第2話 ノスタルジア

 あの頃、毎日僕に新聞を届けてくれたのは近くに住むおじいちゃんだった。ちょっと顔が怖い、だけど、初めて勇気を出して彼に話しかけた時のあのクシャっとした笑顔は、今でも忘れられない。

 

 彼は、自分はずっと古くからここに住んでいたと言う。そしてつい最近、長年してきた仕事を引退し、暇つぶしがてらこの新聞配達の仕事を新しく始めたそうだ。若い頃は苦労の連続だったそうで、額に刻み込まれた幾重もの皺が、それをよく物語っていた。そんな話が出来るまでに、気が付けば僕とおじいちゃんは仲良くなっていた。

 

 毎日の朝の時間が楽しくなった。あの朝特有の、学校に行きたくないなというダルさも、彼が鳴らすインターフォンの音を聞くだけで吹き飛んだ。そんなある日だった、彼が突然配達に来なくなったのは。一日、二日、三日、「おはよう、起こしに来たぞ。」の声が、もう三日も途切れていた。居ても立ってもいられなくなった僕は、人伝に彼の住む家を突きとめ、彼が配達に来なくなってから4回目の朝を迎えたその日に訪れた。


 彼は引っ越していた。呆然とした。暫くすると、なんで僕に教えずに、という感情が沸沸と湧いてきた。と同時に、新聞配達員であるおじいちゃんが、幾ら仲が良かったとは言え、僕に教える義務など微塵も無かったことに気付いた。言い知れぬ喪失感が胸一杯に広がり、僕は唇を噛みながら踵を返して家に帰ろうとした。


 でもその時初めて、どれだけ、彼とのあの他愛も無い雑談に自分が励まされていたかに気付いた。彼はただ新聞を届けただけではない、小さな愛も届けてくれたのだ。もう一度彼の家だった場所を見た。そして声には出さず、ありがとうと呟いて漸く帰路についた。足取りが少し軽くなった気がした。

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