机の上の吸入器を見つめて世話になっていた林医師との会話を思い出した。



「何か心に引っ掛かっているものがあるんじゃないかな?」


 カルテに書き込みながら医師が穂高に訊いた。それまでずっと月に一度の通院だったのに、二、三ヶ月程前から学校帰りに薬が切れたと吸入器を貰いに一人で病院へ来るようになっていた。


「どうして、そんな風に思うんですか」


「ん?」


 書いていたカルテから目線を上げて眼鏡をずらしながら医師が穂高に向き合う。看護師は忙しなくファイルを持って次の患者さんの準備を進めていた。穂高は看護師の様子を横目で見ながら医師の言葉を待った。


「君の症状の悪化は大気環境に因るところが大きいと考えられるが、前回よりもさらに炎症が酷くなってる。吸入器を使っていればこんな炎症は起こらない筈だよ。ちゃんと使っていないね。何か理由が?」


 レントゲンを確認しながらいわれて膝に乗せていた両手の拳を無意識にぎゅっと握りしめ、目を反らしたまま穂高は話した。出来るだけ冷静に、無闇に心配をかけないように努めて淡々と。


「無くしちゃうんです。僕、少し抜けてるから。目を離すとすぐ」


 医師は長いまつ毛に囲われた大きな瞳が以前よりも曇っているのに気づいた。


「……まぁ無くす事もあるよね。そんな大きなものでもないし。でも予備も三つは渡してるし、吸入器は一人で出歩かないよ」


「はい……」


「大丈夫、誰にも言わない」


 その言葉を聞いてハッとしたように穂高は顔を上げた。眼鏡を通さずに見つめる医師の目はとても真摯だった。この人なら話しても大丈夫かも知れない。穂高は口を開いた。


「始めは一人が揶揄いだしたんです。僕の吸入器がなくなったらどうなるのって聞かれたから僕は強がって、平気なんだけど念のために吸ってるんだ、って嘘をついたんです。本当は使わないと呼吸が苦しくなっちゃうのに。それがないと生きていけない欠陥人間みたいに思われるのが嫌で。それを人質みたいに思われそうで。


 中学になって他の小学校から上がってきた子達は僕の事をあまり知らないから見栄を張ってしまったんです。そうして嘘をついてしまってからは大っぴらに吸えなくなってトイレで吸ったりして誤魔化してたんです。


 そしたらあいつは体育の授業に出たくないからあんなもの持ち歩いてるんだって、本当は無くても大丈夫な体なんだぜって、変な噂が流れだしたんです。学校で喘息を抱えているのは僕だけで、余り症状を理解してもらえていなかったから。


 あいつはズルをして先生の同情を引いてる、マラソンもしなくていいんだ、卑怯だってどんどん話が膨れて行って、持ってる吸入器を隠されるようになって。それでも予備をいくつか持っていたし、運動を抑えている日は家に帰ってすぐに吸引して凌いでいたんですけどそれも限界になって……」 


 いたずらと言う名のイジメはどんどんエスカレートしてきていた。吸入器の次は体操服。その次は上靴。その内自分自身さえ隠されるのだろうと穂高は怯えて過ごしていた。


「―――お母さんには話したの?」


「いえ。心配させたくないし、仕事が忙しいので」


「友達は?」


 首を横に振って俯いた。


「学校の先生には?」


 また同じ様に首を横に振る。話している内に悔しさを思い出したのか涙がじわっと目に滲みだした。穂高はそれを見せまいとまた下を向いた。医師は優しく諭す様に話した。


「教えてくれてありがとう」


 柔和な笑顔の目尻には患者を和ませようと沢山微笑んだ分だけ皺が刻まれている。


「ここは黄砂が沢山飛んでくる地域だし、工場も多い。症状改善を望む患者にとってこの場所はいい環境とは言えない。実は君が中学生になっても症状改善が見られなければ空気の綺麗な所への転居を考えましょうとお母さんと話していたんだよ。タイミング的にはちょうどよいのかも知れない。移住する事をどう思っているのか聞かせてくれないか?」


 それから穂高と医師は十分くらい話し込んだ。体の事を第一に考え、本人の意向を聴きとり、医師は穂高の移住を薦めた。


 穂高の母親は中小企業に正社員で働いていて、転居となると正社員を辞めなければならない。片親なのだから経済的にも打撃になる。自分の体のために母親が頑張って勤めてきたそれまでを全部ふいにしてしまう気がして、穂高は一人で移住する事を決断した。喘息の所為でほとんど外遊びができなかった穂高は色白で、線の細さがさらにか弱い印象を与えたが、外見にそぐわず頑固だった。母親は心配したが母親の実家には祖父母もいるし、自分の事を誰も知らない学校に転校すれば、新しく生まれ変われるような気もしていた。嘘つき呼ばわりされずに、普通の中学生として暮らせる。転居が進んで内心ほっとした穂高だった。



 具体的な病状を新しいクラスメイトたちに話すことなく、激しい運動のある体育の授業は見学して過ごした。他の生徒たちが教師に訊いても、教師も体調が悪いんだと説明するだけだった。病気の事を言わないでほしいという穂高の意志は尊重されていた。


 大きな瞳はいつも潤んでいて綺麗な顔立ちをしているせいかどこか近寄りがたい雰囲気がある穂高は、一見ツンとしたように見えるのに、誘えば優しそうな笑顔で答えるので、転移先の生徒たちは穂高を病弱な王子様と言うポジションに据え、下世話な事を根掘り葉掘り訊いてくることはなかった。基本無口な穂高もどこが悪いのか追及される事がないので自ら説明することもなかった。



 空気の綺麗な場所で過ごし始めてすぐに喘息の症状は快方に向かい、月一回大きな街の総合病院で診てもらっていた定期健診も今では村の内科の先生に診てもらえばいいようになり、体育も軽い運動量のものならできるようになった。環境が変わるとこんなにも体が変わるのかと穂高自身がびっくりするほどに症状は改善した。


 だからといってすぐに気管機能が正常になるわけでもなく、自分から遊ぼうと誘う社交的なタイプではない穂高は変わらず持病の症状を隠した。


 片親であるというと「大変ね」と前の学校の同級生の親たちから憐憫の目を向けられ、喘息という症状が加わると「可哀そうに」とさらに同情されて居心地が悪かった。だから転校先では喘息であることは生徒たちには知らせないでほしいと教師に頼んであった。病気の重さを知らない友人たちは早く仲良くなろうと穂高を遊びに誘った。穂高がどれができてどれができないは分からない。誰も穂高の病気の事を知らない。だからこそ、それほど気を使わずに声を掛けられた。症状もみんなの前では軽い咳程度ですぐに治まる。穂高は不思議な自由を感じていた。このまま持病の事などなかったかのように過ごせるのではないかと思った矢先の出来事だった。


 酷い喘息の症状が学校で出た日からクラスメイトの様子がよそよそしくなり穂高はショックを受けた。


「俺ら友達やなかったんか」 

「なんで話してくれんかったじゃろ」

「王子様は田舎もんとは友達になれんて事か」


 友達なら話すべきだったと遠巻きになる状態が暫く続いた。みんなとの距離がどんどん遠くなっていくのが怖いのに、穂高には弁解や説明をする勇気がなかった。起きるのかな。そんな不安が穂高をさらに寡黙にさせた。


 皆が放課後下駄箱に集まって自転車で出かける計画をしていた。


「ナガサワまで時間かかるから荷物置いたら即山本んち集合な。お前あれ持って来いよ、この前借した本、田辺が見たいって言ってたから」


「りょうかい。じゃぁ後でな」


 みんなの会話を聞きながら穂高は隠れるようにして靴を履き替えた。


 話している店は村を南に下って一つ峠を越えた場所にあり、家からは自転車で三十分以上かかる。喘息の状態が随分よくなったとはいえ許容以上の運動量をするガッツはまだない。自転車は思ったより激しい運動で、坂道の上りはたくさんは漕げない。いつもなら喘息の事を全面に押し出すことなく断わっていた放課後の遊びが、実は喘息で自転車を長距離こげないからだとなると、今まで嘘をついていたような気がして余計に引け目を感じる。


 穂高が一人で帰る事はそれまでもたびたびあった。激しそうな遊びの誘いや遠方への自転車でのお出かけなど、運動量が予測できない場合は祖父母の手伝いをするのだと言って断っていた。田畑を持っている家庭が多く、そう答えれば誰も何も問わなかった。今は違う。誰にも誘われる事もなく、一人で帰る。


 世話になっている祖父母も夕方までは畑や田んぼの仕事をしているから送ってくれなどと気軽に頼めない。帰り道も迎えに来てもらわなければならない。誘われたとしても、どの道行けないから断る事になる。遊べないという状況は変わらない。なのにもう誘われないという事がとても苦しかった。


 一人の時間が続くとそれがだんだん当たり前になっていった。寄り道もせず帰り、宿題が終わればテレビを見る以外する事がない。再び退屈な毎日が始まった。誘われないだけで、別に避けられているわけではない。授業も普通に受けているし、昼休みには漫画の話で盛り上がる事もある。


 ただ孤独感だけが日に日に増して行った。話の輪に入りたいのに穂高も遠慮するようになった。まるで見えないアクリル板を据え付けられたようだ。


「いじめられないだけマシか」


 冷めた感覚を持つ方が楽な気がして、気にしていない態度を貫く事にした。微妙な距離がさらに穂高を孤立させていった。



 祖父母は畑仕事から帰ってくると何か困ったことはないかと毎日穂高に聞く。心配させたくない穂高は何も問題ないと愚痴をこぼすこともなかった。訊かないと自分からは何も話さない穂高を見て祖父母は頻繁に母親へ連絡した。


「今日も早よ帰ってきたえ。あんまり元気なさそう。なんかあったのて訊いても何も言うてくれんから」


「思春期だから難しいんよね、ちょっと変わってくれる?」


「穂高ー。お母ちゃん」


 祖母に呼ばれて穂高は面倒くさそうに受話器を受け取った。


「穂高、体調どう? 学校は?」


 林医師は母親に転居を薦めた際、デリケートな歳だから学校生活の安定が何より大事だと助言した。一人息子が離れて暮らすのだから心配は尽きない。


「大丈夫。この前吸入器忘れて咳ひどくなったから少しの間おとなしくしてるだけ」


「そう、あれから胸は、痛くない?」


「大丈夫」


「なんかあったらすぐに連絡してよ。次そっち行けるの月末になると思うけど」


「いいよ、こっち何もないし」


「買い物一緒に行こう、高山のモール連れて行ったげるから。欲しいものあるでしょ、服とか」


「要らない」


 新しい服を買ってもらっても今は遊びに行く友達がいない。以前は村の店に置いてない流行りの靴や服など買いたいものがあったのだが今は欲しいものがない。


「穂高、ごめんね、お母さんが一緒にいられたら……」


「心配しすぎ。どうせすぐに高校だから」


「高校、行きたいとこそろそろ考えてるの?」


「それは、まだだけど」


「いいのよ、焦らなくても。穂高は成績いいから好きなとこ行けるよ」


「そんなに甘くないけど」


「うん、穂高……ごめんね、お母さん、もっと強い体に産んであげてたら」


「母さんの所為じゃない。ただの喘息。よくなってきてるし、運動もできるようになってる。いつも電話で湿っぽくなるのよくないよ」


「うん……」

 

 母親の鼻を啜る音が聴こえるとこっちまで切なくなってくる。ごめんねはこっちのセリフだと穂高は思う。


 母さんを一人にしてごめんね、体弱くてごめんね。母親の所為だなんて一度も思ったことはない。いつも自分の味方でいてくれる母親がいたからこそ生きてこれた。父親がいなくなっても一人で穂高を育ててくれた。感謝こそすれ謝られる筋合いはない。傍にいて母親を支えるべきなのに、自分だけが現実から逃げている気さえした。嫌な事から逃げて、自分をさらけ出すこともできずにまた意地を張って病気の事さえ正直に言えないでいる。きっとどこかでばれるのに、ちゃんと話さずに逃げてきた自分にツケが回ってきたような気がしていた。


