来たるべきもの

雨宮吾子

来たるべきもの

 堤の上をしばらく歩いていた。どこか低いところから響いてくる音が耳の辺りで囁いている。低くか細い音はいつからか意識の上に登ってきたけれども、いつしか意識の外に退いてしまった。そうして無意識に近いところで歩いていくうち、またしてもどこかから低くか細い音が意識の上に現れるのだった。

 野分を先触れするかのような、荒っぽく、それでいて小役人のような心細さの風が唸っている。空を見上げれば筆を走らせる前の紙のような雲が、やはり荒っぽい風に蹴散らされていく。彼方を見れば、夕立つのも遠くはなさそうだ、と今更のように実感した。上空で吹き荒ぶ風を見つめながら、今この大地を走り抜けていく生温い風に触れながら、しかし久しぶりに実感として腕に抱いたものは遠く感覚からはかけ離れたところの理性というものだった。いっそ雨が降れば感覚に訴えるものも強くはなるだろうが、しかし心の根本に問題があるのか、あるいは外界を感じる機関に故障があるのか、いずれにしても例え一雨打たれたところで何かを実感することはできないだろう。病を得て頭をぐわんぐわんとさせながら、妙に研ぎ澄まされた感覚の中で肉体の重みを感じながら、昨日の自分を恨むくらいが関の山だ。

 どこまで行っても答えがないのだからと、自分は着物が汚れるのも構わずに法面に腰を下ろした。算盤の延長線上にある水の流れを眺めやりながら、自分がこうして生きて歩いて考えることもまたどこかの誰かが算盤を弾いた結果としてあるのだろうかと考えたりした。だとしたら何たる悪趣味だろう。雨に打たれるよりも早く身震いがした。更に考えを進めれば、こうして考えている事柄もまた覗かれているかもしれないとすら思えてくる。さすがにそのようなことを考えるのは病的であるといえたが、それでも一度考え始めたことは容易に止まらない。人は誰しもが自分の懐に禽獣を忍ばせている。この大地にその現象が起こるかどうかは分からないが、いわゆる文明というものが、その進歩を旨とする運動が進められていくのであれば、いずれはその一頭一頭が野に放たれる日が来るやもしれない。もしそうなれば、この地平は焦土と化すだろうか。それとも、「楽園」が来るだろうか。

 鼻先に当たった雨粒が、ようやく自分の考えを押し留めた。本格的な雨もすぐそこへ迫っている。自分はその雨の、「自然」の循環というものを思いながら、再び目の前の水の流れに視線を向けた。すると、川上から流れてくるものがあり、それはもちろん大きな桃などではなくて、一艘の舟なのであった。舟といっても大層なものではなくて、童の手のひらに収まるかどうかといった程度の大きさである。材質は藁で、いかにも童の仕事といった風の出来栄えに見えたが、水面を渡っていく風の強さからは信じられないほどに頑丈な仕掛けが施してあるようでもあった。ふと、郷里の祖父を思い出した。自分の幼い頃に亡くなった父の面影を自分は祖父に見出すことはできなかった。教えてもらったことといえば、この邦が辿ろうとしていた運命とは何の関係もない生活の様々であり、そのために自分は今もこうして生きており、またそのために自分は立身出世などとは程遠いところを彷徨している。

 それにしても、あれは幼い頃の自分が編んだ舟だ。そのことを知りながらも気付かないふりをしたのは、それがまさに畏れ多いことであったからだ。ようやく自分のところにも迎えが来たか、こうなった以上は冥土へ行くのも仕方ない。そう思った自分は恐れることなく立ち上がり、法面を駆け下りて手近にあった棒きれを掴み取り、藁の舟を引き寄せようとした。その動作が荒かったのか、その衝動があまりにも強かったのが悪かったのか、舟はくるりと、まるで意思があるかのような仕草で対岸の方へと向きを変えてしまった。そうしてそのままどこへ流れ着くこともなく、下流へと流れていくのであった。

 自分はいよいよ混乱してしまった。これは何を意味しているのだろうか、と。何もかもが分からず、何もかもが信じられない心理に自分は陥った。藁の舟は自分を迎えに来たのではなかったのか。そうであるなら、自分はこの地平に生き続けなければならないのか。己の運命というものを知らないまま、自分は頭を垂れて意気揚々と駆け下りたはずの法面を登っていくのであった。

 自分は堤の上を再び歩き始めた。生きているのだという実感もないまま、再び低くか細い音が耳の辺りを挑発し始めた。雑草を踏みしめるのと風の唸るのとが交わる中で、自分はその低くか細い音が自分を呼ぶ声なのだということにようやく気付いた。そして、その声を発しているのは遥か彼方にいる私自身なのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

来たるべきもの 雨宮吾子 @Ako-Amamiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