ヒゾウの子ら

木船田ヒロマル

高校2年生の春

「あなたが私に気持ちを打ち明けたら、この世界は終わってしまう」


 彼女のその言葉は、春の夕暮れの風を切り裂き、甘い痛みを伴って僕の胸にしっかりと刺さった。


「だから、駄目」


 先輩の卒業を間近に控え、言うなら今しかないと思っていた。断られるだろうがそれでも構わない。見事に散って先に進もう。そんな考えすら浅はかで、僕の初恋は告白すら禁じられるという予想外の展開で唐突に幕を閉じた。


 宵闇よいやみの気配が濃くなる濃灰色の空の下。市街地と住宅地を貫いて横たわる線路の、高く長いフェンスが隔てるその脇の道。地形に沿って波打つように横たわる歳経としへたアスファルトの歩道を先輩と並んでとぼとぼと歩いていた僕は立ち尽くして動けなくなった。先輩は四歩先へ歩いて立ち止まった。


「……理由、聞いてもいいですか」


 どこかの家の夕餉の匂いを孕んだ風が吹いて僕を通り過ぎ、先輩の前髪を揺らした。先輩は、吐きかけた息を堪えたように見えた。


「私は信仰を持っているの」


 重ねての全く予想外の返答にただでさえテンパっていた僕の頭は完全に混乱に陥った。


「信仰? その、宗教ということですか?」

「そう。それも……ちょっとマイナーなね」


 一瞬、僕を傷付けずに振る為の先輩の優しい嘘かとも疑ったが、その説を取り下げるのに充分な程に、先輩の声には重たい真実味の響きがあった。


「困るでしょ、小野くんも。そういう相手」


 待って。ちょっと待って。なんて言えば。なんて言えばいいんだ。


「因みに、騙されて困ってるとか、やめたいのに抜けられないとか、そういうのじゃないから。信仰は私の一部で、生き方なのよ」


 なんだよそれ。なんだよ……それ。


「先輩……」


 僕は先輩に歩み寄ろうとしたが、先輩は目線でそれを制した。夕闇は急速に街全体に染み込んで、景色は黒い輪郭とシルエットに変わってゆく。

 

 先輩の姿も、春の日暮れの涼やかな闇の中に静かに沈んでゆく。


「あのっ、あ、こんなこと訊いていいのか分からないんですけど……先輩の信じるご宗教っていうのは……」

「ヒゾウの子ら。私たちは、自分たちのことをそう呼んでる」


「ヒゾウの、子ら」


 何教だよそれ。本当に聞いたこともない……ヤバイ宗教なのか? いや、そうだったらそんなこと全部隠して、僕も勧誘したりセミナーに連れ込んだりするもんじゃないのか……?

 線路の向こう岸で左折した車のライトの光が、すーっ、と先輩を照らして通り過ぎる。

 先輩は僕を見ていた。

 申し訳無さそうな、複雑な表情で。


「ごめんなさい」


 僕の喉がコッ、と小さく鳴った。

 何かを言わなければと思うのだが、言葉がなにも出ないのだ。

 先輩にごめんなさいを言わせた罪悪感が胸を満たすが、かと言って僕もまた先輩に謝罪するのは違う気がした。


 先輩は線路を囲む高いフェンスの切れ目に向かう。踏み切りは死んだように沈黙していた。


「あなたには、そちら側にいて欲しいの」


 どこか寂しげな微笑み。


 カン!カン!カン!カン!カン!……


 突然の甲高い鐘の音と眩しいほどに明滅する真っ赤なランプ。

 

「じゃあね」

「あ…………」


 先輩がくるりと背中を向ける。

 体中の焦りがへそのすぐ下辺りに凝集してジンジンと痛む。しかし言葉の一つも出てこなければ、みじろぎの一つもできやしない。


 カン!カン!カン!カン!カン!……

 明滅するランプ。踏み切りを照らす水銀灯に、夢のように浮かび上がる先輩の後ろ姿。

 黄色と黒のビニールが張り付けられた竹竿が、雑にたわんで揺れながら僕と先輩の背中とを遮る。


 ゴウッ


 唸りを上げて通過する電車が視界の全てになる。

 カン!カン!カン!カン!カン!……

 タタンタタン、タタンタタン、タタンタタン、タタンタタン、……


 電車が去ってゆく。

 一切が黒々とした景色の中、先輩の背中はもう見えない。

 黄色と黒の竿が機械的に上がってゆく。

 空は黒とグレーの雲が縞を作っていて、その陰鬱なツートンカラーに覆われた世界は全てはふるふると揺れて滲んでいた。

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