「穂高、今度行くとき何食べたい?」

 

 母親が努めて明るく訊く。


「ハンバーグ」


 穂高もできるだけ気にしない素振りで答えた。


「オッケー。じゃぁ月末楽しみにしててね。おばあちゃんたちにも食べたいもの言って作ってもらったらいいから。孫なんだから甘えていいのよ」


「うん。わかった。じゃぁね」


 聞き分けの良いふりをして電話を切った。祖父母は母親が思っているほど暇ではない。朝から畑仕事をし、家の中の掃除や洗濯、買い物、食事の準備、季節の保存食の準備もしなければならないし、裏山の整備もしていた。参加しなければならない村の寄り合いもあるし田舎暮らしは思ったよりも忙しいものなのだと穂高はここへ来て初めて知った。


 都会は便利にできていて、何もかもお金で買えば済むが逆に言えばお金がなければ何もできない場所だと思った。ここで住ませてもらっているのも祖父母にしてみれば負担には違いない。あれが食べたいこれが食べたいなどとわがままを言うつもりはない。ただ母親の手前、うんとしか言わなかった。気を使っていると知ればさらに心配を増やしてしまう。


 寂しそうにしていると祖父母がまた母親に連絡をいれるだろう。明日こそはみんなに話してみよう。そう思うのに勇気が出ない自分が情けなかった。前の学校の時のように嘘つき呼ばわりされたらどうしよう。そんな不安ばかりが先走り怖くて本当の事を話せない。


 時計を見るとまだ八時だった。母親と話して少しは元気が出たが体の中のもやもやは消えなかった。体を動かせばちょっとは発散できるかも知れないと、祖父母に声を掛けて散歩に出かけた。吸入器を念のためにポケットに入れる。


 祖父母の家の前の道路を挟んだ向かい側には一面田畑が広がる。一軒隣は三百メーターも先だ。ぽつりぽつりと県道に外灯は立ててあるものの、ひっそりとした夜の田んぼは少し怖い。


 以前住んでいた街のこの時期はクーラー無しでは過ごせないほど暑かったのに、ここの夜はすでに涼しく何なら肌寒いとさえ感じる。冬に雪は積もるのだろうか。景色を想像しながら道を渡って田んぼの間の畦道を山側へ向かって歩いた。


 同級生たちは皆同じ小学校を卒業し、同じ中学に入っている。穂高は都会からやってきた余所者だ。なのにみんな優しかった。優しすぎるくらいだ。仲良くしてくれていたクラスメイトたちに正直に言えなかったことも、ばれて余計な気遣いをさせている状況も何もかもが自分の所為だと思うと頭が痛い。


 穂高は苛立ちに黄色く色づいている稲穂の頭をばしりと叩いた。ぱちんぱちんと稲穂同士が当たって揺れ、小さく音が鳴る。歩きながらいくつも穂をはたいて進んだ。もう後一か月もすれば稲の収穫だと祖父が煙草をふかしながら呟いていたのを思い出す。コンバインを整備しないといけないらしい。それを手伝えるほどの体力は穂高にはまだない。


 ざわざわと山間から流れてきた風が稲穂を撫でながら田んぼを北へ上っていった。ふと気配を感じて穂高は田んぼの中に立てられている案山子を見た。白いTシャツにジーンズを履いた随分若い恰好の案山子だ。


 他の田んぼの案山子はもんぺや着物らしき服を来ているのにその案山子だけ違う。へんな案山子だと思った途端それが動いた気がして目を凝らした。


 案山子は突如グラグラと根本から倒れ、その場所から同じ格好をした人間がそこにのそりと立ち上がった。 






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