第5話 非日常への飛翔 (第1章 完)
教室から俺を連れだした春山紅葉は、そのまま散歩中の犬のような足取りで廊下をまっすぐ進み続けていた。俺たちの
だがそれを気にしないのはもちろん春山だけで、俺はというと、そんなモーセに割られた海みたいな生徒たちから向けられる好奇の視線にびくびくとしていた。ああ、なんだか動物園にいるサルになった気分だ。いっそ何かモノでも投げつけてやろうかしら。何かないかとポケットをまさぐるが、残念ながら特に投げつけられそうなものはない。まったく、こんなことならあんぱんの袋を捨てるんじゃなかったぜ。
……まあ、仮に何かあったところで投げつけるはずもないんだけどな。ただの気持ちの問題だ。見世物じゃねぇんだぞ、と。
そんな俺の気持ちなど知ったことではないという様子で、春山紅葉は教室をいくつか通り過ぎると、廊下の角を曲がって、階段を上がっていく。思うに、どうやら彼女は屋上へと向かっているみたいだった。
おそらく春山の目的は指輪だろうと俺は考えていた。M・Hと銘が刻まれたあの赤い指輪だ。というか、彼女が俺を
果たしてそれを証明するかのように、春山紅葉は三階から屋上へと続く階段に差し掛かったところで、
「……先輩。さっき屋上で何か拾いませんでしたか?」
と訊いてきたので、もちろん俺は頷いた。
「拾った。なんか赤い指輪みたいなやつ」
「……やっぱり。だから……」
何が、だから……なのかは解らないが、俺としても言いたいことがある。
なあ、春山よ。指輪のことだったら教室で言ってくれればよかったんじゃないのか? あの場で返してくださいとでも言えばそれで済むことだったんじゃないのかよ?
それをこんな
……いったい、俺はあとでどんな
まあ、そんなことを実際に春山に言ったところで、きっと飼い主に怒られているシベリアンハスキーばりにきょとんとした表情を浮かべるだけだろう。まだ彼女と出会って間もないが、俺はそれを容易に想像することできた。
そして遂に俺たちは屋上へとたどり着いた。
屋上に入るとき扉には錠前がかかっておらず、彼女があらかじめ外しておいたのかと俺は思ったが、なんてことはない。よくよく考えてみると、俺がさっき閉め忘れていただけのことだった。
まあそれはともかく、屋上に出た俺たちは昼休みのときと同じ場所まで歩みを進めた。春山があんぱんと牛乳をシマリスのように頬張っていたあの柵の場所までだ。
春山はそこでようやく俺の腕から手を離すと、おもむろにブレザーのポケットからスマホを取り出して耳に当てた。
どうやら誰かと電話をしているらしい。
「……わたし」
「……うん。やっぱり先輩が拾っていたみたい……」
「……どうしたらいいの?」
「……わかった。じゃあ今からそっちに行くから」
相手の声は聞こえなかったが、春山紅葉はぽつぽつとそう言って通話を終えると、スマホをまたブレザーのポケットにしまった。
そしてちらりと柵にもたれかかっていた俺に流し目を向けると、
「……それで、あの、先輩……」
と、なぜかもじもじとして俯いてしまう。顔のみならず耳まで真っ赤っかだった。
なんだかその様子がまるで告白する直前の女の子のようで。
てっきり指輪を返してください、とでも言われるもんだと思っていた俺は困惑するしかなかった。
え? なんだよ、この雰囲気? もしかして本当に告白でもするのか?
なんだかドギマギとし始めた俺がちょっと空でも眺めて落ち着こうとしたその瞬間、えいっという
——抱きつかれた。
もう一度言う、抱きつかれたのだ。
春山紅葉が、俺に、抱きついてきた。ハグされたと言ってもいい。
「え、おい、ちょぉ!!」
あわてふためく俺を襲うのは、ふわふわと彼女の髪から漂うアイリスの花のような香りと、ふにふにと制服越しだが確かに感じる女の子の柔らかい感触。
ああ、こいつ、結構着痩せするタイプなんだなと思ったのも
「……それじゃあ飛びます。しっかりつかまっててください、先輩」
「……へ……とぶ……?!」
意味不明な宣言のすぐ後、俺の身体を名状しがたい感覚が
例えるなら、レールの頂点へとたどり着いたジェットコースターが折り返した時のような、乗っているエレベーターが階下に向かっている時のような感覚……。
ああ、そうだな。名状し難いとは嘘だ。
俺はたんに現実を認めたくなかっただけで。
そう。つまりは、
——俺は落下していたのだ。
屋上から地面に向けて、春山紅葉が俺を抱えて頭からダイブするという最悪な形で。
「ぅうわぁぁぁ! な、なにしてくれんだぁぁ春山ぁ!! 死んだぁ!! これぜったい死んだぁぁぁ!!!」
屋上から地面までは
死地に
地面までの一秒ちょっとの
だがそんなコマ送りのような世界でも、無情にも地面はどんどんと迫っていて。
あぁもうダメだぁ……。
死を覚悟した俺の頭に、これがさいごとばかりに春山紅葉の顔が浮かんで消えていった。ああ、この状況をつくった
そして俺はあえなく地面に激突——。
……することはなかった。
ぐんっ! と、まるで命綱に引っ張られるような感覚があったと思ったら、たった今まで地面を見ていた俺の視線の先にはなぜか校舎が見えた。普通の校舎ではない、豆粒のように小さくなった校舎だ。
「な、なな、ななな!」
言葉にならない声が俺の声帯から漏れ出す。
眼下には
ああ、なんて綺麗な景色なんだ。
と、思わず唸りながらも、徐々に思考が現実に追いついてきて、——それでも俺は
目の前の光景が信じられなかった。
人が空なんて飛べるわけない。だが、現に俺はいま空を飛んでいて。
理解のしようがない現実に、
そんな俺の様子など意にも介さず、機械のように冷静な口調で、俺のことをずっと抱きしめていた春山紅葉は言った。
「……一〇分ぐらいで着くと思いますので、それまで落ちないようにしっかりつかまっててください」
その落ち着いた声は、春山紅葉にとってはこれが当たり前で。
どこにだよという疑問も、なんで空飛んでんだよという疑問も、頭からすっぽりと抜け落ちてしまい……。
ただ俺はその
「——もうなんでもいいからちゃんと説明してくれぇぇー!!」
俺の悲鳴にも似た叫びは、五月のうららかな大空の中を
もし、この時の様子を
だがもちろん、そんなことは俺の知ったことではない。
このときの俺は目まぐるしく変わっていく現実の状況から目を背けるように、ただただ絶叫するばかりだった。
こうして春山紅葉との
それはまったくの突然で、まるで台風のように暴力的に訪れた世界。
俺は今後、そんな世界に
——はぁ、いったい、俺はどこで選択肢を間違えてしまったのだろうか。と。
ああ、でも、もちろんそれは決まっていた。
この日、昼休みに屋上で春山紅葉に声をかけてしまったことだ。さらに言えば、そのあと指輪を拾ってしまったことも。
そしてひいては、その遠因は天城の話をいい加減に聞いていたことにあるわけで。
はぁ、やっぱ人の話はちゃんと聞くものだよな……。
と、過去に戻ってあの時の俺をぶん殴ってやりたいと思いながら、もちろんそんなことなどできるはずもない
——いったい人生とは世知辛いものである。と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます